伊藤ハム米久ホールディングス:伊藤傳三の創業とプレスハム技術の業界への公開
1928年〜供給の安定する原料を選んで入った食肉加工
伊藤傳三氏は三重県四日市市の漁師町に生まれ、16歳で学校を出ると大阪の海産物問屋へ丁稚奉公に出された。21歳で独立して小さな海産物屋を創業したものの、23歳で商売に失敗し、行李一つを提げて上京した。東京で缶詰・瓶詰・海産物・乾物とひととおりの食品を扱ったうえで、伊藤傳三氏がハム・ソーセージへ移った理由は原料の供給にあった。海産物は豊漁と不漁で供給が極めて不安定だが、畜産物なら安定して調達できると見たのである。1928年に大阪市北区で個人経営の食品工業を興し、1932年3月には食品加工に食肉加工を併せ営むようになって神戸市葺合区へ移った。製造を重ねるうちに分かってきたのは、この業界には大きな先発組がいないということだった。
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [1]生家が海産物問屋であったため16歳で学校を卒業すると同時に大阪の海産物問屋へ丁稚奉公に出された
- [2]21歳で独立して小さな海産物屋を始めたが23歳で商売に失敗し、大阪で出直すのは格好が悪いとして行李一つを持って上京した
- [3]東京で缶詰・瓶詰・海産物・乾物などあらゆる食品の経験を積んだ結果ハム・ソーセージの将来性に目を付けた。海産物は豊漁・不漁によって供給が極めて不安定だが、ハム・ソーセージは畜産物だから安定供給できると考えたためである
- [4]東京で缶詰・瓶詰・海産物・乾物などあらゆる食品の経験を積んだ結果ハム・ソーセージの将来性に目を付けた。海産物は豊漁・不漁によって供給が極めて不安定だが、ハム・ソーセージは畜産物だから安定供給できると考えたためである
- オール大衆 1969年「ハムの歴史をつくる/伊藤傳三」
- [5]1928年に創業者伊藤傳三の個人経営として大阪市北区に食品工業を創業した
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
- [6]創業後の昭和7年3月に食品加工に加えて食肉加工を併せ営むようになり、それと同時に神戸市葺合区へ移転した
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [7]製造を始めて何度も失敗するうちに分かってきたのは、この業界には大きな先発組がいないということだった
魚肉ソーセージの包装で失敗した伊藤傳三氏は、百貨店への納入を止めて工場を灘区大和町へ移し、約3カ月を研究に費やした。県の衛生試験所と図書館に通って文献を片端から調べ、自家製造を打ち切って缶詰工場の技術顧問に雇われながら次の製品を思案した。行き着いた結論は、ソーセージの原料が畜肉でも魚肉でも、うま味が消えたり傷んだりするのは温度管理しだいだということである。温度管理さえ習得すれば道具も設備も要らず、冷蔵庫はよそのものを借りれば足りた。水洗いした原料肉を一定の温度に保って塩漬けすると、繊維質が崩れて味覚と栄養を失わないまま脱臭され、異質の原料同士が結着する。この熟成の技術が、のちの畜肉の寄せハムとプレスハムの土台になった。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [8]魚肉ソーセージの包装で失敗して百貨店への納入を停止するとともに工場を灘区大和町へ引っ越し、約3カ月間を研究に費やした
- [9]県の衛生試験所や図書館に足を運んで文献を片端から調べ、自家製造を打ち切ってある缶詰工場の技術顧問に雇われながら次にどんな製品を作るか思案した
- [10]ソーセージの原料は畜肉でも魚肉でも、うま味が消えたり蒸れて傷むのは温度管理しだいであると知った
- [11]温度管理の技術を十分習得すれば道具も設備も要らず、冷蔵庫がない場合はよそのものを利用すればよい
- [12]水洗いした原料肉を一定の温度に保ちながら塩漬けすると肉繊維に塩が浸透し、繊維質が崩れて温度と塩分の作用で味覚・栄養を失わないまま脱臭され、異質の原料同士が結着する
- [13]戦後の畜肉の寄せハム、プレスハムもこの熟成技術から発展した
