豪州での食肉垂直統合と牛肉輸入自由化への備え

ハム加工にとどまるか、食肉そのものを握るか——牛肉輸入自由化を見据えた豪州への先行投資

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時期 1991年4月
意思決定者 大社義規 社長
論点 海外食肉調達基盤の構築と自由化対応
概要
1977年の米デイリーフーズ買収と1978年の豪州進出に始まり、日本ハムは1987年から1990年にかけて豪州でと畜・加工・流通を垂直統合し、1991年4月の牛肉輸入自由化に備えた。1988年3月期からの3年間で豪州を中心に1000億円を投じ、原料肉の調達基盤を自ら握った経営判断である。
背景
同業の多くがハム・ソーセージの加工にとどまるなか、大社義規社長は食肉そのものの調達基盤を海外に築く道を選んだ。1977年末から強まった牛肉輸入自由化の外圧を、脅威ではなく遠からず訪れる与件とみて、制度が動く前に川上を押さえる構えであった。
内容
1987年にと畜・食肉処理のオーキー・アバトゥア社、1988年に肥育のワイアラ牧場、1990年に流通のTBS社を買収し、豪州で垂直統合体制を築いた。米国より牛の質とアジアの需要の将来を重くみて豪州を主軸に選び、生肉の営業拠点も85から100へ増やして製販一貫の網を張った。
含意
自由化後、米国進出組が退くなか豪州主軸が奏功し、年間約12万トンを輸入する最大手として国内首位を守った。ただし海外で調達基盤を築くことと海外法人が独立して稼ぐことの区別は曖昧に残り、2016年3月期以降の海外事業本部の赤字として、後の井川伸久社長による構造改革の伏線となった。
筆者の見解

与件を先に握った先見と、残された課題

この判断の核心は、ハム・ソーセージという加工品のメーカーが、自らを食肉そのものを扱う企業として捉え直した点にあるとみることができる。牛肉輸入自由化という制度変化を、脅威ではなく長い与件として受けとめ、制度が動く前に川上の調達基盤を海外に築いておく——その先行の構えが、自由化後に多くの同業が退くなかで国内首位を守る力になったといえる。米国ではなく豪州を主軸に選んだ立地判断も、目先の条件より牛の質とアジアの需要の将来を重くみた点で、長い射程を持っていた。

ただ、調達で先行したことと、海外で利益を生むこととは同じではなかった。安く大量に食肉を押さえる力が国内の強さを支えた一方で、海外法人を独立した収益の柱に育てる論理は、長く曖昧なまま残された。自由化を勝ち抜いた海外投資が、二十数年を経て資本効率を問われ、構造改革の主題へと反転していく道筋は、この時期にすでに芽生えていたのかもしれない。攻めの投資が生んだ強さと、その裏に置き去りにされた課題とは、同じ判断の表と裏として今日まで続いているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

ハム加工に閉じない食肉調達の発想

日本ハムは1963年の鳥清ハム合併で国内首位に立った後も、事業をハム・ソーセージの加工にとどめなかった。同業の多くが原料肉を外部から仕入れて加工に徹するなか、大社義規社長は食肉そのものの調達基盤を自ら握る道を選んだ。その最初の一歩が、1977年の米ロサンゼルス・デイリーフーズ社の買収であった。同社は現地経営を続けるかたわら、輸入食肉をめぐる国際情報を集め、来るべき国際化への備えとした[1]

デイリーフーズの買収は、日本の食肉企業として初の本格的な海外食肉会社の取得であった。翌1978年には豪州に現地法人を設け、調達の足場を米国から南半球へ広げた。買収直後の海外事業は赤字を計上したが、原料の調達から販売までの流れを作り替えて黒字へ転じさせた。目先の収益よりも、海外で食肉を扱う経験と人材を蓄えることを優先する長期の投資であった[2]

牛肉輸入自由化という長期の与件

この海外投資が始まった時期は、日本の農産物市場を開く外圧が強まっていく流れと重なっていた。1977年末には、対日黒字を減らす方策として牛肉の輸入枠を大幅に増やし、オレンジの季節自由化を検討すべきだとの議論が政府内で表面化した。ハム・ソーセージの原料である豚肉と異なり、牛肉は輸入が厳しく管理された品目であり、その枠が緩む方向は食肉業界の前提を揺るがす変化であった[3]

もっとも自由化はすぐには進まなかった。1978年には中川農相が、いまの制度を変えて自由化する気持ちはさらさらないと反対を表明し、制度そのものは据え置かれた。それでも大社社長は、自由化を遠からず訪れる与件とみて備えを進めた。後年、環境が厳しく業績が伸び悩む時期こそ新しい仕事の種をまくときであり、「慎重に大胆」に構えるのがよいと語っている。制度が動く前に調達基盤を固める判断は、この構えの延長にあった[4][5]

