日本ハム の歴史

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創業 1942年
創業者 大社義規
創業地 徳島市
創業
1942年3月、大社義規氏が徳島市で徳島食肉加工場を創業した。1945年1月に工場が戦災で焼失したが同じ月に事業を再開し、1951年12月には資本金150万円で徳島ハムを設立している。1956年5月に業界初の鉄筋コンクリート工場を大阪へ建て、1961年10月に大阪証券取引所第二部へ上場した。1963年8月、旭化成工業の宮崎輝社長の提案で業界4位の鳥清ハムを吸収合併し、商号を日本ハムへ改めて業界3位から首位へ移った。前年に米スイフト社からの資本提携を大社義規氏は断り、1969年には技術提携だけを結んでいる。
決断
自前で持つことを競争優位としてきたが、2023年にそれを解いた。1973年に日本ハム球団を取得し、1977年3月には米Day-Lee Foodsを買収して加工の川上にある食肉そのものへ参入した。1991年4月の牛肉輸入自由化を長期の与件とみて、1987年から豪州でと畜・加工・流通を握る垂直統合を組み、1990年3月期までの3年で豪州を中心に1,000億円を投じている。2002年8月には子会社の食肉偽装が発覚し、大社啓二社長と大社義規会長が引責辞任して創業家が退場した。以後の統制強化が事業本部の主体性を弱め、2023年8月、井川伸久前社長がウルグアイBPUの全株式を売却して自前主義から転じた
現況
ハム・ソーセージではなく、食肉の仕入れと販売が利益を生む。2026年3月期の連結売上高1兆4,573億円・営業利益545億円のうち、食肉事業本部が売上1兆341億円・利益613億円、加工事業本部が売上5,303億円・利益72億円である。食肉の半分の売上がある加工の利益は、食肉の8分の1にとどまった。球団と球場を持つボールパーク事業は売上310億円・利益54億円で、売上が17倍ある加工事業本部の利益に迫る。1973年に取得した球団が、加工の不振を補う位置へ移った。
競合
同じ食肉でも、相場に乗る側と相場を外す側に分かれた。日本ハムは1977年の米国、1987年からの豪州と、正肉の調達を海外の自社設備へ広げ、輸入自由化後も規模で価格を作る側に立った。これに対し、1989年に丸紅らとの合弁で米国に自前の食肉処理場を置いたエスフーズは、正肉商が値をつけない内臓肉から入り、相場の主戦場を外している。日本ハムの食肉事業本部の利益は2025年3月期の289億円から2026年3月期の613億円へ倍増しており、期ごとの振れが大きい。加工事業本部の利益率は1.4%で、ブランドで値を保つ構えは食肉の変動を打ち消せていない。
日本ハム:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 戦後食生活洋風化のなかでの業界再編と日本ハム誕生 (1942年〜)

総勢7人から始まった食肉加工業の出発

1942年3月、創業者の大社義規氏は徳島市寺島本町に総勢7人の食肉加工場を設立した。旧制高松高商を家庭事情で中退したのちに叔父の藤沢克太郎氏が理事長を務める香川県養豚組合で営業を手伝っていた26歳の大社氏は、『こうなったら、おれが頑張って金を儲け、家を再興してやる』[引用元]という意地を原動力に独立した。1県1業1社の経済統制で隣県の徳島にハム工場が一つもなかった点が独立先に徳島を選んだ理由で、大社氏は『志望とか選択とかとは関係のない全くの偶然によるもの』[引用元]と後年振り返った。成長産業に偶然入ったという楽観的な解釈が、以後の経営の基調を作った。

養豚組合時代に京都出張所を任された大社氏は、市内の肉屋をしらみつぶしに歩き、1年後には市内の約半数と取引にこぎつけた。『熱心にやったら何でもできる』[引用元]という確信を得ている。1945年に工場は戦災で焼失したが、百十四銀行取締役営業部長の中條氏から『伸びる産業だから、大いにやりなさいよ』[引用元]と励まされ、1948年に同市内で加工場を再建した。1952年にはパン食の普及とともにプレスハムやウインナー・ソーセージの家庭需要が急拡大[1]したことが全国紙でも報じられており(読売新聞 1952/06/06)、戦後の食生活洋風化が市場の基調となった。焼け跡からの再出発で設備と職人集団を整え直した姿勢が、のちの業界再編を主導する推進力の原点となった。

