竹岸政則氏は1910年2月、富山県氷見市加納町の中農の家に生まれた[1]。富山県立氷見農林学校から麻布獣医畜産学校へ進み、1928年3月に卒業すると、三菱一族の岩崎輝弥が経営する子安農園立川養豚場へ研究生として入った[2]。この養豚場は約1000頭を飼い、イギリスから輸入した豚を繁殖させて種豚を全国の農村へ送り出す、国内有数の規模だった[3]。折しも日本経済は金融恐慌に続いて1929年からの世界恐慌に洗われ、豚相場は変動を繰り返す[4]。岩崎・三菱の後ろ盾を持つ立川養豚場は耐えたが、資本力のない養豚業者は次々に打ちのめされた[5]。竹岸は農家から高く売れる先の斡旋を頼まれて場長に取り次いだものの、結果はやはり安値で買いたたかれた[6]。
養豚を奨励するだけでは農村は栄えないと考えた竹岸は、流通の側へ回る道を探した。まず缶詰加工を検討したが設備費が重く資本の回転も遅いため断念し、次に豚問屋を調べたものの、冷蔵庫がほとんどない当時は朝処理した肉を夕方までに売り切るしかなく、商いの幅が狭かった[7]。残ったのが中間のハム・ソーセージ製造である。小資本でも始められ、生肉と違って遠方まで販路を伸ばせた[8]。1929年に研究生の期限を終えた竹岸は、横浜元町の合名会社大木商会に入って加工技術と取引の技術を身につけた[9]。約1年後に名古屋の愛禽ハムへ移り、さらに月給50円で大阪の大村商会へ招かれたが、同社は売行き不振と資金回収の行き詰まりから1930年8月に倒産した[10]。
1930年の冬、竹岸は金沢での開業を決めた[11]。父の重助は経営を知らないとして反対したが、家族会議で兄弟が同調し、長兄の重作と弟の義雄が協力者として同行した[12]。金沢駅前の田丸町152番地に間口2間、奥行8間の二階家を借り、上坂信夫と田代の2少年を加えた総勢5名で、1931年9月1日に竹岸ハム商会の事業を始めた[13]。この家が店であり工場であり住まいでもあった。毎朝4時半に起きて正午までハム・ソーセージを作り、午後は組を分けて金沢市内の問屋と小売店を一軒ずつ売り歩いた[14]。だが当時の金沢ではハム・ソーセージへの理解が浅く、名刺に呼出し電話しか刷れない新参者は門前払いを受けることも多かった[15]。
創業から3か月半、売れ残りを持ち帰る日が続いたすえに、竹岸は現在でいう委託販売を考え出した[16]。製品を店頭に陳列させ、売れた分だけマージンを差し引いた代金を受け取る方式で、店に損害をかけない利点を押し出し、ハム・ソーセージに偏見を持つ地方都市の問屋と小売店へ売り込んだ[17]。返品は覚悟のうえの窮余の策で、保存のきく商品ゆえに成り立つ策だった[18]。製品はしだいにさばけたが資金は底をつき、六人が返品のハム・ソーセージと粥で日々をつなぐこともあった[19]。竹岸は最も好意を寄せてくれた問屋と小売店を一軒ずつ選んで仕入資金の融通を申し込み、それぞれ100円を無利子で借り、返済期日の2日前に利子分を添えて返した[20]。
1932年9月、竹岸は家主と話し合って店の裏手の空地に幅4間、奥行5間の工場を建ててもらい、12月に操業を始めた[21]。このころの豚仕入頭数は月50頭程度、従業員は7名で、北陸銀行に当座勘定の口座も開いた[22]。翌1933年には委託販売の方式を福井市・富山市・新潟市へも広げ、金沢と同じ条件で問屋と小売店に製品を預けた[23]。竹岸は金沢発の一番列車に30キロの荷を5、6個持ち込み、配達と集金を兼ねて敦賀・福井・小松を一日で回った[24]。1933年4月に新潟市港町へ新潟営業所を、1934年10月に京都市中京区麩屋町へ京都営業所を置き、地方都市の業者として大都市へ進出した[25]。豚の仕入頭数は1933年に月200頭、1934年に月250頭へ増え、従業員は18名になった[26]。
原料の豚は、能登半島の海岸に近い農家から奥能登の悪路をトラックで穴水まで運び、貨車に積み換えて金沢へ入れていた[27]。汗腺のない豚は6、7時間揺られるうちに2、3頭が斃れ、農家はそれを持ち帰るほかなかった[28]。竹岸は氷見に多い10トンほどの木造機帆船に目をつけ、家畜商や農家と村の共同出荷場所と出荷日を定めて船で集荷し、氷見のと場で枝肉にした[29]。船底が浅く浜辺に直づけできるため荷痛みがなく、運賃は従来の半分、仕入原価は1割5分下がった[30]。1937年から1939年にかけて月平均300頭の豚を処理し、竹岸ハムは北陸へ進出していた名古屋の製造業者を圧倒した[31]。
