伊藤ハム米久HD の歴史

更新:

創業 1928年
創業者 伊藤傳三
創業地 大阪府
創業 1928年、伊藤傳三氏が大阪市北区で個人経営の食品工業を興した。資本の要るボンレ
1928年、伊藤傳三氏が大阪市北区で個人経営の食品工業を興した。資本の要るボンレスハムやロースハムで先発と競わず、1934年に豚肉へ兎肉を混ぜて赤いセロハンの袋へ詰めた"セロハンウインナ"を1本5銭で売り出している。戦争で原料の調達が行き詰まり、工場も家も焼失した。再興は1946年4月の合名会社伊藤食品工業から始まり、1948年6月に伊藤栄養食品工業、1961年1月に伊藤ハム栄養食品、1984年6月に伊藤ハムへ商号を変更している。もう一方の米久は、1965年に庄司清和氏が静岡県沼津市で米久食品として創業し、食肉の卸売りを約10年続けたのち1973年からハム・ソーセージの製造へ移った。両社が一つの持株会社へ入るのは2016年4月である。
決断 作り方は同業へ渡し、売り先だけを自社に残した。1948年、伊藤傳三氏は氷水で臭み
作り方は同業へ渡し、売り先だけを自社に残した。1948年、伊藤傳三氏は氷水で臭みを抜く脱臭法にたどり着き、原料肉の足りない業界にプレスハムを生んだ。他社のプレスハムは温度管理のばらつきで色が黒ずみ風味も抜けていたため、同業者の技術幹部を集めて温度管理と水洗い技術のすべてを公開する。翌1949年6月には大蔵省主税局との談判でプレスハムの物品税撤廃を取り付け、1950年1月には単味品に残る10%も全廃させた。販路は代理店を通さず小売店との直接取引に切り替え、自社製品だけを扱う店を"伊藤ハム会"として全国約6,000店まで組織した。ただし公開した製法は他社の商品開発力も育て、1979年には生産数量の伸びが13.4%増から1.9%増へ低下した。
現況 統合で増えたのは規模であって、利益率ではない。2026年3月期の連結売上高は1兆
統合で増えたのは規模であって、利益率ではない。2026年3月期の連結売上高は1兆714億円と、統合初年度の2017年3月期から2,788億円増えた。営業利益は285億円、売上高営業利益率は2.7%で、統合初年度の215億円・2.7%と変わっていない。2025年3月期のセグメントは加工食品事業が売上4,009億円・利益98億円、食肉事業が5,879億円・利益122億円で、売上でも利益でも食肉が上回る。押し上げたのは海外の食肉で、2026年3月期の北米向けは764億円と前期から57%増えた。2015年3月に子会社としたアンズコフーズがニュージーランドで牛肉とラム肉を処理しており、規模の伸びは統合した二つの国内ブランドの外側で起きている。
競合 原料の入口を持たないまま、首位に立った時期がある。1978年2月期のハム・ソーセ
原料の入口を持たないまま、首位に立った時期がある。1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で日本ハムの678億円を上回ったが、当時のと畜場の経営はゼロだった。相手は1991年4月の牛肉輸入自由化を前に豪州でと畜・加工・流通を垂直統合し、と畜から加工・流通までを海外へ確保している。伊藤ハムが海外の処理拠点を持ったのは2015年3月のアンズコフーズの子会社化で、24年の遅れがある。米久は逆に商品開発で差をつけた側で、1973年から製造を本格化して"ダルマ・スモークハム"や半調理品を当て、生ハムでは1982年に全国シェアの首位を取った。販路で首位に立った会社と商品で伸びた会社を一つの持株会社へ並べても、2025年3月期の加工食品事業の利益率は2.4%、食肉事業は2.1%にとどまっている。
長期業績の推移 1950〜2025年
伊藤ハム米久ホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2017年3月期〜2025年3月期

第1章 1928年〜 海産物から畜産物へ移り、プレスハムの技術を業界へ開いた創業期

筆者考察y.sugiura, author

伊藤ハムの創業期を貫いているのは、資本の要る場所を避け、他社が扱えない原料を扱う技術で立ち位置を確保するという選び方である。ボンレスハムやロースハムは設備と資金の量で優劣が決まるため、伊藤傳三氏はそこへ向かわず、あめ菓子の包装から出た赤いセロハンの断ちくずを使って10匁単位の商品を作った。戦後はかまぼこ屋にも敬遠されて肥料へ回っていたさめ肉を脱臭してニューソーセージに変え、においが強くて誰も使わなかった馬肉と山羊肉を氷水の水洗いで寄せハムに仕立てた。原料の格が低いほど仕入れ値は安く、技術を持つ者だけが加工できる。セロハンウインナから寄せハムまで、扱えないものを扱えるようにする一点で製品が並んでいる。

その技術を独占せずに同業へ公開したことは、競争優位を手放す判断に見える。だが当時のプレスハムは作り手ごとに色も風味もばらつき、消費者にとってはプレスハムという商品そのものが信用できなかった。市場が信用されないかぎり、首位を取っても取る市場が小さいままになる。伊藤傳三氏は温度管理から氷水の水洗いまでを同業へ公開して品質の底を上げ、同じ理屈で大蔵省主税局に談判し、1949年に寄せハムの物品税を撤廃させた。品質が揃い税が外れて初めて、プレスハムは贈答品ではなく日常の副食として売れる。技術も税も、自社の取り分を増やすより先に市場の天井を外すほうへ使われている。1961年の上場までに年商36億円を確保した土台は、この二度の開放にあった。

1928年〜供給の安定する原料を選んで入った食肉加工

伊藤傳三氏は三重県四日市市の漁師町に生まれ、16歳で学校を出ると大阪の海産物問屋へ丁稚奉公に出された。21歳で独立して小さな海産物屋を創業したものの、23歳で商売に失敗し、行李一つを提げて上京した。東京で缶詰・瓶詰・海産物・乾物とひととおりの食品を扱ったうえで、伊藤傳三氏がハム・ソーセージへ移った理由は原料の供給にあった。海産物は豊漁と不漁で供給が極めて不安定だが、畜産物なら安定して調達できると見たのである。1928年に大阪市北区で個人経営の食品工業を興し、1932年3月には食品加工に食肉加工を併せ営むようになって神戸市葺合区へ移った。製造を重ねるうちに分かってきたのは、この業界には大きな先発組がいないということだった。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [1]生家が海産物問屋であったため16歳で学校を卒業すると同時に大阪の海産物問屋へ丁稚奉公に出された
    • [2]21歳で独立して小さな海産物屋を始めたが23歳で商売に失敗し、大阪で出直すのは格好が悪いとして行李一つを持って上京した
    • [3]東京で缶詰・瓶詰・海産物・乾物などあらゆる食品の経験を積んだ結果ハム・ソーセージの将来性に目を付けた。海産物は豊漁・不漁によって供給が極めて不安定だが、ハム・ソーセージは畜産物だから安定供給できると考えたためである
    • [4]東京で缶詰・瓶詰・海産物・乾物などあらゆる食品の経験を積んだ結果ハム・ソーセージの将来性に目を付けた。海産物は豊漁・不漁によって供給が極めて不安定だが、ハム・ソーセージは畜産物だから安定供給できると考えたためである
  • オール大衆 1969年「ハムの歴史をつくる/伊藤傳三」
    • [5]1928年に創業者伊藤傳三の個人経営として大阪市北区に食品工業を創業した
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
    • [6]創業後の昭和7年3月に食品加工に加えて食肉加工を併せ営むようになり、それと同時に神戸市葺合区へ移転した
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [7]製造を始めて何度も失敗するうちに分かってきたのは、この業界には大きな先発組がいないということだった

