海外進出と現地生産
戦後の日本企業にとって、海外は製品を販売する市場であり、生産する場所ではなかった。設備は国内に集約し、販路は商社に委ね、為替は固定相場で安定していた。生産量を増やすほど単位原価が下がる以上、国内の設備で輸出を伸ばせるかぎり、海外に工場を持つ理由はなかった。しかし、国内で生産して輸出するという前提は一度に崩れたのではなく、年代ごとに異なる理由で輸出の経路が塞がれた。
最初の障壁は関税であった。輸入代替政策をとった国々は完成品の輸入に高関税を課し、国内で組み立てる企業にだけ市場を開いた。輸出では参入できない以上、障壁の内側に工場を建設するほかなかった。豊田自動織機はメキシコ豊田を設立し、東レはタイで合弁2社を設立した。
次の障壁は為替である。ニクソンショックと変動相場制への移行で、固定相場を前提にした採算計算が成り立たなくなった。船井電機は生産を国外へ移し、キッコーマンは米国に醤油工場を建設した。
三つ目の障壁は、輸出数量そのものの制限である。日米の貿易摩擦が経営の前提になったのは1980年前後である。輸出自主規制は価格でも品質でもなく台数に上限を課したため、国内でどれだけ低コストで生産しても輸出は増加しなかった。ホンダは四輪の北米現地生産に踏み切り、トヨタ自動車はGMとの合弁NUMMIを設立し、日産自動車は英国サンダーランドに工場を建設した。その結果、北米は各社が競って拠点を開設する地域になった。
最後の障壁は円高である。プラザ合意後の円高は国内の価格体系を崩し、採算の悪化は完成品メーカーだけでなく、部品と素材を納める企業にも及んだ。取引先が需要地へ移れば、納入企業も同じ地域へ移転せざるをえない。上村工業は顧客の海外移転に追随して10か国へ拠点を開設した。
つまり、進出先は市場の大きさではなく、輸出を阻んだ条件のある場所で選ばれた。需要地で製造して需要地で販売する体制は、こうして防御の積み重ねとして出来上がった。ただし、その工場をどう運営するかは、建設後に別の課題として現れる。
財務諸表のどこを見るか
「設備の状況」で国内と海外の設備投資額を比べる。現地生産へ切り替えた企業は、国内工場の投資が維持更新の水準に収まり、増産投資が海外へ寄る。次にセグメント情報の所在地別内訳を開き、売上高だけでなく有形固定資産の地域別残高を確かめる。売上が海外でも資産が国内にとどまっていれば、それは輸出であって現地生産ではない。「関係会社の状況」では現地法人の設立年と議決権所有割合を追い、合弁から完全子会社へ持分を引き上げた時期を特定する。