  • 読売新聞 1952年6月6日
    • [1]1952年にプレスハムやウインナー・ソーセージの家庭需要が急拡大したと全国紙で報じられた

1951年12月に資本金150万円で徳島ハム株式会社として法人化し[2]、1956年5月に業界初の鉄筋コンクリート工場を大阪に建設した。『命運を賭けたというと、少々大げさかもしれないが、この大阪進出の成功は大きな自信になった』[引用元](日経新聞連載 私の履歴書・大社義規氏 1977/07)と大社氏は後年書き、地方企業の全国展開への転換点と位置づけた。続いて1960年に広島・旭川、1962年に諫早、1963年に関東進出の基地として茨城に工場を建設し、1961年10月に大阪証取第二部、1962年2月に東京証取第二部へ相次いで上場した[3][4]。徳島の地方企業から上場食肉メーカーへの転身は、需要拡大と設備投資をにらんだ積極姿勢と、百十四銀行に代表される地元金融機関との強固な結びつきに支えられ、後の全国再編戦略の土台を作った。

  • 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1951年12月に資本金150万円で徳島ハム株式会社として法人化した
    • [3]1961年10月に大阪証券取引所第二部に上場した
    • [4]1962年2月に東京証券取引所第二部に上場した
  • 読売新聞 1952年6月6日
    • [1]1952年にプレスハムやウインナー・ソーセージの家庭需要が急拡大したと全国紙で報じられた
  • 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1951年12月に資本金150万円で徳島ハム株式会社として法人化した
    • [3]1961年10月に大阪証券取引所第二部に上場した
    • [4]1962年2月に東京証券取引所第二部に上場した

業界防衛の論理が生んだ「日本ハム」

1963年8月、旭化成工業の宮崎輝社長の提案を受けて、徳島ハムは業界4位の鳥清ハムを吸収合併し[5]、本社を大阪へ移して[6]資本金7億320万円の日本ハムへ社名を変更した[7]。鳥清ハムは1930年に辻本満氏が和歌山市[8]で個人創業し1954年に鳥清畜産工業へ改組した同業大手で[9]、合併時の資本金は徳島ハム4億320万円・鳥清ハム3億円[10]が合算された(企業の歴史(明治百年)1968)。米スイフト社を筆頭とする欧米大手の日本市場参入への警戒感から、国内再編で外資進出に備える防衛的な論理が働いた。合併後のポジションは3位から一躍トップへ躍進したが、労使紛争と新ブランド『ニッポンハム』の浸透遅れで業績低迷は4〜5年続き、急速な規模拡大は必ず統合コストを伴うというパターンを露呈した。

  • 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1963年8月に鳥清ハムを合併し日本ハムへ社名変更した
    • [7]合併・社名変更時の資本金は7億320万円だった
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
    • [6]合併に伴い本社を大阪へ移転した
    • [8]鳥清ハムは1930年に辻本満が和歌山市で個人経営の食肉加工工場として開設した
    • [9]鳥清ハムは1954年に鳥清畜産工業へ改組した
    • [10]合併時の資本金は徳島ハム4億320万円・鳥清ハム3億円で合算後7億320万円となった

スイフト社とは1962年に資本提携を打診されたものの大社氏は資本受け入れを拒否し、1969年に技術提携のみを締結した。独立を維持したまま『スイフトローフ』『ビーフ&ポーク』などの新商品開発にスイフトの技術を活用したこの選択は、のちに資本は渡さず技術と市場を取る姿勢として海外M&Aにも受け継がれた。1968年に消費者の声を経営に反映する『奥様重役』制度を発足させ、約4300人の営業マンによる全国規模のルートセールス網と組み合わせて、1980年代の日経ビジネス マーケティング実力度調査では2年連続トップの評価を獲得した。同業者から強引と評されるほど攻撃的なルートセールス(日経ビジネス 1989/4/10)が、奥様重役の商品開発と合流して、工場・ブランド・流通を日本ハム自身が握る体制を固めた。

  • 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1963年8月に鳥清ハムを合併し日本ハムへ社名変更した
    • [7]合併・社名変更時の資本金は7億320万円だった
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
    • [6]合併に伴い本社を大阪へ移転した
    • [8]鳥清ハムは1930年に辻本満が和歌山市で個人経営の食肉加工工場として開設した
    • [9]鳥清ハムは1954年に鳥清畜産工業へ改組した
    • [10]合併時の資本金は徳島ハム4億320万円・鳥清ハム3億円で合算後7億320万円となった

球団買収がブランドを全国に届けた十余年

1973年1月、日本ハムは拓北ホームフライヤーズを買収して日本ハム・ファイターズを発足させた。大社氏は買収を担った大成専務に『田舎から高校生が出てくるやろ、それが夏は暑い車に乗って営業をやるんや。よその営業マンにない楽しみを与えたい』[引用元]と狙いを説明し、合併後の労使紛争が収まった時期に従業員の気持ちを一つにする共通目標として球団買収を位置づけた。財務的な収益性よりも販売組織の統合と営業現場の活性化を優先した投資で、買収時50万人だった観客動員数は1989年に245万人とパリーグ断トツに達し[11]、万年赤字の球団経営も前年から黒字化した。大社氏は後年『もし野球をやらんだら、このテンポでは成長していかなかった』[引用元](日経ビジネス 1989/4/10)と振り返り、プロ野球球団という広告装置が食肉事業の全国浸透を加速させた。