魚肉ソーセージの包装で失敗した伊藤傳三氏は、百貨店への納入を止めて工場を灘区大和町へ移し、約3カ月を研究に費やした。県の衛生試験所と図書館に通って文献を片端から調べ、自家製造を打ち切って缶詰工場の技術顧問に雇われながら次の製品を思案した。行き着いた結論は、ソーセージの原料が畜肉でも魚肉でも、うま味が消えたり傷んだりするのは温度管理しだいだということである。温度管理さえ習得すれば道具も設備も要らず、冷蔵庫はよそのものを借りれば足りた。水洗いした原料肉を一定の温度に保って塩漬けすると、繊維質が崩れて味覚と栄養を失わないまま脱臭され、異質の原料同士が結着する。この熟成の技術が、のちの畜肉の寄せハムとプレスハムの土台になった。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [8]魚肉ソーセージの包装で失敗して百貨店への納入を停止するとともに工場を灘区大和町へ引っ越し、約3カ月間を研究に費やした
    • [9]県の衛生試験所や図書館に足を運んで文献を片端から調べ、自家製造を打ち切ってある缶詰工場の技術顧問に雇われながら次にどんな製品を作るか思案した
    • [10]ソーセージの原料は畜肉でも魚肉でも、うま味が消えたり蒸れて傷むのは温度管理しだいであると知った
    • [11]温度管理の技術を十分習得すれば道具も設備も要らず、冷蔵庫がない場合はよそのものを利用すればよい
    • [12]水洗いした原料肉を一定の温度に保ちながら塩漬けすると肉繊維に塩が浸透し、繊維質が崩れて温度と塩分の作用で味覚・栄養を失わないまま脱臭され、異質の原料同士が結着する
    • [13]戦後の畜肉の寄せハム、プレスハムもこの熟成技術から発展した

資金がない以上、資本の要るボンレスハムやロースハムを人並みに作っても競争劣位に立つ。伊藤傳三氏は中身づくりと包装の両方を作り替え、1934年にセロハンウインナを売り出した。原料は豚肉85〜90%に兎肉10〜15%を混ぜ、あめ菓子や薬品の包装に使われて捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6〜7センチ幅に揃え、筒状の袋に貼って詰めた。1本10匁で卸値は5銭、他社のソーセージが100匁45銭だったのに対し、10匁ずつ包装して1本単位で売れる点が神戸市内の飲食店に受けた。1934年には1万円ほどの資金が貯まり、これが成功の第一歩になった。戦争が激しくなると原料の調達が行き詰まり、1943年9月に営業停止を余儀なくされ、戦災で工場も家も焼失した。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [14]資本を必要とするボンレスハム・ロースハムなどを人並みに作っても太刀打ちできないと考えた
    • [15]中身づくりと包装を根本から考え直し、1934年にセロハンウインナの開発に成功した
    • [16]セロハンウインナの原料は豚肉85〜90%・兎肉10〜15%で、あめ菓子や薬品の包装に使われて捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6〜7センチ幅に揃え、筒状の袋になるよう糊づけして詰めた
    • [17]セロハンウインナは1本10匁で卸値は1本5銭、他社製のソーセージは100匁45銭で、10匁ずつきれいに包装していたため神戸市内の飲食店・スタンド・バー・カフェーで驚くほど評判がよかった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [18]昭和9年には1万円ほどの資金蓄積ができ、これが成功の第一歩になって事業は順調に発展した
    • [20]第二次大戦で原料調達が難しくなり事業の中断を余儀なくされ、戦災で工場も家も焼失した
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
    • [19]太平洋戦争の勃発から戦局が悪化し、昭和18年9月に戦時非常事態のため営業停止の止むなきに至った
参考文献[1]-[20]
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [1]生家が海産物問屋であったため16歳で学校を卒業すると同時に大阪の海産物問屋へ丁稚奉公に出された
    • [2]21歳で独立して小さな海産物屋を始めたが23歳で商売に失敗し、大阪で出直すのは格好が悪いとして行李一つを持って上京した
    • [3]東京で缶詰・瓶詰・海産物・乾物などあらゆる食品の経験を積んだ結果ハム・ソーセージの将来性に目を付けた。海産物は豊漁・不漁によって供給が極めて不安定だが、ハム・ソーセージは畜産物だから安定供給できると考えたためである
    • [4]東京で缶詰・瓶詰・海産物・乾物などあらゆる食品の経験を積んだ結果ハム・ソーセージの将来性に目を付けた。海産物は豊漁・不漁によって供給が極めて不安定だが、ハム・ソーセージは畜産物だから安定供給できると考えたためである
    • [18]昭和9年には1万円ほどの資金蓄積ができ、これが成功の第一歩になって事業は順調に発展した
    • [20]第二次大戦で原料調達が難しくなり事業の中断を余儀なくされ、戦災で工場も家も焼失した
  • オール大衆 1969年「ハムの歴史をつくる/伊藤傳三」
    • [5]1928年に創業者伊藤傳三の個人経営として大阪市北区に食品工業を創業した
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
    • [6]創業後の昭和7年3月に食品加工に加えて食肉加工を併せ営むようになり、それと同時に神戸市葺合区へ移転した
    • [19]太平洋戦争の勃発から戦局が悪化し、昭和18年9月に戦時非常事態のため営業停止の止むなきに至った
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [7]製造を始めて何度も失敗するうちに分かってきたのは、この業界には大きな先発組がいないということだった
    • [8]魚肉ソーセージの包装で失敗して百貨店への納入を停止するとともに工場を灘区大和町へ引っ越し、約3カ月間を研究に費やした
    • [9]県の衛生試験所や図書館に足を運んで文献を片端から調べ、自家製造を打ち切ってある缶詰工場の技術顧問に雇われながら次にどんな製品を作るか思案した
    • [10]ソーセージの原料は畜肉でも魚肉でも、うま味が消えたり蒸れて傷むのは温度管理しだいであると知った
    • [11]温度管理の技術を十分習得すれば道具も設備も要らず、冷蔵庫がない場合はよそのものを利用すればよい
    • [12]水洗いした原料肉を一定の温度に保ちながら塩漬けすると肉繊維に塩が浸透し、繊維質が崩れて温度と塩分の作用で味覚・栄養を失わないまま脱臭され、異質の原料同士が結着する
    • [13]戦後の畜肉の寄せハム、プレスハムもこの熟成技術から発展した
    • [14]資本を必要とするボンレスハム・ロースハムなどを人並みに作っても太刀打ちできないと考えた
    • [15]中身づくりと包装を根本から考え直し、1934年にセロハンウインナの開発に成功した
    • [16]セロハンウインナの原料は豚肉85〜90%・兎肉10〜15%で、あめ菓子や薬品の包装に使われて捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6〜7センチ幅に揃え、筒状の袋になるよう糊づけして詰めた
    • [17]セロハンウインナは1本10匁で卸値は1本5銭、他社製のソーセージは100匁45銭で、10匁ずつきれいに包装していたため神戸市内の飲食店・スタンド・バー・カフェーで驚くほど評判がよかった

1946年〜さめ肉のニューソーセージから氷水の脱臭法へ

神戸では古いさめ肉が独特のアンモニア臭のためにかまぼこ屋にも好まれず、大半が肥料会社へ回されていた。1946年、伊藤傳三氏が原料に選んだのはこのさめ肉で、設備はありあわせで組んだ。かまどは焼跡で拾い集めたレンガで築き、ボイル用の釜にはドラム缶を、動力には焼けたモーターを直して充てた。ミンチ釜は前の工場跡に埋もれていた赤さびの一台を掘り出し、紙やすりをかけて据えた。鮮度の良いさめ肉からソーセージを作る研究では、ラードや植物油で臭みを抜くことに成功し、畜肉業者でさえ原料がさめ肉だと見抜けなかった。ニューソーセージの完成は1946年4月3日で、同月7日に売り出すと近所の小売店ですぐに品切れとなった。