決断

豪州への垂直統合

1980年代後半、日本ハムは豪州での食肉事業を一気に垂直統合へと進めた。1987年にと畜・食肉処理を担うオーキー・アバトゥア社を、翌1988年には肥育のためのワイアラ牧場を、1990年には流通を担うTBS社を相次いで買収した。牧場での肥育、と畜・加工、そして流通までを一つの流れとして自ら抱える体制が、豪州に築かれた。原料を市場から買う立場から、原料をつくる立場へと転じる構えであった[6]

調達の主軸を米国ではなく豪州に置いた点に、この判断の性格が表れている。大社社長は、良い牧場があれば米国も考えるとしつつ、牛の質は豪州のほうがよさそうだと述べた。新興工業経済群で牛肉の消費が増え始め、地理的にも豪州は牛肉の生産地として将来性があるとみていた。日本向けの調達にとどまらず、アジアの需要を見据えた生産拠点として豪州を選ぶ、長い射程の立地判断であった[7]

自由化前に投じた1000億円

一連の買収は、規模の面でも本業に匹敵する投資であった。牛肉輸入が自由化される直前、大社社長は、1988年3月期から1990年3月期までの3年間で、牛肉の生産拠点を確保するため豪州を中心に1000億円を投じてきたと明かした。あわせて生肉の営業拠点には100億円を投じ、1991年度から3カ年で85から100へ増やす方針も示した。自由化の号砲が鳴る前に、調達から販売までの網を張り終える算段であった[8]

川上の調達を握る一方で、川下の販売網も厚く保った。大社社長は自ら豪州の牧場や食肉処理場に足を運び、現地に派遣した社員と各地で懇談している。国内では関連会社を含め約4300人の営業員が小売店を回るルートセールスを敷き、食品や雑貨のメーカーを抑えてマーケティング実力度で首位に立っていた。原料を自らつくり、加工し、店頭まで届ける製販一貫の形が、自由化を前に一つに結びついた[9][10]

結果

自由化後の善戦と国内首位

自由化を目前にした市場の見立ては、日本ハムの先行投資に好意的であった。1990年、同社は自由化後の需要拡大をとらえ、自由化3年後の1994年3月期には経常利益が前期比1.4倍の300億円台に乗る公算が大きいとみられていた。豪州の牧場買収から国内外の販売拠点づくりまで早くから重ねた先行投資の成果が、ここで出るとの観測であった。ハム・ソーセージの伸びが鈍るなかでも、生産と販売の一貫体制が利益成長を支えるとされた[11]

1991年4月、牛肉輸入は自由化された。円高と自由化は畜産業界の姿を変え、とりわけ牛肉市場の変動は大きかった。海外の生産基地づくりで勝敗が分かれ、米国に拠点を求めた組が軒並みつまずくなか、豪州に進出した組はおおむね成功したと評された。年間約12万トンを輸入する最大手として、日本ハムは豪州主軸の選択で勝ち組に回った。自由化元年を含む1992年3月期の連結売上高は7,559億円、当期純利益は132億円であった[12][13]

調達基盤づくりと収益事業化のあいだ

もっとも、豪州で調達基盤を築いたことと、海外法人が独立して稼ぐこととは、別の課題であった。この区別は、当時はまだ表に出にくかった。海外事業本部が独立したセグメントとして開示されるようになると、2016年3月期に13億円、2017年3月期に47億円、2018年3月期に38億円と赤字が続く実態が見えてきた。海外の子会社群は日本向けの調達基地としては機能していたが、現地で利益を生む事業としては育ちきらなかった[14]

調達で先行したことは、そのまま収益源の多様化にはつながらなかった。食肉を安く大量に押さえる力は国内首位を支えたが、海外そのものを利益の柱に育てる論理は後回しにされた。この曖昧さを残したまま投資が続いたことは、海外事業本部の赤字として積み上がり、資本効率を問う声を招いた。海外の子会社群は調達基地としての役割を果たす一方で、独立した利益源としては育たず、グループ全体の資本効率を損なう要因として次第に顕在化した[15]

出典・参考
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
  • 日本経済新聞 1977年12月2日「牛肉輸入ワク大幅増、オレンジの季節自由化検討」
  • 日本経済新聞 1978年5月2日「中川農相が自由化反対表明」
  • 日経ビジネス 1987年6月15日号「有訓無訓 ツキが落ちても悲観するな」
  • 日経産業新聞(1988年8月11日)「豪州に牛肉輸出拠点」
  • 日経ビジネス 1989年4月10日号「天真爛漫なる怪物 大社義規」
  • 日本経済新聞 1990年7月26日「自由化を機に飛躍、強力な販売網を築く」
  • 日経産業新聞(1991年4月4日)「自由化後の輸入牛肉、加工用に需要広がる」
  • 日経産業新聞(1995年4月2日)「海外拠点、豪米で明暗」
  • 日本ハム 会社年鑑(連結業績)
  • 日本ハム 有価証券報告書(連結・セグメント情報)