安宅産業人事を通じた創業家支配の継続と、住友商事との対等合併の撤回
株式所有と経営支配が乖離したとき、トップの独走を止める牽制はどこにあったのか——安宅英一会長を戴いた体制をめぐって
- 概要
- 1955年5月に安宅英一氏が会長へ就いてから1977年の消滅まで、社長も株式も創業家の手を離れたまま、会社の重い選択が創業家を会長に戴いた体制の下で決まり続けた経緯である。1966年には住友銀行頭取の勧めでいったん合意した住友商事との対等合併が安宅側の反対で流れ、1969年には越田左多男社長から市川政夫社長への交代が起きた。
- 背景
- 社長の座は1942年5月に創業者の安宅弥吉氏が退き、1945年10月に旧役員の大部分が退陣して神田正吉氏へ移ったのち、創業家へ戻らなかった。1955年9月の大株主名簿でも、発行済6,000,000株のうち首位は安宅共済会の417,650株で、安宅英一氏個人は81,400株の9位にとどまる。
- 内容
- 1966年ごろ、住友銀行頭取の堀田庄三氏が安宅産業の将来を心配して住友商事との合併を勧め、両社は対等合併でいったん合意しながら、後日、安宅側の反対で流れた。1969年には越田左多男氏が社長を退き、市川政夫氏が就いた。交代の理由や決めた主体を記した同時代の資料は残っていない。
- 含意
- NRCとの取引は担当常務と副社長、社長の3人で決まり、役員会での実質的な討議はなかった。合併という外からの牽制も、役員会という内からの牽制も働かないまま拡大路線が進み、1977年10月、安宅産業は伊藤忠商事へ吸収合併されて73年の歴史を閉じた。
だれが反対したかを記した紙が無いということ
頭取の勧めで両社がいったん合意した対等合併が、安宅側の反対で流れた。1966年のこの一件に、安宅産業の統治の像が浮かぶ。社長の座は1945年に創業家を離れ、株主名簿からも創業家の名は消えていたのに、会社の重い選択は創業家を会長に戴いた体制の下で覆った。だれが反対したのかを記した資料が残っていないこと自体が、決定の所在の見えにくい会社であったことを示しているとみることができる。
ただし、創業家の存在だけで破綻を説明することはできない。NRCとの取引を3人で決めた意思決定も、無理な多角化も土地投資も、直接の担い手は執行の側にあり、住友銀行は危機が表面化するまで融資を続けた側でもあった。合併が実現していればという堀田氏の悔恨も、その後の歩みを知る者の後知恵である。牽制が欠けていたというより、牽制の要る場面で名乗り出る者がいなかった記録として読むほうが、この会社の20年余りには近いかもしれない。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
社長も株式も創業家を離れた会社
安宅産業は、1904年7月に安宅弥吉氏が大阪で興した個人経営の安宅商会を母体とする。米や砂糖、木材、非鉄金属の輸出入から出発し、1919年11月に資本金300万円の株式会社となった。第一次大戦後の不況に対処するため官営八幡製鐵所が設けた四社指定商制度では、三井、三菱、岩井とともに指定され、鉄鋼流通に足場を築いた。社長の座は長く創業家にあったが、1942年5月に弥吉氏が退いて安宅重雄氏へ移り、終戦後の1945年10月には旧役員の大部分が退陣して神田正吉氏が社長に就いた[1][2][3]。
1955年5月、数次の増資で資本金が3億円となって2年後に、安宅英一氏が会長へ就いた。同年9月の大株主名簿では、発行済6,000,000株のうち首位が創業家系の安宅共済会の417,650株、住友銀行と東京海上火災が各300,000株で、英一氏個人は81,400株の9位にとどまる。1961年3月には上位10位を銀行と生損保、証券が占め、名簿から創業家の名は消えた。1975年3月も筆頭は住友銀行の8.54%で、協和銀行が4.99%で3位に入っている[4][5][6][7]。
決断
住友銀行が勧めた対等合併と、その撤回
株主名簿の上では動かせないはずの会社が、実際には創業家を会長に戴いた体制の下で動いた場面がある。住友銀行頭取だった堀田庄三氏は1966年ごろ、安宅産業の将来を心配して住友商事との合併を勧奨し、両社は対等合併でいったん合意した。ところが後日、安宅側の反対で話は流れる。のちに副頭取として安宅問題の処理に当たった磯田一郎氏は、危機のさなかに連日開かれた役員会で、堀田会長があのときの合併が実現していればという想いを抱いていたはずだと書き残している[8][9]。