  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [21]古いさめ肉は独特のアンモニア臭が強くかまぼこ屋でも歓迎されず、神戸ではほとんどが肥料会社に送り込まれていた
    • [22]戦後の再興にあたって畜産物原料が乏しかったため、豊富にあったさめ肉を原料に選んだ
    • [25]鮮度の良いさめ肉をソーセージの原料とする研究を始めて挽肉の脱臭に成功し、ラードあるいは植物油を使って技術面で成功した
    • [26]畜肉取扱業者でも原料がさめ肉とは気がつかないほどだった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [23]昭和21年には神戸の焼跡からレンガを拾ってきてかまどを作り、ドラム缶をボイル用の釜とし、焼けたモーターを修理して動力とした
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [24]前の工場跡から赤くさびたミンチ釜を掘り出し、ペーパーやすりで磨いて据え付け、モーターの銅線も自分で巻き替えた
    • [27]昭和21年4月3日に戦後第一号の魚肉ソーセージを完成してニューソーセージと命名し、同月7日から発売したところ近所の小売店4、5軒で即座に売り切れた

大量に生産するには大量の原料と資材が要ったが、統制の元締めは兵庫県庁だった。県民の食糧不足を解消するため岸田知事を中心に兵庫県食糧会議所が設けられ、伊藤傳三氏も生鮮食品業界の代表として加わった。会社は県から重要民需産業の指定を受け、物価局の規定に基づいて生産量の7割を公定価格で家庭配給に回し、残る3割を自由販売に充てた。自由販売なら高く売れたが、公定価格で協力するとして家庭配給ルートに乗せ、随分と売りさばいた。1946年4月に合名会社伊藤食品工業を設立し、同年7月末には神戸市灘区備後町に敷地約5,000平方メートルの工場を完成させて製造能力を一挙に100倍へ広げた。1948年6月には伊藤栄養食品工業株式会社へ改組した。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [28]ニューソーセージを大量に生産するには大量の原料と資材が必要で、まだ統制時代でその元締めは兵庫県庁だった
    • [29]県民の食糧不足を解消するため岸田知事を中心に兵庫県食糧会議所が設置され、伊藤傳三は生鮮食品業界を代表して参加した
    • [30]会社は県の重要民需産業の指定を受け、物価局の規定に基づいて製品は公定価格で生産量の7割を家庭配給に回し、残りの3割を自由販売できた
    • [33]発売後3カ月で新工場を建設して生産量を増やすことになり、7月末に神戸市灘区備後町に敷地約5,000平方メートルの工場を完成させ、製造能力は一挙に100倍に膨らんだ
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [31]自由販売であれば高く販売できたが、公定価格で協力しようということで家庭配給ルートに乗せ随分販売した
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1946年4月に神戸市灘区備後町で合名会社伊藤食品工業を設立した
    • [34]1948年6月に伊藤栄養食品工業株式会社へ改組して兵庫県から重要民需産業に指定された

1948年に入ると豚肉のほか兎肉・子牛・山羊肉・馬肉が出回り始めたが、馬肉と山羊肉はにおいが強く、ハム・ソーセージにはほとんど使われていなかった。伊藤傳三氏は鮮度を落とさずに臭みを抜く方法を探し、氷水で水洗いする脱臭法にたどり着いて畜肉の寄せハムを作った。これが原料肉の足りない業界にプレスハムを生むきっかけとなり、1947年7月から製造を始め、1948年には魚肉をやめて全面的に畜肉へ切り替えた。同業他社も畜肉のプレスハムを売り出したが、温度管理のばらつきから風味が抜けたり色が黒ずんだりする製品があった。自社だけが良い製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体のイメージが下がり消費者のためにならないと考えた伊藤傳三氏は、同業者の技術幹部を集め、温度管理と製造工程、氷水による水洗い技術のすべてを公開した。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [35]1948年に入ると豚肉のほか兎肉・子牛・山羊肉・馬肉が出回り始めたが、馬肉と山羊肉はにおいがきつくハム・ソーセージにはほとんど使われていなかった
    • [36]においを取るには生肉を徹底的に水洗いすればよいが鮮度を落としては困るため、氷水による水洗いという脱臭法に成功して畜肉の寄せハムを開発した
    • [37]氷水による水洗いの脱臭法が原料肉不足に苦しむ業界にプレスハムを生むきっかけとなった
    • [38]雑肉を原料にした寄せハムすなわちプレスハムを作り始めたのは昭和22年7月からで、昭和23年には魚肉をやめて全面的に畜肉によるハム・ソーセージに切り替えた
    • [39]同業他社のプレスハムは畜肉の風味と香りがなくなったり色が黒ずんだりして技術面でばらつきのある製品もあった
    • [40]自分の会社だけがいい製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体のイメージダウンになり消費者のためにならないと考え、同業者の技術関係の幹部を集めて温度管理・製造工程と氷水による水洗い技術を全部公開した
参考文献[21]-[40]
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [21]古いさめ肉は独特のアンモニア臭が強くかまぼこ屋でも歓迎されず、神戸ではほとんどが肥料会社に送り込まれていた
    • [22]戦後の再興にあたって畜産物原料が乏しかったため、豊富にあったさめ肉を原料に選んだ
    • [25]鮮度の良いさめ肉をソーセージの原料とする研究を始めて挽肉の脱臭に成功し、ラードあるいは植物油を使って技術面で成功した
    • [26]畜肉取扱業者でも原料がさめ肉とは気がつかないほどだった
    • [31]自由販売であれば高く販売できたが、公定価格で協力しようということで家庭配給ルートに乗せ随分販売した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [23]昭和21年には神戸の焼跡からレンガを拾ってきてかまどを作り、ドラム缶をボイル用の釜とし、焼けたモーターを修理して動力とした
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [24]前の工場跡から赤くさびたミンチ釜を掘り出し、ペーパーやすりで磨いて据え付け、モーターの銅線も自分で巻き替えた
    • [27]昭和21年4月3日に戦後第一号の魚肉ソーセージを完成してニューソーセージと命名し、同月7日から発売したところ近所の小売店4、5軒で即座に売り切れた
    • [28]ニューソーセージを大量に生産するには大量の原料と資材が必要で、まだ統制時代でその元締めは兵庫県庁だった
    • [29]県民の食糧不足を解消するため岸田知事を中心に兵庫県食糧会議所が設置され、伊藤傳三は生鮮食品業界を代表して参加した
    • [30]会社は県の重要民需産業の指定を受け、物価局の規定に基づいて製品は公定価格で生産量の7割を家庭配給に回し、残りの3割を自由販売できた
    • [33]発売後3カ月で新工場を建設して生産量を増やすことになり、7月末に神戸市灘区備後町に敷地約5,000平方メートルの工場を完成させ、製造能力は一挙に100倍に膨らんだ
    • [35]1948年に入ると豚肉のほか兎肉・子牛・山羊肉・馬肉が出回り始めたが、馬肉と山羊肉はにおいがきつくハム・ソーセージにはほとんど使われていなかった
    • [36]においを取るには生肉を徹底的に水洗いすればよいが鮮度を落としては困るため、氷水による水洗いという脱臭法に成功して畜肉の寄せハムを開発した
    • [37]氷水による水洗いの脱臭法が原料肉不足に苦しむ業界にプレスハムを生むきっかけとなった
    • [38]雑肉を原料にした寄せハムすなわちプレスハムを作り始めたのは昭和22年7月からで、昭和23年には魚肉をやめて全面的に畜肉によるハム・ソーセージに切り替えた
    • [39]同業他社のプレスハムは畜肉の風味と香りがなくなったり色が黒ずんだりして技術面でばらつきのある製品もあった
    • [40]自分の会社だけがいい製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体のイメージダウンになり消費者のためにならないと考え、同業者の技術関係の幹部を集めて温度管理・製造工程と氷水による水洗い技術を全部公開した
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1946年4月に神戸市灘区備後町で合名会社伊藤食品工業を設立した
    • [34]1948年6月に伊藤栄養食品工業株式会社へ改組して兵庫県から重要民需産業に指定された