1937年から1939年にかけて竹岸ハムの従業員は約30名に増えたが、生産の拠点は金沢市田丸町のままで、人を増やしても収容する場所がなかった[32]。竹岸は今後の設備拡張ができる土地を広く物色し、氷見農林学校時代の恩師大石斉治の助言もあって高岡市郊外に決めた[33]。4反の水田を埋め立てた3900平方メートルの土地に建坪660平方メートルの工場を建て、建物約1000円と機械設備2000円を含む約4000円のうち、約1000円を第十二銀行と中越銀行から借りた[34]。高岡工場は1940年4月に完成し、従業員は約50名、豚の仕入量は同年5月の月400頭から8、9月には月平均1200頭に伸びた[35]。1200坪の土地に建坪200坪という配分は、従業員の保健と体育のために広い土地が要ると竹岸が考えた結果だった[36]。
日華事変の拡大とともに国家統制が食肉加工にも及んだ[37]。1940年8月に肉類の販売価格が定められ、1941年7月17日付の食肉配給統制に関する農林次官依命通達と同年10月20日施行の食肉配給統制規則によって、竹岸ハムは生産と配給の両面で統制を受けた[38]。食肉等配給統制要綱で畜肉の県外移出が禁じられたため、許可を得た京都だけを残し、1933年以来の拠点だった新潟営業所を閉じた[39]。一方、同じ1941年に舞鶴の海軍軍需部指定工場となり、軍用に月700頭の豚が割り当てられたので、一般向けが月600頭に抑えられても月1300頭を加工できた[40]。竹岸自身は1941年7月に獣医将校として召集され、金沢第九師団に入隊したのち満州へ渡った[41]。
太平洋戦争に入ると畜肉の輸入が途絶え、豚の仕入実数は1943年に月800頭、1944年に軍需300頭と民需50頭、1945年には軍需50頭と民需15頭まで落ちた[42]。竹岸作太郎が経理、東前宇一が仕入れを預かる合議制で運営したが、応召が比較的高年齢の社員にまで及び、1945年8月に工場と営業所へ残っていたのは12名だった[43]。1945年12月に食肉配給統制規則が撤廃されると、翌1946年3月、高岡工場は富山県農業会の畜産物加工工場として生産を再開した[44]。資金は農業会が出し、経営は竹岸側が担い、東北の牛・馬・羊肉に豚の脂肪を混ぜた製品を作った[45]。1946年7月にビルマから復員した竹岸は、ただちに工場へ入って生産の指揮を執り、子豚を農家に預けて育てさせる預託制度の再検討から原料の確保に着手した[46]。
竹岸政則社長は1947年秋に富山県農業会の手を離れ、高岡工場の経営を再び自分ひとりの手に戻した[47]。1948年6月、大阪市福島区中通りに大阪営業所を開き、3年前に将校服で張り切っていた上坂健三氏を送り込んだ[48]。翌7月には個人経営を株式会社に改め、富山県高岡市に資本金100万円の竹岸畜産工業が発足する[49]。株式会社にした狙いは持株制度にあり、のれん分けの代わりに勤務年数に応じて従業員へ株を分け、第1回の払込みは竹岸社長が肩代わりし、3回目、4回目の増資で従業員に貯金ができたころ初めて払い込ませている[50]。当時は個人所得の所得税が所得の8割ほどを持っていき、税務署員のほうから株式会社にしてはどうかと勧めてもいた[51]。
大阪営業所は、開設直後の1948年6月28日に起きた福井大震災で交通機関がまひし、高岡工場からの製品輸送が2か月にわたって途絶えた[52]。輸送をトラックに切り替えた途端、高岡から到着したトラックが夜中に踏切で衝突し、満載していた製品は全部つぶれ、従業員1名が死亡、損害は70万円にのぼった[53]。それでも大阪営業所は販売活動をゆるめず、1949年2月には京都営業所を開いた[54]。京都は関西の大手メーカーがまだ本腰を入れておらず、中小メーカーどうしの競争が激しい市場で、わずか3人の陣容が新製品ユニオンハムを売り物に得意先を取った[55]。
