伊藤ハム米久ホールディングス の歴史

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創業 1928年
創業者 伊藤傳三
創業地 大阪府
創業
1928年、伊藤傳三氏が大阪市北区で個人経営の食品工業を興した。資本の要るボンレスハムやロースハムで先発と競わず、1934年に豚肉へ兎肉を混ぜて赤いセロハンの袋へ詰めた『セロハンウインナ』を1本5銭で売り出している。戦争で原料の調達が行き詰まり、工場も家も焼失した。再興は1946年4月の合名会社伊藤食品工業から始まり、1948年6月に伊藤栄養食品工業、1961年1月に伊藤ハム栄養食品、1984年6月に伊藤ハムへ商号を変えている。もう一方の米久は、1965年に庄司清和氏が静岡県沼津市で米久食品として創業し、食肉の卸売りを約10年続けたのち1973年からハム・ソーセージの製造へ移った。両社が一つの持株会社へ入るのは2016年4月である。
決断
作り方は同業へ渡し、売り先だけを自社に残した。1948年、伊藤傳三氏は氷水で臭みを抜く脱臭法にたどり着き、原料肉の足りない業界にプレスハムを生んだ。他社のプレスハムは温度管理のばらつきで色が黒ずみ風味も抜けていたため、同業者の技術幹部を集めて温度管理と水洗い技術のすべてを公開する。翌1949年6月には大蔵省主税局との談判でプレスハムの物品税撤廃を取り付け、1950年1月には単味品に残る10%も全廃させた。販路は代理店を通さず小売店との直接取引に切り替え、自社製品だけを扱う店を『伊藤ハム会』として全国約6,000店まで組織した。ただし公開した製法は他社の商品開発力も育て、1979年には生産数量の伸びが13.4%増から1.9%増へ低下した。
現況
統合で増えたのは規模であって、利益率ではない。2026年3月期の連結売上高は1兆714億円と、統合初年度の2017年3月期から2,788億円増えた。営業利益は285億円、売上高営業利益率は2.7%で、統合初年度の215億円・2.7%と変わっていない。2025年3月期のセグメントは加工食品事業が売上4,009億円・利益98億円、食肉事業が5,879億円・利益122億円で、売上でも利益でも食肉が上回る。押し上げたのは海外の食肉で、2026年3月期の北米向けは764億円と前期から57%増えた。2015年3月に子会社としたアンズコフーズがニュージーランドで牛肉とラム肉を処理しており、規模の伸びは統合した二つの国内ブランドの外側で起きている。
競合
原料の入口を持たないまま、首位に立った時期がある。1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で日本ハムの678億円を上回ったが、当時のと畜場の経営はゼロだった。相手は1991年4月の牛肉輸入自由化を前に豪州でと畜・加工・流通を垂直統合し、と畜から加工・流通までを海外へ確保している。伊藤ハムが海外の処理拠点を持ったのは2015年3月のアンズコフーズの子会社化で、24年の遅れがある。米久は逆に商品開発で差をつけた側で、1973年から製造を本格化して『ダルマ・スモークハム』や半調理品を当て、生ハムでは1982年に全国シェアの首位を取った。販路で首位に立った会社と商品で伸びた会社を一つの持株会社へ並べても、2025年3月期の加工食品事業の利益率は2.4%、食肉事業は2.1%にとどまっている。
長期業績の推移 1950〜2025年
伊藤ハム米久ホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2017年3月期2025年3月期

創業ストーリー プレスハムで首位に立った伊藤ハムと、商品開発の米久 (1928年〜)

創業ストーリー(1)