  • 日経ビジネス 1989年4月10日
    • [11]1989年の観客動員数は245万人でパリーグ断トツだった

1976年にはルクセンブルク証取に大陸預託証券を上場し[12]、欧州の資本市場にも参加して海外から資金を調達する仕組みを整えた。1989年時点で世界の食肉企業ランキング第3位と評される規模に達した背景には、球団経営・全国営業網・消費者向けマーケティングという三つの投資が並行して動いた第1期の蓄積があった。翌1977年に日本の食肉企業として初の本格的な海外食肉会社買収に動く素地は、当時の資金調達力と国内における経営基盤の厚みが用意した。1960年代に築いた国内首位のポジションと、1970年代に深めた全国ブランドが組み合わさり、続く海外投資フェーズを支える原資と正統性の両方が同時に準備された。

  • 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1976年にルクセンブルク証取に大陸預託証券を上場した
  • 日経ビジネス 1989年4月10日
    • [11]1989年の観客動員数は245万人でパリーグ断トツだった
  • 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1976年にルクセンブルク証取に大陸預託証券を上場した

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日本ハムの沿革1942〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1942〜1976年戦後食生活洋風化のなかでの業界再編と日本ハム誕生徳島食肉加工場を創業
工場が戦災で焼失
事業を再開
徳島ハムに法人化
大阪工場を新設(業界初の鉄筋コンクリート工場)
大阪証券取引所第二部に株式上場
鳥清ハムを合併し日本ハムに商号変更★★
本社移転・「奥様重役」制度を発足
兵庫工場を新設
スイフト社と業務提携を締結
日本ハム球団を買収★★
ルクセンブルク証取に大陸預託証券(CDR)を上場
1977〜2001年牛肉輸入自由化に備えた海外食肉事業への長期投資Day-Lee Foods(デイリーフーズ)を買収★★
子会社を設立
日本ハム食品を設立(加工食品部門本格参入)★★
水産加工部門に参入
「シャウエッセン」を発売★★
ロンドンに子会社を設立
Ookey Abattoir社を買収
パリ証券取引所に上場
中央研究所をつくば市に新築移転
豪州での食肉垂直統合と牛肉輸入自由化への備え

1977年の米デイリーフーズ買収と1978年の豪州進出に始まり、日本ハムは1987年から1990年にかけて豪州でと畜・加工・流通を垂直統合し、1991年4月の牛肉輸入自由化に備えた。1988年3月期からの3年間で豪州を中心に1000億円を投じ、原料肉の調達基盤を自ら握った経営判断である。

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★★★
乳酸菌飲料事業に参入
大社啓二が第2代社長に就任
2002〜2022年偽装事件からの信頼回復と構造改革への長い助走藤井良清藤井良清が第3代社長に就任
藤井良清牛肉偽装事件の発覚と創業家一族の経営退場

2002年8月、子会社・日本フードがBSE対策の牛肉買い取り制度を悪用して輸入牛肉に国産ラベルを貼り申請していた偽装が発覚した。8月20日、日本ハムは社内処分を発表し、大社啓二社長が専務へ降格、藤井良清常務が第3代社長に就任、創業者の大社義規会長ら創業家が代表権を返上した。創業60年で築いた業界首位の経営体制が刷新を迫られた判断である。

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★★★
藤井良清宝幸を買収
小林浩小林浩が第4代社長に就任
竹添昇竹添昇が第5代社長に就任
竹添昇英文社名をNH Foods Ltd.に変更
末澤壽一末澤壽一が第6代社長に就任
末澤壽一ウルグアイBPUの株式を取得
畑佳秀畑佳秀が第7代社長に就任
井川伸久井川構造改革と「自前主義」からの転換

2023年、井川伸久社長が主導した構造改革。低収益と資本効率の低下を背景に、不採算のウルグアイ食肉事業を売却し、加工製造ラインの2割削減と設備投資の圧縮を掲げて『自前主義からの脱却』を資本配分に落とし込んだ。拡大を基調としてきた従来路線からの転換であった。

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★★★
井川伸久中期経営計画2026を発表
井川伸久北米加工品製造販売会社3社を買収★★
前田文男前田文男が第9代社長に就任
出典・参考
  • 日本ハム 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
  • 日経ビジネス 1989年4月10日
  • 読売新聞 1952年6月6日

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