関西市場を押さえるには工場が高岡にあることが不利で、1950年度の貸借対照表には435万円余の建設資金仮勘定が残高として立っていた[56]。1950年下期から需要が急に増えたため、1951年3月、大阪市大淀区大仁西1の48に大阪工場を建て、あわせて資本金を3倍の300万円に増やした[57]。スライサー、大型スタッファー、サイレントカッター、ミキサー各1台と小型スタッファー2台を据えた日産5トンの工場である[58]。ところが既存の販路では製品を消化しきれず、最盛期の原料高、借入金利息と割引料の増加、得意先の倒産が重なり、1951年度は96万8,557円30銭の赤字に沈んだ[59]。販路は神戸、加古川、姫路、岡山、倉敷、福山、尾道、三原、広島と西へ延び、1952年9月には神戸営業所を開設した[60]。
1954年になると家畜の増産が効きはじめ、農家で畜産が見直されて牛が増えたため、原料を比較的容易に調達でき価格も安定した[61]。純利益は1955年度が1,447万円余、1956年度は2,400万円余へ伸び、1955年10月には資本金を4,000万円へ増資している[62]。ハム・ソーセージの全国需要の3分の1を占めるのは東京市場で、1956年ころの東京は人口800万人、食肉卸売業者35社、仲買人300社、都内と近郊の食肉加工業者78社を数えた[63]。竹岸畜産工業は1956年5月に東京営業所を開き、竹岸社長は開設にあたって全国同業者の目が集まっていると訓示した[64]。1959年3月、芝浦と場から1.5キロの東京都品川区に旧東京工場が完成し、同年6月には本店を東京都千代田区大手町へ移している[65]。
原料の側は不安定なままで、豚枝肉の価格は3〜4年の周期で1キロ当たり200円から450円の幅で上下し、養豚家は価格の動きにつれて豚を飼ったりやめたりする[66]。輸入も、1957年度に一部商社の思惑買いで牛肉が2万3,000トンまで一挙に増え、過剰ストックが国内市場を混乱させたことから、1958年度に牛肉と豚肉が自動承認制から外貨割当制へ移された[67]。大消費地に工場を構えて芝浦や大阪の既存のと場に原料を頼るやり方では足りず、竹岸畜産工業は産地に拠点を置いて原料を直接買い付ける道を選んだ[68]。1957年2月10日、北海道上川郡清水町議会は満場一致で十勝工場の誘致を承認し、町は土地1万4,824平方メートルを無償で提供している[69]。同年10月に完成した北海道工場は、牛・馬・豚それぞれ1日40頭のと場とハム・ソーセージ月産150トンの設備を持った[70]。
1959年4月、南日本新聞をはじめ九州各地の新聞がいっせいに鹿児島県への進出を報じた[71]。年間10万トンの家畜を関東・関西へ出荷する鹿児島県は数年前から誘致運動を続けており、串木野市が6.6ヘクタールの用地を差し出す[72]。家畜を生きたまま運べば、骨を抜いた正肉を冷凍輸送する場合の4倍の運賃がかかり、7〜10%の減耗損も避けられない[73]。1959年9月24日に起工した鹿児島工場は、1960年4月に第一期工事を終えて操業を始めた[74]。最初に投じた資本額は2億数千万円、無償譲渡を受けた土地の評価と操業後の運転資金を合わせると5億円に達している[75]。北の原料供給地としては、本荘豚で知られる秋田県本荘市に1961年8月、秋田工場を開いた[76]。
鹿児島工場は当初の計画より大規模になり、そのときの企業能力に対して負担が重く、金融機関からの借入れが膨らんだ[77]。証券会社も銀行も食肉産業の実態をよく知らず、北海道工場と鹿児島工場の建設で北海道開発公庫と農林中央金庫に融資を申し込んだ際、先方にはこの業種を扱った経験がなく、竹岸畜産工業が最初の相手だった[78]。岩戸景気で株式市場がわき、新顔の会社が次々に店頭株として株式を公開していた時期である[79]。1960年2月に資本金を2億2,000万円へ増やして4月に東京店頭へ株式を公開し、同年10月には3億5,000万円として大阪店頭にも公開した[80]。1961年5月に5億5,000万円へ増資、同年10月に東京・大阪両証券取引所の市場第二部へ上場し、1962年8月には両取引所の第一部へ移っている[81]。
販売の側では、1956年に発祥の地の高岡と商業地の大阪の2ブロックでブロック制を始め、ブロック長の権限のもとで工場と営業所を直結した[82]。1960年4月にこれを事業部制へ改称し、北海道、関東、北陸、関西、九州の5事業部を置いた[83]。規格肉には他社より2年早く手をつけており、1961年からTM作戦と名づけて売り込みを進めた結果、1956年度に5,790万円だったこの部門の売上げは1965年度に62億8,050万円へ伸びる[84]。1964年4月、精肉店とのボランタリーチェーン『プリマ会』を業界に先がけて結成[85]。翌5月には新東京工場の敷地内に竹岸高等食肉技術学校を開き、1期50名、教育期間6か月、全寮制で牛、馬、豚、羊、鶏の扱いと捌きの技術を半年で習得させた[86]。