資金がない以上、資本の要るボンレスハムやロースハムを人並みに作っても競争劣位に立つ。伊藤傳三氏は中身づくりと包装の両方を作り替え、1934年にセロハンウインナを売り出した。原料は豚肉85〜90%に兎肉10〜15%を混ぜ、あめ菓子や薬品の包装に使われて捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6〜7センチ幅に揃え、筒状の袋に貼って詰めた。1本10匁で卸値は5銭、他社のソーセージが100匁45銭だったのに対し、10匁ずつ包装して1本単位で売れる点が神戸市内の飲食店に受けた。1934年には1万円ほどの資金が貯まり、これが成功の第一歩になった。戦争が激しくなると原料の調達が行き詰まり、1943年9月に営業停止を余儀なくされ、戦災で工場も家も焼失した。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [14]資本を必要とするボンレスハム・ロースハムなどを人並みに作っても太刀打ちできないと考えた
- [15]中身づくりと包装を根本から考え直し、1934年にセロハンウインナの開発に成功した
- [16]セロハンウインナの原料は豚肉85〜90%・兎肉10〜15%で、あめ菓子や薬品の包装に使われて捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6〜7センチ幅に揃え、筒状の袋になるよう糊づけして詰めた
- [17]セロハンウインナは1本10匁で卸値は1本5銭、他社製のソーセージは100匁45銭で、10匁ずつきれいに包装していたため神戸市内の飲食店・スタンド・バー・カフェーで驚くほど評判がよかった
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [18]昭和9年には1万円ほどの資金蓄積ができ、これが成功の第一歩になって事業は順調に発展した
- [20]第二次大戦で原料調達が難しくなり事業の中断を余儀なくされ、戦災で工場も家も焼失した
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
- [19]太平洋戦争の勃発から戦局が悪化し、昭和18年9月に戦時非常事態のため営業停止の止むなきに至った
参考文献[1]-[20]
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [1]生家が海産物問屋であったため16歳で学校を卒業すると同時に大阪の海産物問屋へ丁稚奉公に出された
- [2]21歳で独立して小さな海産物屋を始めたが23歳で商売に失敗し、大阪で出直すのは格好が悪いとして行李一つを持って上京した
- [3]東京で缶詰・瓶詰・海産物・乾物などあらゆる食品の経験を積んだ結果ハム・ソーセージの将来性に目を付けた。海産物は豊漁・不漁によって供給が極めて不安定だが、ハム・ソーセージは畜産物だから安定供給できると考えたためである
- [4]東京で缶詰・瓶詰・海産物・乾物などあらゆる食品の経験を積んだ結果ハム・ソーセージの将来性に目を付けた。海産物は豊漁・不漁によって供給が極めて不安定だが、ハム・ソーセージは畜産物だから安定供給できると考えたためである
- [18]昭和9年には1万円ほどの資金蓄積ができ、これが成功の第一歩になって事業は順調に発展した
- [20]第二次大戦で原料調達が難しくなり事業の中断を余儀なくされ、戦災で工場も家も焼失した
- オール大衆 1969年「ハムの歴史をつくる/伊藤傳三」
- [5]1928年に創業者伊藤傳三の個人経営として大阪市北区に食品工業を創業した
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
- [6]創業後の昭和7年3月に食品加工に加えて食肉加工を併せ営むようになり、それと同時に神戸市葺合区へ移転した
- [19]太平洋戦争の勃発から戦局が悪化し、昭和18年9月に戦時非常事態のため営業停止の止むなきに至った
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [7]製造を始めて何度も失敗するうちに分かってきたのは、この業界には大きな先発組がいないということだった
- [8]魚肉ソーセージの包装で失敗して百貨店への納入を停止するとともに工場を灘区大和町へ引っ越し、約3カ月間を研究に費やした
- [9]県の衛生試験所や図書館に足を運んで文献を片端から調べ、自家製造を打ち切ってある缶詰工場の技術顧問に雇われながら次にどんな製品を作るか思案した
- [10]ソーセージの原料は畜肉でも魚肉でも、うま味が消えたり蒸れて傷むのは温度管理しだいであると知った