1949年〜物品税の撤廃と直販が開いた大衆化

戦時中にハム・ソーセージへ課された物品税は、戦後もそのまま引き継がれて需要の拡大を妨げる一因になっていた。当時はボンレスハムやポークハムなどの単味品はもちろん、寄せハムにも30%が課されていた。東京・大森の料亭で関東と関西の代表者が対策を練ったとき、東京の業者には悪税だとしても強硬に主張して官ににらまれれば損だという空気があった。伊藤傳三氏は高級品ではなく大衆品である寄せハムに課税するのは間違っていると信じ、灘の税務署長と口論したうえで大蔵省主税局に談判した。1949年6月11日にプレスハムの物品税は撤廃され、7月から実施された。単味品に残っていた10%も翌1950年1月に全廃となり、プレスハムの大衆化が進み始めた。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [41]戦時中ハム・ソーセージには物品税が課せられ、戦後も一時期そのまま引き継がれてハム・ソーセージ需要の拡大を妨げる一要因となった
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [42]当時はボンレス・ポークハムなどの単味品はもちろん寄せハムにも物品税30%が課せられていた
    • [43]東京・大森の料亭で関東・関西の代表者が集まって対策を練った際、東京の業者には物品税は悪税で撤廃してもらいたいがあまり強硬に主張してお上ににらまれても損するという空気があった
    • [44]高級品ではなく大衆品である寄せハムに物品税をかけるのは間違っていると信じ、灘の税務署長と口げんかしたあげく大蔵省の主税局で談判した
    • [45]昭和24年6月11日にプレスハムは課税を撤廃され、7月から実施された
    • [46]単味品に残っていた10%の物品税も翌昭和25年1月についに全廃になり、プレスハムの大衆化路線が軌道に乗り始めた

当初は代理店を通して小売店へ売っていたが、値段をたたかれるうえ、他社製品と一緒に扱われるために自社製品がどれだけ売れているか把握できなかった。伊藤傳三氏は1948年のプレスハム販売のころから関西を中心に直営の営業所を置き、仲買人を通さない直販へ切り替えた。さらに自社製品だけを売る小売店を集めて伊藤ハム会を結成し、会社が側面から援助した。1957年夏、東京のホテルでテレビを見ていた伊藤傳三氏は、日本水産や大洋漁業といった水産会社の魚肉ハム・ソーセージの広告が目立つことに気づき、西宮の工場建設より東京進出が先だと判断した。目黒区三田に4,200平方メートルの用地を求め、当時の金で2億3,900万円を投じて1959年6月に目黒工場を完成させた。東京でも最初から仲買制度をやめ、直販を採った。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [47]当初は代理店を通じて小売店に販売していたが、値段をたたかれること、他社製品と共に取り扱われるので自社製品がどれだけ売れているのか把握できないことなどの弊害があった
    • [49]自社製品だけを売る小売店を集めて伊藤ハム会を結成し、会社が側面から援助するようになった
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [48]昭和23年のプレスハムの販売のころから関西を中心に直営の営業所を設置し、仲買人を通さないメーカーから小売店への直販ルートにした
    • [50]昭和32年夏に新橋の第一ホテルでテレビを見ていると日本水産や大洋漁業などの魚肉ハム・ソーセージの宣伝が目立ち、西宮工場建設どころではなく東京進出が先だと判断した
    • [51]目黒区三田に4,200平方メートルの用地を手に入れ、当時の金で2億3,900万円をかけて昭和34年6月に目黒工場が完成した
    • [52]東京での販売がうまくいったのは最初から仲買制度をやめて直販システムを採用したことが大きかった

1957年ごろから原料の豚肉が手に入りにくくなった。米価が上がるにつれて農村は米作りに精を出し、豚の飼育に熱を入れなくなっていたためである。伊藤傳三氏は早くからマトンの脱血・脱臭法を研究しており、1958年にニュージーランドから3,000トンを輸入した。その年の日本全体の輸入が3,200トンだったから、ほとんどを使い切った計算になる。マトンは脂肪分を分離して油脂会社へ売り、残る赤身を氷水で十分に洗って血を抜き、脱水器で絞ってから塩漬けにかけるとプレスハムの主原料になった。原料の裏づけを得て1960年11月3日に西宮工場が操業を始め、1961年1月に商号を伊藤ハム栄養食品へ変え、同年10月に東京・大阪両証券取引所の第二部と神戸証券取引所へ上場した。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [53]昭和32、33年ごろから原料豚肉の入手が難しくなってきた
    • [54]米価が上がるのにつれて農村は米づくりに精出し、豚の飼育に熱を入れなくなっていたうえ豚肉需要は伸びる一方だった
    • [55]原料不足を予想してマトンの脱血・脱臭法を研究しており、昭和33年にニュージーランドから初めて3,000トンのマトンを輸入した
    • [56]昭和33年のわが国全体のマトン輸入は3,200トンで、そのほとんどを伊藤ハムが使ったことになる
    • [57]マトンは脂肪分を分離して油脂会社に売却し、残りの赤身の部分を氷水で十分洗って血液を抜き、脱水器で絞ってから塩漬けにかけてプレスハムの主原料に使われるようになった
    • [58]昭和34年秋に着手した西宮工場の工事は急ピッチで進み、翌昭和35年11月3日に操業にこぎつけた
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1961年1月に伊藤ハム栄養食品株式会社へ商号変更、同年10月に東京・大阪両証券取引所市場第二部および神戸証券取引所に上場