プレスハム技術の公開と伊藤ハム会による直販

伊藤傳三氏が大阪市北区で個人経営の食品工業を興したのは1928年である[1]。資本の要るボンレスハムやロースハムで先発と競っても勝ち目はないと考え、中身と包装の両方を作り替えたうえで1934年に『セロハンウインナ』を売り出した[2]。豚肉85〜90%に兎肉10〜15%を混ぜ、赤いセロハンの断ちくずを筒状に貼った袋へ詰め、卸値を1本5銭に置いた[3]。他社のソーセージが100匁45銭だったのに対し、10匁ずつ包装して1本単位で売れる点が神戸市内の飲食店に受け、開発から2年余りで3万円の蓄えができた[4]。戦争が激しくなると原料の調達が行き詰まって事業は中断し、戦災で工場も家も焼失した[5]

  • オール大衆 1969年「ハムの歴史をつくる/伊藤傳三」
    • [1]1928年に創業者伊藤傳三の個人経営として大阪市北区に食品工業を創業した
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [2]資本を必要とするボンレスハム・ロースハムでは太刀打ちできないと考え、中身づくりと包装を根本から考え直して1934年にセロハンウインナを開発した
    • [3]セロハンウインナの原料は豚肉85〜90%・兎肉10〜15%で、赤いセロハンの断ちくずを筒状の袋に貼って詰め、卸値は1本5銭だった
    • [4]他社製ソーセージは100匁45銭で、セロハンウインナは10匁ずつ包装したため神戸市内の飲食店に好評で、開発から2年余りで当時の金で3万円ほどの蓄えができた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [5]第二次大戦で原料調達が難しくなり事業の中断を余儀なくされ、戦災で工場も家も焼失した

戦後の再興は1946年4月の合名会社伊藤食品工業の設立から始まり、1948年6月には伊藤栄養食品工業へ改組して兵庫県から重要民需産業の指定を受けた[6]。この時期に主力を務めたのは魚肉の『ニューソーセージ』で、1947年秋ごろまで売れ筋の座を占めた[7]。1948年に入ると豚肉のほか兎肉・子牛・山羊肉・馬肉が出回り始めたが、馬肉と山羊肉はにおいが強く、ハム・ソーセージにはほとんど使われていなかった[8]。伊藤傳三氏は鮮度を落とさずに臭みを抜く方法を探し、氷水で水洗いする脱臭法にたどり着いて畜肉の寄せハムを作り、原料肉の足りない業界にプレスハムを生んだ[9]。同業他社のプレスハムは温度管理のばらつきから色が黒ずんだり風味が抜けたりしていたため、伊藤傳三氏は同業者の技術幹部を集め、温度管理と製造工程、氷水による水洗い技術のすべてを公開した[10]

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1946年4月に神戸市灘区備後町で合名会社伊藤食品工業を設立し、1948年6月に伊藤栄養食品工業株式会社へ改組して兵庫県から重要民需産業に指定された
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [7]魚肉のニューソーセージが1947年秋ごろまで主力製品の座を続けた
    • [8]1948年に入ると豚肉のほか兎肉・子牛・山羊肉・馬肉が出回り始めたが、馬肉と山羊肉はにおいがきつくハム・ソーセージにはほとんど使われていなかった
    • [9]氷水による水洗いという脱臭法に成功して畜肉の寄せハムを開発し、原料肉不足に苦しむ業界にプレスハムを生むきっかけとなった
    • [10]同業他社のプレスハムは畜肉の風味と香りがなくなったり色が黒ずんだりして技術面でばらつきがあったため、同業者の技術関係の幹部を集めて温度管理・製造工程と氷水による水洗い技術を全部公開した

大衆化を阻んでいた物品税についても伊藤傳三氏は大蔵省主税局と談判し、1949年6月11日にプレスハムの課税撤廃を取り付け、翌1950年1月には単味品に残っていた10%も全廃させた[11]。販路では代理店を通さず小売店と直接取引する方式に切り替え、自社製品だけを扱う小売店を『伊藤ハム会』として組織し、加盟は全国約6,000店に達した[12]。原料では1958年にニュージーランドから3,000トンのマトンを輸入し、日本全体でその年に入った3,200トンのほとんどを使い切った[13]。1961年1月に商号を伊藤ハム栄養食品へ変え、同年10月に東京・大阪両証券取引所の第二部と神戸証券取引所へ上場し、1967年7月に東京・大阪の第一部へ指定された[14]。1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円に達し、678億円の日本ハムを引き離して首位に立ったが、と畜場の経営はゼロだった[15]