- [11]温度管理の技術を十分習得すれば道具も設備も要らず、冷蔵庫がない場合はよそのものを利用すればよい
- [12]水洗いした原料肉を一定の温度に保ちながら塩漬けすると肉繊維に塩が浸透し、繊維質が崩れて温度と塩分の作用で味覚・栄養を失わないまま脱臭され、異質の原料同士が結着する
- [13]戦後の畜肉の寄せハム、プレスハムもこの熟成技術から発展した
- [14]資本を必要とするボンレスハム・ロースハムなどを人並みに作っても太刀打ちできないと考えた
- [15]中身づくりと包装を根本から考え直し、1934年にセロハンウインナの開発に成功した
- [16]セロハンウインナの原料は豚肉85〜90%・兎肉10〜15%で、あめ菓子や薬品の包装に使われて捨てられていた赤いセロハンの断ちくずを6〜7センチ幅に揃え、筒状の袋になるよう糊づけして詰めた
- [17]セロハンウインナは1本10匁で卸値は1本5銭、他社製のソーセージは100匁45銭で、10匁ずつきれいに包装していたため神戸市内の飲食店・スタンド・バー・カフェーで驚くほど評判がよかった
1946年〜さめ肉のニューソーセージから氷水の脱臭法へ
神戸では古いさめ肉が独特のアンモニア臭のためにかまぼこ屋にも好まれず、大半が肥料会社へ回されていた。1946年、伊藤傳三氏が原料に選んだのはこのさめ肉で、設備はありあわせで組んだ。かまどは焼跡で拾い集めたレンガで築き、ボイル用の釜にはドラム缶を、動力には焼けたモーターを直して充てた。ミンチ釜は前の工場跡に埋もれていた赤さびの一台を掘り出し、紙やすりをかけて据えた。鮮度の良いさめ肉からソーセージを作る研究では、ラードや植物油で臭みを抜くことに成功し、畜肉業者でさえ原料がさめ肉だと見抜けなかった。ニューソーセージの完成は1946年4月3日で、同月7日に売り出すと近所の小売店ですぐに品切れとなった。
- 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [21]古いさめ肉は独特のアンモニア臭が強くかまぼこ屋でも歓迎されず、神戸ではほとんどが肥料会社に送り込まれていた
- [22]戦後の再興にあたって畜産物原料が乏しかったため、豊富にあったさめ肉を原料に選んだ
- [25]鮮度の良いさめ肉をソーセージの原料とする研究を始めて挽肉の脱臭に成功し、ラードあるいは植物油を使って技術面で成功した
- [26]畜肉取扱業者でも原料がさめ肉とは気がつかないほどだった
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [23]昭和21年には神戸の焼跡からレンガを拾ってきてかまどを作り、ドラム缶をボイル用の釜とし、焼けたモーターを修理して動力とした
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [24]前の工場跡から赤くさびたミンチ釜を掘り出し、ペーパーやすりで磨いて据え付け、モーターの銅線も自分で巻き替えた
- [27]昭和21年4月3日に戦後第一号の魚肉ソーセージを完成してニューソーセージと命名し、同月7日から発売したところ近所の小売店4、5軒で即座に売り切れた
大量に生産するには大量の原料と資材が要ったが、統制の元締めは兵庫県庁だった。県民の食糧不足を解消するため岸田知事を中心に兵庫県食糧会議所が設けられ、伊藤傳三氏も生鮮食品業界の代表として加わった。会社は県から重要民需産業の指定を受け、物価局の規定に基づいて生産量の7割を公定価格で家庭配給に回し、残る3割を自由販売に充てた。自由販売なら高く売れたが、公定価格で協力するとして家庭配給ルートに乗せ、随分と売りさばいた。1946年4月に合名会社伊藤食品工業を設立し、同年7月末には神戸市灘区備後町に敷地約5,000平方メートルの工場を完成させて製造能力を一挙に100倍へ広げた。1948年6月には伊藤栄養食品工業株式会社へ改組した。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [28]ニューソーセージを大量に生産するには大量の原料と資材が必要で、まだ統制時代でその元締めは兵庫県庁だった
- [29]県民の食糧不足を解消するため岸田知事を中心に兵庫県食糧会議所が設置され、伊藤傳三は生鮮食品業界を代表して参加した
- [30]会社は県の重要民需産業の指定を受け、物価局の規定に基づいて製品は公定価格で生産量の7割を家庭配給に回し、残りの3割を自由販売できた