神戸工場から西宮工場へ移った1961年の従業員は約1,300人、年商は約36億円になっていた。移転して間もなく総評系の労働組合が生まれ、春闘や一時金闘争のたびにストライキに巻き込まれた。夏の一時金闘争で組合が開いた集会を勤務時間に食い込む違法集会として委員長ら三役を解雇したことから対立は深まり、1962年11月には組合幹部を中心とする32人が14日間のハンガーストライキに入った。1961年12月期の売上高は36億7,400万円、利益は1億600万円にとどまり、当初見込んだ売上50億円を大きく下回って公約の20%配当は15%へ減配された。株式市場で取り沙汰された減配に対しては、含み資産の厚みが業界首位の底力の根拠として持ち出された。それでも同族色を脱して近代経営へ移る課題は残った。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [60]神戸工場から新しい西宮工場に移転した昭和36年初めの従業員は約1,300人、年商も約36億円になっていた
    • [61]西宮工場に移転して間もなく総評系の労働組合が誕生し、春闘や一時金闘争があるたびにストライキ騒ぎに巻き込まれた
    • [62]夏のボーナス闘争で労組が行った集会が勤務時間に食い込む違法集会だったことを理由に組合の委員長・副委員長・書記長を解雇処分にしたことが直接の原因となり、昭和37年11月に組合幹部を中心とする32人が14日間のハンガーストライキに入った
  • 野田経済 1962年6月4日号
    • [63]組合問題が原因で昭和36年12月期の業績は売上高36億7,400万円・利益1億600万円となり、当初の予想である売上高50億円をかなり下回って公約の20%配当が15%に減配された
    • [64]伊藤傳三は株式市場での取り沙汰に対し、うわすべりな見方はやめて総合的にみてほしい、当社の含み資産ひとつ見てもわかるように底力は業界ナンバーワンだと反論した
    • [65]経営の近代化に心がけてきているがまだ近代経営へ脱皮しているとはいえず、人材の養成や同族カラーを破っていく課題が残っていた
参考文献[41]-[65]
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [41]戦時中ハム・ソーセージには物品税が課せられ、戦後も一時期そのまま引き継がれてハム・ソーセージ需要の拡大を妨げる一要因となった
    • [47]当初は代理店を通じて小売店に販売していたが、値段をたたかれること、他社製品と共に取り扱われるので自社製品がどれだけ売れているのか把握できないことなどの弊害があった
    • [49]自社製品だけを売る小売店を集めて伊藤ハム会を結成し、会社が側面から援助するようになった
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [42]当時はボンレス・ポークハムなどの単味品はもちろん寄せハムにも物品税30%が課せられていた
    • [43]東京・大森の料亭で関東・関西の代表者が集まって対策を練った際、東京の業者には物品税は悪税で撤廃してもらいたいがあまり強硬に主張してお上ににらまれても損するという空気があった
    • [44]高級品ではなく大衆品である寄せハムに物品税をかけるのは間違っていると信じ、灘の税務署長と口げんかしたあげく大蔵省の主税局で談判した
    • [45]昭和24年6月11日にプレスハムは課税を撤廃され、7月から実施された
    • [46]単味品に残っていた10%の物品税も翌昭和25年1月についに全廃になり、プレスハムの大衆化路線が軌道に乗り始めた
    • [48]昭和23年のプレスハムの販売のころから関西を中心に直営の営業所を設置し、仲買人を通さないメーカーから小売店への直販ルートにした
    • [50]昭和32年夏に新橋の第一ホテルでテレビを見ていると日本水産や大洋漁業などの魚肉ハム・ソーセージの宣伝が目立ち、西宮工場建設どころではなく東京進出が先だと判断した
    • [51]目黒区三田に4,200平方メートルの用地を手に入れ、当時の金で2億3,900万円をかけて昭和34年6月に目黒工場が完成した
    • [52]東京での販売がうまくいったのは最初から仲買制度をやめて直販システムを採用したことが大きかった
    • [53]昭和32、33年ごろから原料豚肉の入手が難しくなってきた
    • [54]米価が上がるのにつれて農村は米づくりに精出し、豚の飼育に熱を入れなくなっていたうえ豚肉需要は伸びる一方だった
    • [55]原料不足を予想してマトンの脱血・脱臭法を研究しており、昭和33年にニュージーランドから初めて3,000トンのマトンを輸入した
    • [56]昭和33年のわが国全体のマトン輸入は3,200トンで、そのほとんどを伊藤ハムが使ったことになる
    • [57]マトンは脂肪分を分離して油脂会社に売却し、残りの赤身の部分を氷水で十分洗って血液を抜き、脱水器で絞ってから塩漬けにかけてプレスハムの主原料に使われるようになった
    • [58]昭和34年秋に着手した西宮工場の工事は急ピッチで進み、翌昭和35年11月3日に操業にこぎつけた
    • [60]神戸工場から新しい西宮工場に移転した昭和36年初めの従業員は約1,300人、年商も約36億円になっていた
    • [61]西宮工場に移転して間もなく総評系の労働組合が誕生し、春闘や一時金闘争があるたびにストライキ騒ぎに巻き込まれた
    • [62]夏のボーナス闘争で労組が行った集会が勤務時間に食い込む違法集会だったことを理由に組合の委員長・副委員長・書記長を解雇処分にしたことが直接の原因となり、昭和37年11月に組合幹部を中心とする32人が14日間のハンガーストライキに入った
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [59]1961年1月に伊藤ハム栄養食品株式会社へ商号変更、同年10月に東京・大阪両証券取引所市場第二部および神戸証券取引所に上場
  • 野田経済 1962年6月4日号
    • [63]組合問題が原因で昭和36年12月期の業績は売上高36億7,400万円・利益1億600万円となり、当初の予想である売上高50億円をかなり下回って公約の20%配当が15%に減配された
    • [64]伊藤傳三は株式市場での取り沙汰に対し、うわすべりな見方はやめて総合的にみてほしい、当社の含み資産ひとつ見てもわかるように底力は業界ナンバーワンだと反論した
    • [65]経営の近代化に心がけてきているがまだ近代経営へ脱皮しているとはいえず、人材の養成や同族カラーを破っていく課題が残っていた

第2章 1965年〜 商品開発で立った米久と、精肉店の系列化で量を取った伊藤ハム

筆者考察y.sugiura, author

1960年代後半の食肉加工は、製品の出来よりも精肉店を何軒確保したかで順位が決まる市場だった。問屋を通さず、冷蔵設備を持つ精肉店へ直接売る仕組みである以上、全国4万店の小売が実質の関門になる。伊藤ハムは全従業員2,100人のうち600人を営業に充て、取引先1万5,000軒のうち2,300店を自社製品だけの専売店に変え、マージンを一般の精肉店より高く置いて囲い込んだ。統一包装紙もショーケースも会社が無償で配ったのは、店ごと自社の売り場に変えるためである。プリマ会の6,000店より数は少ないが、一店あたりの結びつきは濃い。他人の店を関門ごと確保する道として合理的であり、実際に1978年にはハム・ソーセージで日本ハムを上回った。

同じ時期に沼津で始まった米久は確保できる店を持たなかったので、置いてもらう場所のほうを自分で作るしかなかった。庄司清和氏は最初の10年を食肉の卸売りに使って取引先を積み上げ、丸か四角か三角しかなかったハムへダルマ・スモークハムを持ち込んだ。伊藤ハムが小売の網に収益を預けたのに対し、米久は商品の新しさに預けたことになる。差は原料が高くなったときに表れる。と畜も肥育も持たない伊藤ハムは、豚肉の緊急輸入制限によるコスト増を吸収できず、1993年に100億円あった営業利益を1996年には53億円まで減らした。売り場をいくら確保しても、仕入れの側を握っていなければ相場がそのまま損益へ抜ける。

1965年〜食肉の卸売り10年を経て出したダルマ・スモークハム

庄司清和氏が静岡県沼津市で米久食品を興したのは1965年である。当時の食肉業界は、関西系のハム会社が全国に販売網を張り終えて上場も果たしたあとで、食肉加工業者の数は400社を超えていた。庄司清和氏は畜産学部で学び、在学中は脱脂粉乳を乳酸発酵させた飲料を売り歩いて研究室の費用に充てた人物で、卒業後に入った東京の米久を16カ月で辞めている。資金・信用・技術のいずれも欠く米久では、ハム・ソーセージを生産しても売り先がなく、代わりに食肉の卸売りを約10年続けて、余剰のある先から不足する先へ肉を運び、骨や脂を外す作業を残業で請けては手間賃を得た。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [66]庄司清和氏は東京の米久に就職して16カ月で辞め、故郷に近い静岡県沼津市で個人創業した
    • [67]当時の食肉業界は関西系のハム会社など大手が全国ネットワークを完成して上場も終えており、食肉加工業者も400社以上あった
    • [68]畜産学部の出身で、畜産物利用学の研究室にいた学生時代に脱脂粉乳を乳酸発酵させた乳酸飲料を作って売り歩き研究室の費用を稼いだ
    • [69]当初は資金も信用も技術もなくハムやソーセージの生産は無理で、作っても売れる状態ではなかった
    • [70]まず食肉の卸売りを手がけ、足りないものを余っているところから持ってきて売り、骨や脂を取る仕事は残業して手間賃を稼ぐやり方で約10年間続けた

取引先が200〜300社、営業所が2〜3カ所になった1973年から、米久はハム・ソーセージの製造と販売を本格的に始めた。丸・四角・三角の三つしかなかったハムの形に、手作りのダルマ・スモークハムを投じて当てたのは、後発の不利を独自の商品開発で差別化して埋めるという庄司清和社長の方針による。半調理品もミートボールやロールキャベツなどへ品目を広げ、1982年に開発を終えた生ハムは全国シェアで首位に立った。大手各社の間では、米久が何を開発するかを常に見張るべきだとの評価が定まった。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [71]取引先が200〜300社、営業所も2〜3カ所持てるようになり、1973年からハム・ソーセージの製造・販売を本格的に開始した
    • [72]それまでハムには丸か四角か三角しかなかったところへダルマ・スモークハムを開発し、手作りハムとして当たった
    • [73]独自の商品開発による差別化こそが徒手空拳の米久がこの業界で生き残るための何よりの武器と考えてきた
    • [74]ミートボール・ロールキャベツなど半調理品の分野でも多くの商品群を開発し、生ハムは1982年に開発を終えて圧倒的な全国シェアを持つに至った
    • [75]業界の大手各社から米久の商品開発から目を離してはいけないといわれるほどになった