住友銀行が再編を促した相手は安宅産業だけではない。40年不況の当時には伊藤忠商事の首脳も堀田頭取に呼ばれ、業績不振の弁明を求められたうえ、あわや住友商事との合併を迫られる一幕があったと日経ビジネスが伝えている。傷んだ商社をグループの本流へ寄せる再編は、銀行の側から見れば当時の常道であった。安宅産業でその再編が止まった理由を、住友銀行側の記録は安宅の反対とだけ記す。会長個人が反対に回ったと書いた同時代の資料は見あたらない[10]。
越田左多男社長から市川政夫社長への交代
1968年の安宅産業は、取締役会長が猪崎久太郎氏、取締役社長が越田左多男氏だった。その越田氏は翌1969年に社長を退き、後任には市川政夫氏が就いた。1933年に安宅商会へ入って木材畑を歩き、木材部門を稼ぎ頭に育てた実績が就任の裏づけで、1968年に副社長を経ての昇格である。56歳は十大商社で最年少だった。交代の理由と、それを決めた主体を記した同時代の資料は残っていない。日経ビジネスは、安宅一族の支配が強まり社内が沈滞し始めていた時期の社長就任であったと書いている[11][12][13]。
市川社長は鉄鋼と化学、木材に偏った体質を改めるために多角化を進め、その一環として石油精製事業への進出を計画した。通期売上高は1969年3月期の4,467億円から1973年3月期には1兆421億円へ伸びる。もっとも同じ1973年3月期の経常利益は52億円にとどまり、規模の拡大に見合う利幅は出ていない。投資の資金は借入で賄われ、1975年9月期末の借入総額は5,248億円に達した[14][15][16]。
結果
役員会を通らなかった意思決定
合併という外からの牽制が働かない一方で、会社の意思決定は役員会からも離れていた。カナダの石油精製会社NRCとの取引を決めたのは担当常務と副社長、社長の3人で、役員会での実質的な討議はなかったと日経ビジネスが報じている。同誌に語ったある事情通は、NRCのジョン・シャヒーン社長がいかがわしい人物であることは少し調べればわかったはずだと指摘し、役員に経営者としての自覚があり自由に物を言える雰囲気であれば、危険な取引は未然に防げたはずだとも述べた[17][18]。
取引銀行の側からも、経営の緩みは見えていた。処理に当たった磯田一郎氏は、かつての安宅産業には金庫番の監査役が銀行の店頭まで来て当座預金の元帳をじっと確かめるほどの堅実さがあった、とふり返る。そのよき伝統が崩れ、昭和40年代後半には背伸びした経営に傾いて無理な多角化と業容拡大をはかり、不毛な土地投資をしたり高価な絵画を集めたりして、いささか乱脈になっていたと記している[19][20]。
合併の勧奨から11年後の吸収合併
1975年12月半ば過ぎ、業界9位の安宅産業の経営危機が表面化した[21]。経常損益は1975年3月期の39億円の黒字から1976年3月期は151億円の赤字へ転じ、1977年3月期には311億円の赤字を計上する。住友銀行から救済合併を要請された伊藤忠商事は1976年1月12日に業務提携を発表し、市川社長は同年6月に経営責任を取って辞任した。1976年12月29日の合併覚書調印を経て、1977年10月1日、安宅産業は伊藤忠商事へ吸収合併された[22][23][24]。
代償は広く及んだ。銀行は16行で合計4,100億円の貸金を焦げ付かせ、住友銀行は1,132億円を一括償却する。1976年3月期に3,681名を数えた社員のうち、合併で伊藤忠商事へ移ったのは1,058名にとどまった。安宅英一会長の主導で1951年から26年かけて会社が集めた東洋美術のコレクションも散り、中国陶磁約150点と韓国陶磁約800点は1982年開館の大阪市立東洋陶磁美術館へ、速水御舟の作品106点は山種美術館へ渡った。堀田氏が合併を勧めてから、11年後のことである[25][26][27][28]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- 株式会社年鑑 昭和31年版
- 株式会社年鑑 昭和37年版
- 日本企業要覧 1975年版
- 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
- 私の住友昭和史(津田久 編著, 東洋経済新報社, 1988)
- 日経ビジネス 1972年5月15日号
- 日経ビジネス 1976年6月21日号
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- 日経ビジネス 1978年3月13日号
- 日経ビジネス 1978年6月19日号
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
- 週刊東洋経済 2008年5月31日号
- 銀行時評 11(3)(1977年3月)
- 安宅産業 有価証券報告書(1969年3月期・1973年3月期)
- 安宅産業 有価証券報告書(1976年3月期・1977年3月期)