- [33]発売後3カ月で新工場を建設して生産量を増やすことになり、7月末に神戸市灘区備後町に敷地約5,000平方メートルの工場を完成させ、製造能力は一挙に100倍に膨らんだ
- 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [31]自由販売であれば高く販売できたが、公定価格で協力しようということで家庭配給ルートに乗せ随分販売した
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- [32]1946年4月に神戸市灘区備後町で合名会社伊藤食品工業を設立した
- [34]1948年6月に伊藤栄養食品工業株式会社へ改組して兵庫県から重要民需産業に指定された
1948年に入ると豚肉のほか兎肉・子牛・山羊肉・馬肉が出回り始めたが、馬肉と山羊肉はにおいが強く、ハム・ソーセージにはほとんど使われていなかった。伊藤傳三氏は鮮度を落とさずに臭みを抜く方法を探し、氷水で水洗いする脱臭法にたどり着いて畜肉の寄せハムを作った。これが原料肉の足りない業界にプレスハムを生むきっかけとなり、1947年7月から製造を始め、1948年には魚肉をやめて全面的に畜肉へ切り替えた。同業他社も畜肉のプレスハムを売り出したが、温度管理のばらつきから風味が抜けたり色が黒ずんだりする製品があった。自社だけが良い製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体のイメージが下がり消費者のためにならないと考えた伊藤傳三氏は、同業者の技術幹部を集め、温度管理と製造工程、氷水による水洗い技術のすべてを公開した。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [35]1948年に入ると豚肉のほか兎肉・子牛・山羊肉・馬肉が出回り始めたが、馬肉と山羊肉はにおいがきつくハム・ソーセージにはほとんど使われていなかった
- [36]においを取るには生肉を徹底的に水洗いすればよいが鮮度を落としては困るため、氷水による水洗いという脱臭法に成功して畜肉の寄せハムを開発した
- [37]氷水による水洗いの脱臭法が原料肉不足に苦しむ業界にプレスハムを生むきっかけとなった
- [38]雑肉を原料にした寄せハムすなわちプレスハムを作り始めたのは昭和22年7月からで、昭和23年には魚肉をやめて全面的に畜肉によるハム・ソーセージに切り替えた
- [39]同業他社のプレスハムは畜肉の風味と香りがなくなったり色が黒ずんだりして技術面でばらつきのある製品もあった
- [40]自分の会社だけがいい製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体のイメージダウンになり消費者のためにならないと考え、同業者の技術関係の幹部を集めて温度管理・製造工程と氷水による水洗い技術を全部公開した
参考文献[21]-[40]
- 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [21]古いさめ肉は独特のアンモニア臭が強くかまぼこ屋でも歓迎されず、神戸ではほとんどが肥料会社に送り込まれていた
- [22]戦後の再興にあたって畜産物原料が乏しかったため、豊富にあったさめ肉を原料に選んだ
- [25]鮮度の良いさめ肉をソーセージの原料とする研究を始めて挽肉の脱臭に成功し、ラードあるいは植物油を使って技術面で成功した
- [26]畜肉取扱業者でも原料がさめ肉とは気がつかないほどだった
- [31]自由販売であれば高く販売できたが、公定価格で協力しようということで家庭配給ルートに乗せ随分販売した
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [23]昭和21年には神戸の焼跡からレンガを拾ってきてかまどを作り、ドラム缶をボイル用の釜とし、焼けたモーターを修理して動力とした
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [24]前の工場跡から赤くさびたミンチ釜を掘り出し、ペーパーやすりで磨いて据え付け、モーターの銅線も自分で巻き替えた
- [27]昭和21年4月3日に戦後第一号の魚肉ソーセージを完成してニューソーセージと命名し、同月7日から発売したところ近所の小売店4、5軒で即座に売り切れた