販売では東海道メガロポリスと呼ばれる帯に絞って売り込み、得意先は約1,400社、売上高構成比は大手・中小スーパーが4割強、卸・専門店が4割強を占めた。従業員は415人にパートタイマー約200人、関連会社13社を合わせると約1,100人で、平均年齢は従業員が29歳、役員が44歳、支店長・工場長が36歳だった。社是は創業当初の『肉店の裏方はおまかせください』から『Better Products, Better Service』を経て、ヘルシー・コミュニケーションへ移した。仕入先はほとんどが生産者で、商社を通じた海外からの調達が約30%を占めた。1986年10月6日、米久は東京と名古屋で株式を店頭公開した。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [76]東海道メガロポリスといわれる地域で集中的に販売を強めてきたことが特徴で、得意先は約1,400社、売上高構成比は大手スーパー・中小スーパーが4割強、卸・専門店が4割強
    • [77]従業員は415人、パートタイマー約200人、関連会社13社を合わせた全従業員は約1,100人で、平均年齢は従業員29歳・役員44歳・支店長・工場長36歳
    • [78]経営理念は当初の「肉店の裏方はおまかせください」から社是「Better Products, Better Service」を経て「ヘルシー・コミュニケーション」に変わった
    • [79]仕入先はほとんど生産者だが、海外からも商社を通じて約30%を仕入れている
    • [80]1986年10月6日に東京と名古屋で株式を店頭公開した
参考文献[66]-[80]
  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [66]庄司清和氏は東京の米久に就職して16カ月で辞め、故郷に近い静岡県沼津市で個人創業した
    • [67]当時の食肉業界は関西系のハム会社など大手が全国ネットワークを完成して上場も終えており、食肉加工業者も400社以上あった
    • [68]畜産学部の出身で、畜産物利用学の研究室にいた学生時代に脱脂粉乳を乳酸発酵させた乳酸飲料を作って売り歩き研究室の費用を稼いだ
    • [69]当初は資金も信用も技術もなくハムやソーセージの生産は無理で、作っても売れる状態ではなかった
    • [70]まず食肉の卸売りを手がけ、足りないものを余っているところから持ってきて売り、骨や脂を取る仕事は残業して手間賃を稼ぐやり方で約10年間続けた
    • [71]取引先が200〜300社、営業所も2〜3カ所持てるようになり、1973年からハム・ソーセージの製造・販売を本格的に開始した
    • [72]それまでハムには丸か四角か三角しかなかったところへダルマ・スモークハムを開発し、手作りハムとして当たった
    • [73]独自の商品開発による差別化こそが徒手空拳の米久がこの業界で生き残るための何よりの武器と考えてきた
    • [74]ミートボール・ロールキャベツなど半調理品の分野でも多くの商品群を開発し、生ハムは1982年に開発を終えて圧倒的な全国シェアを持つに至った
    • [75]業界の大手各社から米久の商品開発から目を離してはいけないといわれるほどになった
    • [76]東海道メガロポリスといわれる地域で集中的に販売を強めてきたことが特徴で、得意先は約1,400社、売上高構成比は大手スーパー・中小スーパーが4割強、卸・専門店が4割強
    • [77]従業員は415人、パートタイマー約200人、関連会社13社を合わせた全従業員は約1,100人で、平均年齢は従業員29歳・役員44歳・支店長・工場長36歳
    • [78]経営理念は当初の「肉店の裏方はおまかせください」から社是「Better Products, Better Service」を経て「ヘルシー・コミュニケーション」に変わった
    • [79]仕入先はほとんど生産者だが、海外からも商社を通じて約30%を仕入れている
    • [80]1986年10月6日に東京と名古屋で株式を店頭公開した

1967年〜精肉店4万店をめぐる系列化の競争

ハム・ソーセージは生鮮食料品で鮮度が最も重んじられるため、問屋を通さず精肉店へ直に売る仕組みが業界の標準だった。冷凍ケースや冷蔵庫といった設備を備えているのは精肉店で、彼らは一種の地域独占権を持っていた。畜肉のソーセージを主とする伊藤ハムとプリマハムでは、精肉店が販路の8割を占め、スーパーは1割にとどまった。精肉店を一店でも多く抱え込み、他社より早く系列に組み込んだメーカーがシェアを握るという構図があった。資金の乏しい小売店は、全国規模のスーパーの攻勢に単独では抗しようがなかった。そこで選んだのが集団化・組織化の道である。全国に4万店と推定される精肉店のうち、その半数にあたる2万店は、すでにいずれかのメーカーの会の加入店となっていた。

  • 産業と経済 1967年(勝田健)
    • [81]ハム・ソーセージは生鮮食料品であるため鮮度が一番重んじられ、他業界と異なり問屋を通さない精肉店直販システムである
    • [82]製品の保存期間が短いため小売りには冷凍ケース・冷蔵庫が必要で、そうした設備を完備しているのが精肉店であり、彼らは一種の地域独占権を所有している
    • [83]畜肉のソーセージを主とする専門メーカーである伊藤ハム・プリマハムは精肉店で80%、スーパー10%、後はその他という構成で、精肉店のウェイトは絶大である
    • [84]一軒でも多く精肉店を確保しいちはやく系列化をはかったメーカーがシェア確保で勝利を収め、王座に君臨できるので市場争奪戦は熾烈さを加えている
    • [85]資金的に限りのある小売店は全国的なスーパー攻勢に自分の店一軒だけでは対抗できず、進歩的な店は集団化・組織化の道を歩むことになる
    • [86]全国に4万店と推察される精肉店のうち半数の2万店がどこかのメーカーの〇〇会に加入加盟している

1967年の時点で、伊藤ハムは全国1万5,000軒の取引先のうち2,300店を自社製品だけを扱う専門店にしていた。入会金は1,000円、年会費は3,600円で、営業所ごとに単位組織を置くプリマハムとは異なり、関東・中部など全国10ブロックに分けて会員制を敷いた。専売店であるため会社との結びつきは濃く、機械資材の共同購入、統一包装紙の無料配布、電飾ディスプレイとショーケースの無料設置、毎月の小売店経営セミナー、機関誌の発行まで手を広げた。加盟店のマージン幅は26%で、一般の精肉店より1〜2%高く置いた。全従業員2,100人のうち600人を営業に充てており、3,000人中500人のプリマハムより小売店の系列化へ力を割いていた。

  • 産業と経済 1967年(勝田健)
    • [87]伊藤ハムは全国取引先1万5,000軒のうち2,300店を完全な伊藤ハムのみを販売する専門店にしている
    • [88]入会金1,000円は同じだが年会費は3,600円で、営業所ごとに単一ハム会を置くプリマハムと異なり関東伊藤ハム会をはじめ全国10ブロックに分けて会員制を敷いている
    • [89]専売店であるため伊藤ハム会とメーカーの密着度は濃く、機械資材の共同購入・統一包装紙の無料配布・電飾ディスプレイの無料設置・ハーモニーショーケースの無料設置・小売店経営セミナーの毎月開催・小売店向け機関誌の発行など多種多様なディーラープロモーションを行っている
    • [90]伊藤ハムでは伊藤ハム会に加盟した場合のマージン幅は26%で、一般精肉店と1〜2%の差を設けている
    • [91]伊藤ハム全従業員2,100人のうち600人が営業マンであり、プリマハムは全従業員3,000人のうち500人という比率から小売店系列化への力の配分が察せられる

1967年7月、伊藤ハムは東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ指定された。同年8月の仮決算では売上高86億7,200万円と前年同期比37.4%の伸びを示したが、経常利益は500万円増の3億6,500万円にとどまった。売上原価と販売費・一般管理費が23億3,700万円増え、売上の伸びを食ったためである。伊藤ハムと関わりのない血清豚肉事件が業界に波及して広告宣伝費に1億円以上を要したうえ、原料の豚肉が30〜40%値上がりした。それでも会社は向こう3年で25億円の設備投資を組み、佐賀県基山と千葉県柏に工場を建て、営業所20カ所を新増設する計画を進めた。1968年6月にはチーズ部門へ進出し、総合食品メーカーへの間口を広げた。

