伊藤ハムの創業期を貫いているのは、資本の要る場所を避け、他社が扱えない原料を扱う技術で立ち位置を確保するという選び方である。ボンレスハムやロースハムは設備と資金の量で優劣が決まるため、伊藤傳三氏はそこへ向かわず、あめ菓子の包装から出た赤いセロハンの断ちくずを使って10匁単位の商品を作った。戦後はかまぼこ屋にも敬遠されて肥料へ回っていたさめ肉を脱臭してニューソーセージに変え、においが強くて誰も使わなかった馬肉と山羊肉を氷水の水洗いで寄せハムに仕立てた。原料の格が低いほど仕入れ値は安く、技術を持つ者だけが加工できる。セロハンウインナから寄せハムまで、扱えないものを扱えるようにする一点で製品が並んでいる。
その技術を独占せずに同業へ公開したことは、競争優位を手放す判断に見える。だが当時のプレスハムは作り手ごとに色も風味もばらつき、消費者にとってはプレスハムという商品そのものが信用できなかった。市場が信用されないかぎり、首位を取っても取る市場が小さいままになる。伊藤傳三氏は温度管理から氷水の水洗いまでを同業へ公開して品質の底を上げ、同じ理屈で大蔵省主税局に談判し、1949年に寄せハムの物品税を撤廃させた。品質が揃い税が外れて初めて、プレスハムは贈答品ではなく日常の副食として売れる。技術も税も、自社の取り分を増やすより先に市場の天井を外すほうへ使われている。1961年の上場までに年商36億円を確保した土台は、この二度の開放にあった。
伊藤傳三氏は三重県四日市市の漁師町に生まれ、16歳で学校を出ると大阪の海産物問屋へ丁稚奉公に出された。21歳で独立して小さな海産物屋を創業したものの、23歳で商売に失敗し、行李一つを提げて上京した。東京で缶詰・瓶詰・海産物・乾物とひととおりの食品を扱ったうえで、伊藤傳三氏がハム・ソーセージへ移った理由は原料の供給にあった。海産物は豊漁と不漁で供給が極めて不安定だが、畜産物なら安定して調達できると見たのである。1928年に大阪市北区で個人経営の食品工業を興し、1932年3月には食品加工に食肉加工を併せ営むようになって神戸市葺合区へ移った。製造を重ねるうちに分かってきたのは、この業界には大きな先発組がいないということだった。
魚肉ソーセージの包装で失敗した伊藤傳三氏は、百貨店への納入を止めて工場を灘区大和町へ移し、約3カ月を研究に費やした。県の衛生試験所と図書館に通って文献を片端から調べ、自家製造を打ち切って缶詰工場の技術顧問に雇われながら次の製品を思案した。行き着いた結論は、ソーセージの原料が畜肉でも魚肉でも、うま味が消えたり傷んだりするのは温度管理しだいだということである。温度管理さえ習得すれば道具も設備も要らず、冷蔵庫はよそのものを借りれば足りた。水洗いした原料肉を一定の温度に保って塩漬けすると、繊維質が崩れて味覚と栄養を失わないまま脱臭され、異質の原料同士が結着する。この熟成の技術が、のちの畜肉の寄せハムとプレスハムの土台になった。
資金がない以上、資本の要るボンレスハムやロースハムを人並みに作っても競争劣位に立つ。伊藤傳三氏は中身づくりと包装の両方を作り替え、1934年にセロハンウインナを売り出した。原料は豚肉85〜90%に兎肉10〜15%を混ぜ、あめ菓子や薬品の包装に使われて捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6〜7センチ幅に揃え、筒状の袋に貼って詰めた。1本10匁で卸値は5銭、他社のソーセージが100匁45銭だったのに対し、10匁ずつ包装して1本単位で売れる点が神戸市内の飲食店に受けた。1934年には1万円ほどの資金が貯まり、これが成功の第一歩になった。戦争が激しくなると原料の調達が行き詰まり、1943年9月に営業停止を余儀なくされ、戦災で工場も家も焼失した。