- [28]ニューソーセージを大量に生産するには大量の原料と資材が必要で、まだ統制時代でその元締めは兵庫県庁だった
- [29]県民の食糧不足を解消するため岸田知事を中心に兵庫県食糧会議所が設置され、伊藤傳三は生鮮食品業界を代表して参加した
- [30]会社は県の重要民需産業の指定を受け、物価局の規定に基づいて製品は公定価格で生産量の7割を家庭配給に回し、残りの3割を自由販売できた
- [33]発売後3カ月で新工場を建設して生産量を増やすことになり、7月末に神戸市灘区備後町に敷地約5,000平方メートルの工場を完成させ、製造能力は一挙に100倍に膨らんだ
- [35]1948年に入ると豚肉のほか兎肉・子牛・山羊肉・馬肉が出回り始めたが、馬肉と山羊肉はにおいがきつくハム・ソーセージにはほとんど使われていなかった
- [36]においを取るには生肉を徹底的に水洗いすればよいが鮮度を落としては困るため、氷水による水洗いという脱臭法に成功して畜肉の寄せハムを開発した
- [37]氷水による水洗いの脱臭法が原料肉不足に苦しむ業界にプレスハムを生むきっかけとなった
- [38]雑肉を原料にした寄せハムすなわちプレスハムを作り始めたのは昭和22年7月からで、昭和23年には魚肉をやめて全面的に畜肉によるハム・ソーセージに切り替えた
- [39]同業他社のプレスハムは畜肉の風味と香りがなくなったり色が黒ずんだりして技術面でばらつきのある製品もあった
- [40]自分の会社だけがいい製品を出しても業界全体が歩調をそろえなければ製品全体のイメージダウンになり消費者のためにならないと考え、同業者の技術関係の幹部を集めて温度管理・製造工程と氷水による水洗い技術を全部公開した
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- [32]1946年4月に神戸市灘区備後町で合名会社伊藤食品工業を設立した
- [34]1948年6月に伊藤栄養食品工業株式会社へ改組して兵庫県から重要民需産業に指定された
1949年〜物品税の撤廃と直販が開いた大衆化
戦時中にハム・ソーセージへ課された物品税は、戦後もそのまま引き継がれて需要の拡大を妨げる一因になっていた。当時はボンレスハムやポークハムなどの単味品はもちろん、寄せハムにも30%が課されていた。東京・大森の料亭で関東と関西の代表者が対策を練ったとき、東京の業者には悪税だとしても強硬に主張して官ににらまれれば損だという空気があった。伊藤傳三氏は高級品ではなく大衆品である寄せハムに課税するのは間違っていると信じ、灘の税務署長と口論したうえで大蔵省主税局に談判した。1949年6月11日にプレスハムの物品税は撤廃され、7月から実施された。単味品に残っていた10%も翌1950年1月に全廃となり、プレスハムの大衆化が進み始めた。
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [41]戦時中ハム・ソーセージには物品税が課せられ、戦後も一時期そのまま引き継がれてハム・ソーセージ需要の拡大を妨げる一要因となった
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [42]当時はボンレス・ポークハムなどの単味品はもちろん寄せハムにも物品税30%が課せられていた
- [43]東京・大森の料亭で関東・関西の代表者が集まって対策を練った際、東京の業者には物品税は悪税で撤廃してもらいたいがあまり強硬に主張してお上ににらまれても損するという空気があった
- [44]高級品ではなく大衆品である寄せハムに物品税をかけるのは間違っていると信じ、灘の税務署長と口げんかしたあげく大蔵省の主税局で談判した
- [45]昭和24年6月11日にプレスハムは課税を撤廃され、7月から実施された
- [46]単味品に残っていた10%の物品税も翌昭和25年1月についに全廃になり、プレスハムの大衆化路線が軌道に乗り始めた
当初は代理店を通して小売店へ売っていたが、値段をたたかれるうえ、他社製品と一緒に扱われるために自社製品がどれだけ売れているか把握できなかった。伊藤傳三氏は1948年のプレスハム販売のころから関西を中心に直営の営業所を置き、仲買人を通さない直販へ切り替えた。さらに自社製品だけを売る小売店を集めて伊藤ハム会を結成し、会社が側面から援助した。1957年夏、東京のホテルでテレビを見ていた伊藤傳三氏は、日本水産や大洋漁業といった水産会社の魚肉ハム・ソーセージの広告が目立つことに気づき、西宮の工場建設より東京進出が先だと判断した。目黒区三田に4,200平方メートルの用地を求め、当時の金で2億3,900万円を投じて1959年6月に目黒工場を完成させた。東京でも最初から仲買制度をやめ、直販を採った。