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [92]1967年7月に東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定された
  • 週刊日本経済 1967年11月9日号
    • [93]1967年8月の仮決算では売上高86億7,200万円と前年同期比37.4%増えたが、前半6カ月の経常利益は500万円増の3億6,500万円にとどまった
    • [94]売上原価や販売費・一般管理費などの営業費が23億3,700万円増加し、営業費が売上の伸びを食った形となった
    • [95]伊藤ハムや日本ハム、丸大食品など関西系ハム会社には何の関連もなかった血清豚肉事件が業界に影響を及ぼし、伊藤ハムでも広告宣伝費に1億円以上を要したほか特別販売セールなどで拡販に努めた
    • [96]原料豚肉が約30〜40%値上がりした
    • [97]向こう3年間の設備投資は合計25億200万円で、千葉(柏)工場10億円・九州(基山)工場3億8,600万円・営業所新増設5億8,800万円などを計画し、営業所は3年間で20カ所を新増設する
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
    • [98]昭和43年5月に千葉県に柏新工場を完成して関東地区への供給力を強化し、同6月から新たにチーズ部門に進出した
参考文献[81]-[98]
  • 産業と経済 1967年(勝田健)
    • [81]ハム・ソーセージは生鮮食料品であるため鮮度が一番重んじられ、他業界と異なり問屋を通さない精肉店直販システムである
    • [82]製品の保存期間が短いため小売りには冷凍ケース・冷蔵庫が必要で、そうした設備を完備しているのが精肉店であり、彼らは一種の地域独占権を所有している
    • [83]畜肉のソーセージを主とする専門メーカーである伊藤ハム・プリマハムは精肉店で80%、スーパー10%、後はその他という構成で、精肉店のウェイトは絶大である
    • [84]一軒でも多く精肉店を確保しいちはやく系列化をはかったメーカーがシェア確保で勝利を収め、王座に君臨できるので市場争奪戦は熾烈さを加えている
    • [85]資金的に限りのある小売店は全国的なスーパー攻勢に自分の店一軒だけでは対抗できず、進歩的な店は集団化・組織化の道を歩むことになる
    • [86]全国に4万店と推察される精肉店のうち半数の2万店がどこかのメーカーの〇〇会に加入加盟している
    • [87]伊藤ハムは全国取引先1万5,000軒のうち2,300店を完全な伊藤ハムのみを販売する専門店にしている
    • [88]入会金1,000円は同じだが年会費は3,600円で、営業所ごとに単一ハム会を置くプリマハムと異なり関東伊藤ハム会をはじめ全国10ブロックに分けて会員制を敷いている
    • [89]専売店であるため伊藤ハム会とメーカーの密着度は濃く、機械資材の共同購入・統一包装紙の無料配布・電飾ディスプレイの無料設置・ハーモニーショーケースの無料設置・小売店経営セミナーの毎月開催・小売店向け機関誌の発行など多種多様なディーラープロモーションを行っている
    • [90]伊藤ハムでは伊藤ハム会に加盟した場合のマージン幅は26%で、一般精肉店と1〜2%の差を設けている
    • [91]伊藤ハム全従業員2,100人のうち600人が営業マンであり、プリマハムは全従業員3,000人のうち500人という比率から小売店系列化への力の配分が察せられる
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [92]1967年7月に東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定された
  • 週刊日本経済 1967年11月9日号
    • [93]1967年8月の仮決算では売上高86億7,200万円と前年同期比37.4%増えたが、前半6カ月の経常利益は500万円増の3億6,500万円にとどまった
    • [94]売上原価や販売費・一般管理費などの営業費が23億3,700万円増加し、営業費が売上の伸びを食った形となった
    • [95]伊藤ハムや日本ハム、丸大食品など関西系ハム会社には何の関連もなかった血清豚肉事件が業界に影響を及ぼし、伊藤ハムでも広告宣伝費に1億円以上を要したほか特別販売セールなどで拡販に努めた
    • [96]原料豚肉が約30〜40%値上がりした
    • [97]向こう3年間の設備投資は合計25億200万円で、千葉(柏)工場10億円・九州(基山)工場3億8,600万円・営業所新増設5億8,800万円などを計画し、営業所は3年間で20カ所を新増設する
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
    • [98]昭和43年5月に千葉県に柏新工場を完成して関東地区への供給力を強化し、同6月から新たにチーズ部門に進出した

1971年〜自由化と生肉への傾斜が変えた収益の形

資本の自由化に伴う外資との提携で業界が一時混乱するなか、伊藤ハムは技術の習得を狙った提携には加わらなかった。欧米の工場を見学した経験から、自社の技術水準は劣らないとみたためである。製品の側では、1971年6月にソーセージ、1972年4月にハムとベーコンの自由化が決まり、伊藤ハムの主力はすべて自由化の対象となった。工場は神戸・西宮・豊橋・四日市・目黒・東京・九州・札幌の各工場に、1972年5月竣工の東北工場と広島県三原市の中国工場が加わり、11カ所を数えた。営業所は関西から東北・北海道まで7地区に95〜96カ所を数えた。1971年2月期の売上高は約591億円、税引後利益は約12億4,400万円で、上場した1961年2月期の約36億2,000万円・約6,600万円から10年で16倍と18倍になっていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [99]以前から欧米のハム・ソーセージ製造工場を見学しており技術水準では決して引けを取らない自信を持っているため、技術を学ぶために外資と提携する必要は全くないと述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [100]昭和46年6月にソーセージが、昭和47年4月からハム・ベーコンが自由化され、主力製品のハム・ソーセージはいずれも自由化品目に指定された
    • [101]工場は神戸・西宮・豊橋・四日市・目黒・東京・九州・札幌のほか、昭和47年5月に竣工式を迎える東北工場と来期中に完成予定の広島県三原市の中国工場を加えると11カ所となる
    • [102]営業所は関西・中部・北陸・中国四国・九州・関東・東北北海道の7地区に大体95〜96カ所ある
    • [103]上場時の昭和36年2月期は売上高約36億2,000万円・税引後利益約6,600万円だったが、10年を経過した昭和46年2月期の売上高は約591億円・税引後利益約12億4,500万円で、売上で約16倍・税引後利益で約18倍になった

ハム・ソーセージ一本で通してきた会社が生肉へ手を伸ばしたのは、得意先の小売店から生肉を他業者から仕入れるのは手間がかかるという要請が相次いだためである。西宮工場内に生肉のカット工場を建て、骨を抜き、そのまま切って小売りできるところまで加工した。小売店の職人が少なくて済むためデパートやスーパー、ショッピングセンターからの需要が増え、1972年には生肉が水揚げの47〜48%を占めるまでになった。生肉を扱うと派生してくるくず肉を加工へ回せる利点もあった。ただし規格肉と生肉は利益率が低く、売上高に比べて利益が大きくならないことが業績上の特色になった。1976年2月期は売上高1,420億円に対し経常利益62億円、税引利益30億円あまりを見込んだ。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [104]昭和40年までハム・ソーセージ一本槍で通してきたが、得意先の小売店から生肉を他業者から仕入れるのは手間がかかるとの要請が相次ぎ、生肉カット工場を西宮工場内に建設した
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [105]生肉は骨を抜いて加工を施してあり、すぐ切って小売りできるもので、カット肉と称している
    • [106]小売店の職人が少なくて済むのでデパート・スーパーマーケット・ショッピングセンターなど各方面の小売店からの需要が増加し、現在生肉が水揚げの47〜48%を占めるようになっている
    • [107]生肉を扱うと派生的に出てくるくず肉を加工面に使用できる利点を持つ
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [108]小売店の要望に応じて利益率の低い規格肉や生肉の販売もしているので、売上高に比して利益があまり大きくないのが業績上の特色となっている
    • [109]昭和51年2月期の業績は売上高1,420億円、経常利益62億円、税引利益30億円余りとなる見込み