神戸では古いさめ肉が独特のアンモニア臭のためにかまぼこ屋にも好まれず、大半が肥料会社へ回されていた。1946年、伊藤傳三氏が原料に選んだのはこのさめ肉で、設備はありあわせで組んだ。かまどは焼跡で拾い集めたレンガで築き、ボイル用の釜にはドラム缶を、動力には焼けたモーターを直して充てた。ミンチ釜は前の工場跡に埋もれていた赤さびの一台を掘り出し、紙やすりをかけて据えた。鮮度の良いさめ肉からソーセージを作る研究では、ラードや植物油で臭みを抜くことに成功し、畜肉業者でさえ原料がさめ肉だと見抜けなかった。ニューソーセージの完成は1946年4月3日で、同月7日に売り出すと近所の小売店ですぐに品切れとなった。
大量に生産するには大量の原料と資材が要ったが、統制の元締めは兵庫県庁だった。県民の食糧不足を解消するため岸田知事を中心に兵庫県食糧会議所が設けられ、伊藤傳三氏も生鮮食品業界の代表として加わった。会社は県から重要民需産業の指定を受け、物価局の規定に基づいて生産量の7割を公定価格で家庭配給に回し、残る3割を自由販売に充てた。自由販売なら高く売れたが、公定価格で協力するとして家庭配給ルートに乗せ、随分と売りさばいた。1946年4月に合名会社伊藤食品工業を設立し、同年7月末には神戸市灘区備後町に敷地約5,000平方メートルの工場を完成させて製造能力を一挙に100倍へ広げた。1948年6月には伊藤栄養食品工業株式会社へ改組した。
1948年に入ると豚肉のほか兎肉・子牛・山羊肉・馬肉が出回り始めたが、馬肉と山羊肉はにおいが強く、ハム・ソーセージにはほとんど使われていなかった。伊藤傳三氏は鮮度を落とさずに臭みを抜く方法を探し、氷水で水洗いする脱臭法にたどり着いて畜肉の寄せハムを作った。これが原料肉の足りない業界にプレスハムを生むきっかけとなり、1947年7月から製造を始め、1948年には魚肉をやめて全面的に畜肉へ切り替えた。同業他社も畜肉のプレスハムを売り出したが、温度管理のばらつきから風味が抜けたり色が黒ずんだりする製品があった。自社だけが良い製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体のイメージが下がり消費者のためにならないと考えた伊藤傳三氏は、同業者の技術幹部を集め、温度管理と製造工程、氷水による水洗い技術のすべてを公開した。
戦時中にハム・ソーセージへ課された物品税は、戦後もそのまま引き継がれて需要の拡大を妨げる一因になっていた。当時はボンレスハムやポークハムなどの単味品はもちろん、寄せハムにも30%が課されていた。東京・大森の料亭で関東と関西の代表者が対策を練ったとき、東京の業者には悪税だとしても強硬に主張して官ににらまれれば損だという空気があった。伊藤傳三氏は高級品ではなく大衆品である寄せハムに課税するのは間違っていると信じ、灘の税務署長と口論したうえで大蔵省主税局に談判した。1949年6月11日にプレスハムの物品税は撤廃され、7月から実施された。単味品に残っていた10%も翌1950年1月に全廃となり、プレスハムの大衆化が進み始めた。
当初は代理店を通して小売店へ売っていたが、値段をたたかれるうえ、他社製品と一緒に扱われるために自社製品がどれだけ売れているか把握できなかった。伊藤傳三氏は1948年のプレスハム販売のころから関西を中心に直営の営業所を置き、仲買人を通さない直販へ切り替えた。さらに自社製品だけを売る小売店を集めて伊藤ハム会を結成し、会社が側面から援助した。1957年夏、東京のホテルでテレビを見ていた伊藤傳三氏は、日本水産や大洋漁業といった水産会社の魚肉ハム・ソーセージの広告が目立つことに気づき、西宮の工場建設より東京進出が先だと判断した。目黒区三田に4,200平方メートルの用地を求め、当時の金で2億3,900万円を投じて1959年6月に目黒工場を完成させた。東京でも最初から仲買制度をやめ、直販を採った。