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [11]大蔵省主税局と談判し、1949年6月11日にプレスハムの物品税が撤廃され、1950年1月には単味品に残っていた10%の物品税も全廃された
    • [13]1958年にニュージーランドから初めて3,000トンのマトンを輸入し、その年のわが国全体の輸入は3,200トンだった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [12]代理店を通さず直接小売店と取引する方式に改め、自社製品だけを売る小売店を集めて伊藤ハム会を結成し、全国で約6,000の小売店が加盟した
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1961年1月に伊藤ハム栄養食品株式会社へ商号変更、同年10月に東京・大阪両証券取引所市場第二部および神戸証券取引所に上場、1967年7月に東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [15]1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で2位の日本ハムは678億円、伊藤ハム栄養食品は畜殺場経営がゼロだった
  • オール大衆 1969年「ハムの歴史をつくる/伊藤傳三」
    • [1]1928年に創業者伊藤傳三の個人経営として大阪市北区に食品工業を創業した
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [2]資本を必要とするボンレスハム・ロースハムでは太刀打ちできないと考え、中身づくりと包装を根本から考え直して1934年にセロハンウインナを開発した
    • [3]セロハンウインナの原料は豚肉85〜90%・兎肉10〜15%で、赤いセロハンの断ちくずを筒状の袋に貼って詰め、卸値は1本5銭だった
    • [4]他社製ソーセージは100匁45銭で、セロハンウインナは10匁ずつ包装したため神戸市内の飲食店に好評で、開発から2年余りで当時の金で3万円ほどの蓄えができた
    • [7]魚肉のニューソーセージが1947年秋ごろまで主力製品の座を続けた
    • [8]1948年に入ると豚肉のほか兎肉・子牛・山羊肉・馬肉が出回り始めたが、馬肉と山羊肉はにおいがきつくハム・ソーセージにはほとんど使われていなかった
    • [9]氷水による水洗いという脱臭法に成功して畜肉の寄せハムを開発し、原料肉不足に苦しむ業界にプレスハムを生むきっかけとなった
    • [10]同業他社のプレスハムは畜肉の風味と香りがなくなったり色が黒ずんだりして技術面でばらつきがあったため、同業者の技術関係の幹部を集めて温度管理・製造工程と氷水による水洗い技術を全部公開した
    • [11]大蔵省主税局と談判し、1949年6月11日にプレスハムの物品税が撤廃され、1950年1月には単味品に残っていた10%の物品税も全廃された
    • [13]1958年にニュージーランドから初めて3,000トンのマトンを輸入し、その年のわが国全体の輸入は3,200トンだった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [5]第二次大戦で原料調達が難しくなり事業の中断を余儀なくされ、戦災で工場も家も焼失した
    • [12]代理店を通さず直接小売店と取引する方式に改め、自社製品だけを売る小売店を集めて伊藤ハム会を結成し、全国で約6,000の小売店が加盟した
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1946年4月に神戸市灘区備後町で合名会社伊藤食品工業を設立し、1948年6月に伊藤栄養食品工業株式会社へ改組して兵庫県から重要民需産業に指定された
    • [14]1961年1月に伊藤ハム栄養食品株式会社へ商号変更、同年10月に東京・大阪両証券取引所市場第二部および神戸証券取引所に上場、1967年7月に東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [15]1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で2位の日本ハムは678億円、伊藤ハム栄養食品は畜殺場経営がゼロだった
創業ストーリー(2)