1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円に達し、678億円の日本ハムとの差を広げて首位に立ったが、と畜場の経営はゼロだった。豚肉の緊急輸入制限措置が発動されると、伊藤ハムはそれに伴って膨らんだ原価を埋め切れなかった。原料の輸入依存はかねて深まっており、1975年には豚肉だけで12万トンほどを海外から買っていた。1993年3月期の伊藤ハムは売上高4,540億円、営業利益100億円、経常利益123億円を上げていた。それが1996年3月期には売上高4,340億円、営業利益53億円、経常利益63億円まで落ち込んだ。1995年のハム・ソーセージのシェアは、日本ハム19.3%に対し伊藤ハム17.8%である。日本ハムがハム・ソーセージの比重を下げて多角化へ進んだのとは逆に、伊藤ハムでは生肉が売上の54%を占めていた。と畜と肥育を握らないまま原料相場に収益を委ねる構造が残っていた。

  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [110]1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で2位の日本ハムは678億円、伊藤ハム栄養食品は畜殺場経営がゼロだった
  • 経営コンサルタント 1997年「激突する変革時代の競合戦略(5)日本ハムVS.伊藤ハム」(坂口義弘)
    • [111]伊藤ハムは日本ハム同様セーフガード(豚肉緊急輸入制限措置)発動によるコスト増を吸収できず大幅な減益になった
    • [113]伊藤ハムの1996年3月期は売上高4,340億円・営業利益53億円・経常利益63億円で、1993年3月期の売上高4,540億円・営業利益100億円・経常利益123億円から大幅な減益となった
    • [114]1995年のハム・ソーセージ国内生産量・輸入量合計のシェアは日本ハムが19.3%で対前年比1.2ポイント減、伊藤ハムは17.8%で0.3ポイント伸ばした
    • [115]日本ハムは多角化路線を目標にハム・ソーセージへのウエートを低くしている一方、伊藤ハムの売上構成はハム・ソーセージ30%・調理加工食品14%・生肉54%・その他2%である
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [112]牛肉・豚肉とも国内では賄いきれず、最近では豚肉も足りなくなり昨年は12万トン程度を輸入している
参考文献[99]-[115]
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [99]以前から欧米のハム・ソーセージ製造工場を見学しており技術水準では決して引けを取らない自信を持っているため、技術を学ぶために外資と提携する必要は全くないと述べた
    • [108]小売店の要望に応じて利益率の低い規格肉や生肉の販売もしているので、売上高に比して利益があまり大きくないのが業績上の特色となっている
    • [109]昭和51年2月期の業績は売上高1,420億円、経常利益62億円、税引利益30億円余りとなる見込み
    • [112]牛肉・豚肉とも国内では賄いきれず、最近では豚肉も足りなくなり昨年は12万トン程度を輸入している
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [100]昭和46年6月にソーセージが、昭和47年4月からハム・ベーコンが自由化され、主力製品のハム・ソーセージはいずれも自由化品目に指定された
    • [101]工場は神戸・西宮・豊橋・四日市・目黒・東京・九州・札幌のほか、昭和47年5月に竣工式を迎える東北工場と来期中に完成予定の広島県三原市の中国工場を加えると11カ所となる
    • [102]営業所は関西・中部・北陸・中国四国・九州・関東・東北北海道の7地区に大体95〜96カ所ある
    • [103]上場時の昭和36年2月期は売上高約36億2,000万円・税引後利益約6,600万円だったが、10年を経過した昭和46年2月期の売上高は約591億円・税引後利益約12億4,500万円で、売上で約16倍・税引後利益で約18倍になった
    • [105]生肉は骨を抜いて加工を施してあり、すぐ切って小売りできるもので、カット肉と称している
    • [106]小売店の職人が少なくて済むのでデパート・スーパーマーケット・ショッピングセンターなど各方面の小売店からの需要が増加し、現在生肉が水揚げの47〜48%を占めるようになっている
    • [107]生肉を扱うと派生的に出てくるくず肉を加工面に使用できる利点を持つ
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [104]昭和40年までハム・ソーセージ一本槍で通してきたが、得意先の小売店から生肉を他業者から仕入れるのは手間がかかるとの要請が相次ぎ、生肉カット工場を西宮工場内に建設した
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [110]1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で2位の日本ハムは678億円、伊藤ハム栄養食品は畜殺場経営がゼロだった
  • 経営コンサルタント 1997年「激突する変革時代の競合戦略(5)日本ハムVS.伊藤ハム」(坂口義弘)
    • [111]伊藤ハムは日本ハム同様セーフガード(豚肉緊急輸入制限措置)発動によるコスト増を吸収できず大幅な減益になった
    • [113]伊藤ハムの1996年3月期は売上高4,340億円・営業利益53億円・経常利益63億円で、1993年3月期の売上高4,540億円・営業利益100億円・経常利益123億円から大幅な減益となった
    • [114]1995年のハム・ソーセージ国内生産量・輸入量合計のシェアは日本ハムが19.3%で対前年比1.2ポイント減、伊藤ハムは17.8%で0.3ポイント伸ばした
    • [115]日本ハムは多角化路線を目標にハム・ソーセージへのウエートを低くしている一方、伊藤ハムの売上構成はハム・ソーセージ30%・調理加工食品14%・生肉54%・その他2%である

第3章 2000-2015 (気が向いたら執筆します!) 三菱商事との包括業務提携から伊藤ハムと米久の経営統合合意まで

第4章 2016-2026 (気が向いたら執筆します!) 伊藤ハム米久HDの設立とANZCO完全子会社化、明治ケンコーハムの取得

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

歴史年表 1928〜2024年

伊藤ハム米久ホールディングスの沿革1928〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1928〜1964年海産物から畜産物へ移り、プレスハムの技術を業界へ開いた創業期伊藤傳三が大阪府で伊藤食品加工業を創業(伊藤ハムの起点)★★★
伊藤ハムがセロハンウインナー(現ポールウインナー)を開発★★
伊藤ハムが兵庫県神戸市で合名会社伊藤食品工業を復興★★
伊藤ハムが伊藤栄養食品工業を設立★★
伊藤ハムがハム・ソーセージの原料肉としてマトンの使用技術を開発★★
伊藤ハムが東京都目黒区に目黒工場を新設★
1965〜1999年商品開発で立った米久と、精肉店の系列化で量を取った伊藤ハム庄司清和が静岡県で米久食品を創業(米久の起点)★★★
伊藤ハムが東京証券取引所・大阪証券取引所市場第一部に上場★
米久がスモークハム・ダルマスモークハムを発売★
米久が生ハム専用工場の御殿場工場(現ふじやま工場)を新築★
伊藤ハムが手造りウインナーバイエルンを発売★
伊藤ハムがポークビッツを発売★
米久が御殿場高原あらびきポークを発売★
米久が東京証券取引所市場第一部に上場★
伊藤ハムが東京都目黒区にアルト伊藤ビル(現ホールディングス本社)を新設★
2000〜2015年三菱商事との包括業務提携から伊藤ハムと米久の経営統合合意まで伊藤ハム・米久・三菱商事が包括業務提携契約を締結★★
米久がECサイトを開設しネット通販に本格参入★
伊藤ハムが茨城県取手市に取手工場を新設★
伊藤ハムと米久が共同持株会社設立による経営統合の基本契約書を締結★★
2016〜2026年伊藤ハム米久HDの設立とANZCO完全子会社化、明治ケンコーハムの取得宮下功株式移転により伊藤ハム米久ホールディングスを設立し東京証券取引所に上場★★★
宮下功ニュージーランドのANZCO FOODS LTD.の株式を追加取得し完全子会社化★★★
宮下功明治ケンコーハム(後の米久ケンコーハム)の株式を取得し完全子会社化★★
宮下功植物性素材を用いたまるでお肉!シリーズを発売★★
宮下功米久ケンコーハムの事業を米久に譲渡し清算★
宮下功東京証券取引所プライム市場に移行★
宮下功IHミートパッカー十和田ビーフプラントが竣工★
出典・参考 12件
出典・参考
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
  • 週刊日本経済 1967年11月9日号
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
  • 野田経済 1962年6月4日号
  • 産業と経済 1967年(勝田健)
  • オール大衆 1969年「ハムの歴史をつくる/伊藤傳三」
  • 経営コンサルタント 1997年「激突する変革時代の競合戦略(5)日本ハムVS.伊藤ハム」(坂口義弘)

免責事項およびポリシー