1957年ごろから原料の豚肉が手に入りにくくなった。米価が上がるにつれて農村は米作りに精を出し、豚の飼育に熱を入れなくなっていたためである。伊藤傳三氏は早くからマトンの脱血・脱臭法を研究しており、1958年にニュージーランドから3,000トンを輸入した。その年の日本全体の輸入が3,200トンだったから、ほとんどを使い切った計算になる。マトンは脂肪分を分離して油脂会社へ売り、残る赤身を氷水で十分に洗って血を抜き、脱水器で絞ってから塩漬けにかけるとプレスハムの主原料になった。原料の裏づけを得て1960年11月3日に西宮工場が操業を始め、1961年1月に商号を伊藤ハム栄養食品へ変え、同年10月に東京・大阪両証券取引所の第二部と神戸証券取引所へ上場した。
神戸工場から西宮工場へ移った1961年の従業員は約1,300人、年商は約36億円になっていた。移転して間もなく総評系の労働組合が生まれ、春闘や一時金闘争のたびにストライキに巻き込まれた。夏の一時金闘争で組合が開いた集会を勤務時間に食い込む違法集会として委員長ら三役を解雇したことから対立は深まり、1962年11月には組合幹部を中心とする32人が14日間のハンガーストライキに入った。1961年12月期の売上高は36億7,400万円、利益は1億600万円にとどまり、当初見込んだ売上50億円を大きく下回って公約の20%配当は15%へ減配された。株式市場で取り沙汰された減配に対しては、含み資産の厚みが業界首位の底力の根拠として持ち出された。それでも同族色を脱して近代経営へ移る課題は残った。
1960年代後半の食肉加工は、製品の出来よりも精肉店を何軒確保したかで順位が決まる市場だった。問屋を通さず、冷蔵設備を持つ精肉店へ直接売る仕組みである以上、全国4万店の小売が実質の関門になる。伊藤ハムは全従業員2,100人のうち600人を営業に充て、取引先1万5,000軒のうち2,300店を自社製品だけの専売店に変え、マージンを一般の精肉店より高く置いて囲い込んだ。統一包装紙もショーケースも会社が無償で配ったのは、店ごと自社の売り場に変えるためである。プリマ会の6,000店より数は少ないが、一店あたりの結びつきは濃い。他人の店を関門ごと確保する道として合理的であり、実際に1978年にはハム・ソーセージで日本ハムを上回った。
庄司清和氏が静岡県沼津市で米久食品を興したのは1965年である。当時の食肉業界は、関西系のハム会社が全国に販売網を張り終えて上場も果たしたあとで、食肉加工業者の数は400社を超えていた。庄司清和氏は畜産学部で学び、在学中は脱脂粉乳を乳酸発酵させた飲料を売り歩いて研究室の費用に充てた人物で、卒業後に入った東京の米久を16カ月で辞めている。資金・信用・技術のいずれも欠く米久では、ハム・ソーセージを生産しても売り先がなく、代わりに食肉の卸売りを約10年続けて、余剰のある先から不足する先へ肉を運び、骨や脂を外す作業を残業で請けては手間賃を得た。
取引先が200〜300社、営業所が2〜3カ所になった1973年から、米久はハム・ソーセージの製造と販売を本格的に始めた。丸・四角・三角の三つしかなかったハムの形に、手作りのダルマ・スモークハムを投じて当てたのは、後発の不利を独自の商品開発で差別化して埋めるという庄司清和社長の方針による。半調理品もミートボールやロールキャベツなどへ品目を広げ、1982年に開発を終えた生ハムは全国シェアで首位に立った。大手各社の間では、米久が何を開発するかを常に見張るべきだとの評価が定まった。
販売では東海道メガロポリスと呼ばれる帯に絞って売り込み、得意先は約1,400社、売上高構成比は大手・中小スーパーが4割強、卸・専門店が4割強を占めた。従業員は415人にパートタイマー約200人、関連会社13社を合わせると約1,100人で、平均年齢は従業員が29歳、役員が44歳、支店長・工場長が36歳だった。社是は創業当初の『肉店の裏方はおまかせください』から『Better Products, Better Service』を経て、ヘルシー・コミュニケーションへ移した。仕入先はほとんどが生産者で、商社を通じた海外からの調達が約30%を占めた。1986年10月6日、米久は東京と名古屋で株式を店頭公開した。