食肉の卸売り10年を経て出したダルマ・スモークハム

庄司清和氏が静岡県沼津市で米久食品を興したのは1965年である[16]。畜産学部の出身で、在学中に脱脂粉乳を乳酸発酵させた飲料を売り歩いて研究室の費用を稼いだ庄司清和氏は、卒業後に東京の米久へ就職したものの16カ月で辞めた[17]。当時の食肉業界では関西系のハム会社が全国の販売網を作り終えて上場も済ませており、食肉加工業者は400社を超えていた[18]。資金も信用も技術もない米久にハム・ソーセージの生産は無理で、作っても売れる状態ではなかった[19]。そこで食肉の卸売りを手がけ、足りない先へ余っている肉を運び、骨や脂を取る作業を残業で引き受けて手間賃を稼ぐ日々を約10年続けた[20]

  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [16]庄司清和氏は東京の米久に就職して16カ月で辞め、故郷に近い静岡県沼津市で個人創業した
    • [17]畜産学部の出身で、畜産物利用学の研究室にいた学生時代に脱脂粉乳を乳酸発酵させた乳酸飲料を作って売り歩き研究室の費用を稼いだ
    • [18]当時の食肉業界は関西系のハム会社など大手が全国ネットワークを完成して上場も終えており、食肉加工業者も400社以上あった
    • [19]当初は資金も信用も技術もなくハムやソーセージの生産は無理で、作っても売れる状態ではなかった
    • [20]まず食肉の卸売りを手がけ、足りないものを余っているところから持ってきて売り、骨や脂を取る仕事は残業して手間賃を稼ぐやり方で約10年間続けた

取引先が200〜300社、営業所が2〜3カ所になった1973年から、米久はハム・ソーセージの製造と販売を本格的に始めた[21]。後発の不利を埋める方法として庄司清和社長が置いたのは、独自の商品開発による差別化である[22]。それまでハムの形は丸か四角か三角しかなかったところへ、手作りハムの『ダルマ・スモークハム』を出して当てた[23]。大手各社の間では、米久の商品開発から目を離してはいけないという評価が定着した[24]。ミートボールやロールキャベツなど半調理品の商品群も広げ、生ハムは1982年に開発を終えて全国シェアの首位を取った[25]

  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [21]取引先が200〜300社、営業所も2〜3カ所持てるようになり、1973年からハム・ソーセージの製造・販売を本格的に開始した
    • [22]独自の商品開発による差別化こそが徒手空拳の米久がこの業界で生き残るための何よりの武器と考えてきた
    • [23]それまでハムには丸か四角か三角しかなかったところへダルマ・スモークハムを開発し、手作りハムとして当たった
    • [24]業界の大手各社から米久の商品開発から目を離してはいけないといわれるほどになった
    • [25]ミートボール・ロールキャベツなど半調理品の分野でも多くの商品群を開発し、生ハムは1982年に開発を終えて圧倒的な全国シェアを持つに至った

販売では東海道メガロポリスと呼ばれる帯に絞って売り込み、得意先は約1,400社、売上高構成比は大手・中小スーパーが4割強、卸・専門店が4割強を占めた[26]。従業員は415人にパートタイマー約200人、関連会社13社を合わせると約1,100人で、平均年齢は従業員が29歳、役員が44歳、支店長・工場長が36歳だった[27]。社是は創業当初の『肉店の裏方はおまかせください』[引用元]から『Better Products, Better Service』[引用元]を経て、『ヘルシー・コミュニケーション』へ移した[28]。仕入先はほとんどが生産者で、商社を通じた海外からの調達が約30%を占めた[29]。1986年10月6日、米久は東京と名古屋で株式を店頭公開した[30]