1964年9月、茨城県土浦市に新東京工場が完成した[87]。加工場8,000平方メートル、従業員450名で、年産1万2,000トンをこえる業界初の本格的なオートメーション工場だった[88]。マトンの輸入は1955年の8,000トンから1960年に1万8,000トンへ増え、竹岸社長は1964年2月からマトン作戦を始め、3月にオーストラリアへ飛んで買付け契約を結んだ[89]。マトンは価格の45〜50%が運賃などの輸入経費で、これを下げるため伊藤忠商事と提携し、1965年2月5日に函館ドックで進水した世界初の冷凍肉専用運搬船プリマ丸を長期契約で押さえた[90]。1965年5月、商号をプリマハムに変更[91]。プリマ丸は翌6月にニュージーランドへ処女航海に出て、1,000トンのマトンを鹿児島と釧路へ500トンずつ陸揚げした[92]。
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|---|---|---|---|---|
| 1931〜1947年加工で身を立て原料の豚まで自ら押さえた北陸の16年 | 石川県金沢市で竹岸政則が竹岸ハム商会を創業し食肉の加工製造を開始 | ★★★ | ||
| 1948〜1965年原料肉を直接買い付けるため産地に工場を建てた会社 | 竹岸政則 | 富山県高岡市に竹岸畜産工業を設立(資本金100万円) | ★★ | |
| 竹岸政則 | 旧大阪工場(大阪市大淀区)を開設 | ★ | ||
| 竹岸政則 | 北海道工場(北海道上川郡清水町)を開設 | ★ | ||
| 竹岸政則 | 旧東京工場(東京都品川区)を開設 | ★ | ||
| 竹岸政則 | 本店を東京都千代田区大手町に移転 | ★ | ||
| 竹岸政則 | 鹿児島工場(鹿児島県串木野市)を開設 | ★ | ||
| 竹岸政則 | 秋田工場(秋田県本荘市)を開設 | ★ | ||
| 竹岸政則 | 東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 竹岸政則 | 東京・大阪両証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 竹岸政則 | 新東京工場(現茨城工場、茨城県土浦市)を開設 | ★ | ||
| 竹岸政則 | 商号をプリマハムに変更 | ★★ | ||
| 1966〜1985年南米に工場を持った拡大と、伊藤忠商事に委ねた社長の座 | 竹岸政則 | 四国工場(愛媛県西条市)を開設 | ★ | |
| 竹岸政則 | プリマファーム(現太平洋ブリーディング)を設立 | ★ | ||
| 竹岸政則 | 米国オスカー・マイヤー社と資本並びに技術提携 | ★★★ | ||
| 安達豊治 | 三重工場(三重県阿山郡伊賀町)を開設 | ★ | ||
| 1986〜2026年セブン-イレブン向け惣菜を第三の柱に、伊藤忠が議決権50%へ | 小菅宇三治 | 惣菜製造のプライムデリカを相模原市に設立 | ★★★ | |
| 小菅宇三治 | 関東物流センター(茨城県土浦市)を開設 | ★ | ||
| 小菅宇三治 | プリマ食品(埼玉県比企郡吉見町)を設立 | ★ | ||
| 小菅宇三治 | 秋田工場を閉鎖し秋田プリマ食品を設立 | ★★ | ||
| 小菅宇三治 | 四国工場を閉鎖 | ★★ | ||
| 小菅宇三治 | 食肉処理加工センター(鹿児島県いちき串木野市)を開設 | ★ | ||
| 小菅宇三治 | 茨城工場ウインナープラント(茨城県土浦市)を開設 | ★ | ||
| 千葉尚登 | 茨城工場ハム・ベーコンプラント(茨城県土浦市)を開設 | ★ | ||
| 千葉尚登 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 千葉尚登 | 鹿児島新工場(鹿児島県いちき串木野市)を開設 | ★ |
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事実根拠:出所(プリマハム)