ハム・ソーセージは生鮮食料品で鮮度が最も重んじられるため、問屋を通さず精肉店へ直に売る仕組みが業界の標準だった。冷凍ケースや冷蔵庫といった設備を備えているのは精肉店で、彼らは一種の地域独占権を持っていた。畜肉のソーセージを主とする伊藤ハムとプリマハムでは、精肉店が販路の8割を占め、スーパーは1割にとどまった。精肉店を一店でも多く抱え込み、他社より早く系列に組み込んだメーカーがシェアを握るという構図があった。資金の乏しい小売店は、全国規模のスーパーの攻勢に単独では抗しようがなかった。そこで選んだのが集団化・組織化の道である。全国に4万店と推定される精肉店のうち、その半数にあたる2万店は、すでにいずれかのメーカーの会の加入店となっていた。
1967年の時点で、伊藤ハムは全国1万5,000軒の取引先のうち2,300店を自社製品だけを扱う専門店にしていた。入会金は1,000円、年会費は3,600円で、営業所ごとに単位組織を置くプリマハムとは異なり、関東・中部など全国10ブロックに分けて会員制を敷いた。専売店であるため会社との結びつきは濃く、機械資材の共同購入、統一包装紙の無料配布、電飾ディスプレイとショーケースの無料設置、毎月の小売店経営セミナー、機関誌の発行まで手を広げた。加盟店のマージン幅は26%で、一般の精肉店より1〜2%高く置いた。全従業員2,100人のうち600人を営業に充てており、3,000人中500人のプリマハムより小売店の系列化へ力を割いていた。
1967年7月、伊藤ハムは東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ指定された。同年8月の仮決算では売上高86億7,200万円と前年同期比37.4%の伸びを示したが、経常利益は500万円増の3億6,500万円にとどまった。売上原価と販売費・一般管理費が23億3,700万円増え、売上の伸びを食ったためである。伊藤ハムと関わりのない血清豚肉事件が業界に波及して広告宣伝費に1億円以上を要したうえ、原料の豚肉が30〜40%値上がりした。それでも会社は向こう3年で25億円の設備投資を組み、佐賀県基山と千葉県柏に工場を建て、営業所20カ所を新増設する計画を進めた。1968年6月にはチーズ部門へ進出し、総合食品メーカーへの間口を広げた。
資本の自由化に伴う外資との提携で業界が一時混乱するなか、伊藤ハムは技術の習得を狙った提携には加わらなかった。欧米の工場を見学した経験から、自社の技術水準は劣らないとみたためである。製品の側では、1971年6月にソーセージ、1972年4月にハムとベーコンの自由化が決まり、伊藤ハムの主力はすべて自由化の対象となった。工場は神戸・西宮・豊橋・四日市・目黒・東京・九州・札幌の各工場に、1972年5月竣工の東北工場と広島県三原市の中国工場が加わり、11カ所を数えた。営業所は関西から東北・北海道まで7地区に95〜96カ所を数えた。1971年2月期の売上高は約591億円、税引後利益は約12億4,400万円で、上場した1961年2月期の約36億2,000万円・約6,600万円から10年で16倍と18倍になっていた。
ハム・ソーセージ一本で通してきた会社が生肉へ手を伸ばしたのは、得意先の小売店から生肉を他業者から仕入れるのは手間がかかるという要請が相次いだためである。西宮工場内に生肉のカット工場を建て、骨を抜き、そのまま切って小売りできるところまで加工した。小売店の職人が少なくて済むためデパートやスーパー、ショッピングセンターからの需要が増え、1972年には生肉が水揚げの47〜48%を占めるまでになった。生肉を扱うと派生してくるくず肉を加工へ回せる利点もあった。ただし規格肉と生肉は利益率が低く、売上高に比べて利益が大きくならないことが業績上の特色になった。1976年2月期は売上高1,420億円に対し経常利益62億円、税引利益30億円あまりを見込んだ。