  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [26]東海道メガロポリスといわれる地域で集中的に販売を強めてきたことが特徴で、得意先は約1,400社、売上高構成比は大手スーパー・中小スーパーが4割強、卸・専門店が4割強
    • [27]従業員は415人、パートタイマー約200人、関連会社13社を合わせた全従業員は約1,100人で、平均年齢は従業員29歳・役員44歳・支店長・工場長36歳
    • [28]経営理念は当初の「肉店の裏方はおまかせください」から社是「Better Products, Better Service」を経て「ヘルシー・コミュニケーション」に変わった
    • [29]仕入先はほとんど生産者だが、海外からも商社を通じて約30%を仕入れている
    • [30]1986年10月6日に東京と名古屋で株式を店頭公開した
  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [16]庄司清和氏は東京の米久に就職して16カ月で辞め、故郷に近い静岡県沼津市で個人創業した
    • [17]畜産学部の出身で、畜産物利用学の研究室にいた学生時代に脱脂粉乳を乳酸発酵させた乳酸飲料を作って売り歩き研究室の費用を稼いだ
    • [18]当時の食肉業界は関西系のハム会社など大手が全国ネットワークを完成して上場も終えており、食肉加工業者も400社以上あった
    • [19]当初は資金も信用も技術もなくハムやソーセージの生産は無理で、作っても売れる状態ではなかった
    • [20]まず食肉の卸売りを手がけ、足りないものを余っているところから持ってきて売り、骨や脂を取る仕事は残業して手間賃を稼ぐやり方で約10年間続けた
    • [21]取引先が200〜300社、営業所も2〜3カ所持てるようになり、1973年からハム・ソーセージの製造・販売を本格的に開始した
    • [22]独自の商品開発による差別化こそが徒手空拳の米久がこの業界で生き残るための何よりの武器と考えてきた
    • [23]それまでハムには丸か四角か三角しかなかったところへダルマ・スモークハムを開発し、手作りハムとして当たった
    • [24]業界の大手各社から米久の商品開発から目を離してはいけないといわれるほどになった
    • [25]ミートボール・ロールキャベツなど半調理品の分野でも多くの商品群を開発し、生ハムは1982年に開発を終えて圧倒的な全国シェアを持つに至った
    • [26]東海道メガロポリスといわれる地域で集中的に販売を強めてきたことが特徴で、得意先は約1,400社、売上高構成比は大手スーパー・中小スーパーが4割強、卸・専門店が4割強
    • [27]従業員は415人、パートタイマー約200人、関連会社13社を合わせた全従業員は約1,100人で、平均年齢は従業員29歳・役員44歳・支店長・工場長36歳
    • [28]経営理念は当初の「肉店の裏方はおまかせください」から社是「Better Products, Better Service」を経て「ヘルシー・コミュニケーション」に変わった
    • [29]仕入先はほとんど生産者だが、海外からも商社を通じて約30%を仕入れている
    • [30]1986年10月6日に東京と名古屋で株式を店頭公開した
創業ストーリー(3)

伊藤ハムの設備投資と米久の冷凍・冷蔵車170台

1979年の時点で、伊藤ハム栄養食品の強みだった高級品の商品開発力と直販の優位は他社の巻き返しで薄れ、ハム・ソーセージの生産数量の伸びも前年の13.4%増から1.9%増へ落ちていた[31]日本ハムの『ウィニー』やプリマハムの『オーフレッシュ』が当たり、伊藤ハム栄養食品が類似商品で追う場面が増えた[32]。そこで加工の設備と研究に資金を向ける。1984年6月に商号を伊藤ハムへ変えた[33]。1989年12月に茨城県守谷町へ中央研究所を新設した。

  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [31]高級品を中心とした商品開発力と直販体制の優位性が同業他社の巻き返しで失われ始め、ハム・ソーセージの生産数量は1977年の13.4%増に対し1978年は1.9%増にとどまった
    • [32]日本ハムは皮なしウィンナー「ウィニー」、プリマハムはパック型の「オーフレッシュ」でヒットを飛ばし、伊藤ハムが類似商品で追撃するパターンが増えた
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1984年6月に伊藤ハム株式会社へ商号変更