1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円に達し、678億円の日本ハムとの差を広げて首位に立ったが、と畜場の経営はゼロだった。豚肉の緊急輸入制限措置が発動されると、伊藤ハムはそれに伴って膨らんだ原価を埋め切れなかった。原料の輸入依存はかねて深まっており、1975年には豚肉だけで12万トンほどを海外から買っていた。1993年3月期の伊藤ハムは売上高4,540億円、営業利益100億円、経常利益123億円を上げていた。それが1996年3月期には売上高4,340億円、営業利益53億円、経常利益63億円まで落ち込んだ。1995年のハム・ソーセージのシェアは、日本ハム19.3%に対し伊藤ハム17.8%である。日本ハムがハム・ソーセージの比重を下げて多角化へ進んだのとは逆に、伊藤ハムでは生肉が売上の54%を占めていた。と畜と肥育を握らないまま原料相場に収益を委ねる構造が残っていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1928〜1964年海産物から畜産物へ移り、プレスハムの技術を業界へ開いた創業期 | 伊藤傳三が大阪府で伊藤食品加工業を創業(伊藤ハムの起点) | ★★★ | ||
| 伊藤ハムがセロハンウインナー(現ポールウインナー)を開発 | ★★ | |||
| 伊藤ハムが兵庫県神戸市で合名会社伊藤食品工業を復興 | ★★ | |||
| 伊藤ハムが伊藤栄養食品工業を設立 | ★★ | |||
| 伊藤ハムがハム・ソーセージの原料肉としてマトンの使用技術を開発 | ★★ | |||
| 伊藤ハムが東京都目黒区に目黒工場を新設 | ★ | |||
| 1965〜1999年商品開発で立った米久と、精肉店の系列化で量を取った伊藤ハム | 庄司清和が静岡県で米久食品を創業(米久の起点) | ★★★ | ||
| 伊藤ハムが東京証券取引所・大阪証券取引所市場第一部に上場 | ★ | |||
| 米久がスモークハム・ダルマスモークハムを発売 | ★ | |||
| 米久が生ハム専用工場の御殿場工場(現ふじやま工場)を新築 | ★ | |||
| 伊藤ハムが手造りウインナーバイエルンを発売 | ★ | |||
| 伊藤ハムがポークビッツを発売 | ★ | |||
| 米久が御殿場高原あらびきポークを発売 | ★ | |||
| 米久が東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | |||
| 伊藤ハムが東京都目黒区にアルト伊藤ビル(現ホールディングス本社)を新設 | ★ | |||
| 2000〜2015年三菱商事との包括業務提携から伊藤ハムと米久の経営統合合意まで | 伊藤ハム・米久・三菱商事が包括業務提携契約を締結 | ★★ | ||
| 米久がECサイトを開設しネット通販に本格参入 | ★ | |||
| 伊藤ハムが茨城県取手市に取手工場を新設 | ★ | |||
| 伊藤ハムと米久が共同持株会社設立による経営統合の基本契約書を締結 | ★★ | |||
| 2016〜2026年伊藤ハム米久HDの設立とANZCO完全子会社化、明治ケンコーハムの取得 | 宮下功 | 株式移転により伊藤ハム米久ホールディングスを設立し東京証券取引所に上場 | ★★★ | |
| 宮下功 | ニュージーランドのANZCO FOODS LTD.の株式を追加取得し完全子会社化 | ★★★ | ||
| 宮下功 | 明治ケンコーハム(後の米久ケンコーハム)の株式を取得し完全子会社化 | ★★ | ||
| 宮下功 | 植物性素材を用いたまるでお肉!シリーズを発売 | ★★ | ||
| 宮下功 | 米久ケンコーハムの事業を米久に譲渡し清算 | ★ | ||
| 宮下功 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 宮下功 | IHミートパッカー十和田ビーフプラントが竣工 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(伊藤ハム米久ホールディングス)