米久が食肉から離れた分野で伸ばしたのはマッシュルームである[34]。庄司清和社長は経済新聞の市況欄でマッシュルームがキロ1,500円と付いているのを見て調べた[35]。生産コストは和牛の47分の1で原価は250円に満たないのに、日本では農家の生産規模が小さく人件費と設備費が90%以上を占めるために高値になっていた[36]。若い技術者3人を米国とカナダへ連れて行き、カナダの生産会社に残して学ばせ、同じやり方で日本での生産を始めた[37]日本たばこ産業から発酵とバイオテクノロジーの技術を導入した工場は1986年に完成し、坪当たり収穫量は従来の日本の農家に比べて約2倍になった[38]。生産の中心は静岡県富士宮市の朝霧高原に置いた[39]

  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [34]米久は食肉以外の分野としてマッシュルームの生産に乗り出した
    • [35]経済新聞の市況欄でマッシュルームがキロ1,500円であるのを見て調べた
    • [36]マッシュルームの生産コストは和牛の47分の1で1,500円のうちコストは250円にもならないが、日本の農家の生産規模が小さいため人件費や設備費が90%以上に達していた
    • [37]若い技術者3人を米国とカナダへ連れて行き、カナダのマッシュルーム生産会社に残して勉強させ、同社と全く同じやり方で日本で生産を始めた
    • [38]1986年に日本たばこ産業と提携して工場が完成し、バイオの技術を導入した結果、坪当たり収穫量は従来の日本の農家の約2倍になった
    • [39]静岡県富士宮市の朝霧高原での生産を中心に据えた

販売面では食肉専門店の衰退とスーパーの過当競争が重なり、米久は数年前から独自の販売経路を作っていた[40]。経営資産として冷凍・冷蔵車170台を保有して東名高速を中心に走らせ、営業担当が1台ずつ受け持って1台あたり年2億円を売り上げた[41]。営業所にはすべて冷凍・冷蔵庫を備え、マイナス15度からプラス10度の温度帯で東京・大阪間のチルド輸送を自前で組み、産地直送の『うまいもの便』を伸ばした[42]。業界で400番目の設立でありながら、1987年2月期の売上高は338億円に達し、協会に加盟する270社ほどのなかで第8位に付けた[43]。首位の日本ハムの年間売上高は3,800億円だった[44]

  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [40]食肉専門店の衰退が目立ちスーパーマーケットも過当競争であったため、数年前から独自の販売チャンネルをつくってきた
    • [41]経営資産のひとつとして冷凍・冷蔵車を170台保有し東名高速を中心に走らせ、1人の営業マンが1台持って営業するやり方で年間に1台について2億円を売り上げた
    • [42]営業所もすべて冷凍・冷蔵庫を完備し、マイナス15度からプラス10度のコールド・チェーンで東京−大阪間のチルド輸送を自前で行い、産地直送の「うまいもの便」が伸びた
    • [43]協会に加入しているメーカーは270社ほどで米久は業界第8位、業界で400番目の設立であり、1987年2月期の売上高見通しは338億円
    • [44]業界トップの日本ハムの年間売上高は3,800億円
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [31]高級品を中心とした商品開発力と直販体制の優位性が同業他社の巻き返しで失われ始め、ハム・ソーセージの生産数量は1977年の13.4%増に対し1978年は1.9%増にとどまった
    • [32]日本ハムは皮なしウィンナー「ウィニー」、プリマハムはパック型の「オーフレッシュ」でヒットを飛ばし、伊藤ハムが類似商品で追撃するパターンが増えた
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1984年6月に伊藤ハム株式会社へ商号変更
  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [34]米久は食肉以外の分野としてマッシュルームの生産に乗り出した
    • [35]経済新聞の市況欄でマッシュルームがキロ1,500円であるのを見て調べた
    • [36]マッシュルームの生産コストは和牛の47分の1で1,500円のうちコストは250円にもならないが、日本の農家の生産規模が小さいため人件費や設備費が90%以上に達していた
    • [37]若い技術者3人を米国とカナダへ連れて行き、カナダのマッシュルーム生産会社に残して勉強させ、同社と全く同じやり方で日本で生産を始めた
    • [38]1986年に日本たばこ産業と提携して工場が完成し、バイオの技術を導入した結果、坪当たり収穫量は従来の日本の農家の約2倍になった
    • [39]静岡県富士宮市の朝霧高原での生産を中心に据えた
    • [40]食肉専門店の衰退が目立ちスーパーマーケットも過当競争であったため、数年前から独自の販売チャンネルをつくってきた
    • [41]経営資産のひとつとして冷凍・冷蔵車を170台保有し東名高速を中心に走らせ、1人の営業マンが1台持って営業するやり方で年間に1台について2億円を売り上げた
    • [42]営業所もすべて冷凍・冷蔵庫を完備し、マイナス15度からプラス10度のコールド・チェーンで東京−大阪間のチルド輸送を自前で行い、産地直送の「うまいもの便」が伸びた
    • [43]協会に加入しているメーカーは270社ほどで米久は業界第8位、業界で400番目の設立であり、1987年2月期の売上高見通しは338億円
    • [44]業界トップの日本ハムの年間売上高は3,800億円

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沿革年表 1928〜2024年

伊藤ハム米久ホールディングスの沿革1928〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1928〜1995年プレスハムで首位に立った伊藤ハムと、商品開発の米久伊藤傳三が大阪府で伊藤食品加工業を創業(伊藤ハムの起点)★★★
伊藤ハムがセロハンウインナー(現ポールウインナー)を開発★★
伊藤ハムが兵庫県神戸市で合名会社伊藤食品工業を復興★★
伊藤ハムが伊藤栄養食品工業を設立★★
伊藤ハムがハム・ソーセージの原料肉としてマトンの使用技術を開発★★
伊藤ハムが東京都目黒区に目黒工場を新設
庄司清和が静岡県で米久食品を創業(米久の起点)★★★
伊藤ハムが東京証券取引所・大阪証券取引所市場第一部に上場
米久がスモークハム・ダルマスモークハムを発売
米久が生ハム専用工場の御殿場工場(現ふじやま工場)を新築
伊藤ハムが手造りウインナーバイエルンを発売
伊藤ハムがポークビッツを発売
米久が御殿場高原あらびきポークを発売
1996〜2015年創業者が退いた米久と、罰金3,000万円を科された伊藤ハム米久が東京証券取引所市場第一部に上場
伊藤ハムが東京都目黒区にアルト伊藤ビル(現ホールディングス本社)を新設
伊藤ハム・米久・三菱商事が包括業務提携契約を締結★★
米久がECサイトを開設しネット通販に本格参入
伊藤ハムが茨城県取手市に取手工場を新設
伊藤ハムと米久が共同持株会社設立による経営統合の基本契約書を締結★★
2016〜2025年1兆円に迫る売上と5期続いたハム・ソーセージの数量減宮下功株式移転により伊藤ハム米久ホールディングスを設立し東京証券取引所に上場★★★
宮下功ニュージーランドのANZCO FOODS LTD.の株式を追加取得し完全子会社化★★★
宮下功明治ケンコーハム(後の米久ケンコーハム)の株式を取得し完全子会社化★★
宮下功植物性素材を用いたまるでお肉!シリーズを発売★★
宮下功米久ケンコーハムの事業を米久に譲渡し清算
宮下功東京証券取引所プライム市場に移行
宮下功IHミートパッカー十和田ビーフプラントが竣工
出典・参考 6件
出典・参考
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
  • オール大衆 1969年「ハムの歴史をつくる/伊藤傳三」

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