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [47]当初は代理店を通じて小売店に販売していたが、値段をたたかれること、他社製品と共に取り扱われるので自社製品がどれだけ売れているのか把握できないことなどの弊害があった
- [49]自社製品だけを売る小売店を集めて伊藤ハム会を結成し、会社が側面から援助するようになった
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [48]昭和23年のプレスハムの販売のころから関西を中心に直営の営業所を設置し、仲買人を通さないメーカーから小売店への直販ルートにした
- [50]昭和32年夏に新橋の第一ホテルでテレビを見ていると日本水産や大洋漁業などの魚肉ハム・ソーセージの宣伝が目立ち、西宮工場建設どころではなく東京進出が先だと判断した
- [51]目黒区三田に4,200平方メートルの用地を取得し、当時の金で2億3,900万円をかけて昭和34年6月に目黒工場が完成した
- [52]東京での販売がうまくいったのは最初から仲買制度をやめて直販システムを採用したことが大きかった
1957年ごろから原料の豚肉が手に入りにくくなった。米価が上がるにつれて農村は米作りに精を出し、豚の飼育に熱を入れなくなっていたためである。伊藤傳三氏は早くからマトンの脱血・脱臭法を研究しており、1958年にニュージーランドから3,000トンを輸入した。その年の日本全体の輸入が3,200トンだったから、ほとんどを使い切った計算になる。マトンは脂肪分を分離して油脂会社へ売り、残る赤身を氷水で十分に洗って血を抜き、脱水器で絞ってから塩漬けにかけるとプレスハムの主原料になった。原料の裏づけを得て1960年11月3日に西宮工場が操業を始め、1961年1月に商号を伊藤ハム栄養食品へ変え、同年10月に東京・大阪両証券取引所の第二部と神戸証券取引所へ上場した。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [53]昭和32、33年ごろから原料豚肉の入手が難しくなってきた
- [54]米価が上がるのにつれて農村は米づくりに精出し、豚の飼育に熱を入れなくなっていたうえ豚肉需要は伸びる一方だった
- [55]原料不足を予想してマトンの脱血・脱臭法を研究しており、昭和33年にニュージーランドから初めて3,000トンのマトンを輸入した
- [56]昭和33年のわが国全体のマトン輸入は3,200トンで、そのほとんどを伊藤ハムが使ったことになる
- [57]マトンは脂肪分を分離して油脂会社に売却し、残りの赤身の部分を氷水で十分洗って血液を抜き、脱水器で絞ってから塩漬けにかけてプレスハムの主原料に使われるようになった
- [58]昭和34年秋に着手した西宮工場の工事は急ピッチで進み、翌昭和35年11月3日に操業にこぎつけた
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- [59]1961年1月に伊藤ハム栄養食品株式会社へ商号変更、同年10月に東京・大阪両証券取引所市場第二部および神戸証券取引所に上場
神戸工場から西宮工場へ移った1961年の従業員は約1,300人、年商は約36億円になっていた。移転して間もなく総評系の労働組合が生まれ、春闘や一時金闘争のたびにストライキに巻き込まれた。夏の一時金闘争で組合が開いた集会を勤務時間に食い込む違法集会として委員長ら三役を解雇したことから対立は深まり、1962年11月には組合幹部を中心とする32人が14日間のハンガーストライキに入った。1961年12月期の売上高は36億7,400万円、利益は1億600万円にとどまり、当初見込んだ売上50億円を大きく下回って公約の20%配当は15%へ減配された。株式市場で取り沙汰された減配に対しては、含み資産の厚みが業界首位の底力の根拠として持ち出された。それでも同族色を脱して近代経営へ移る課題は残った。
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [60]神戸工場から新しい西宮工場に移転した昭和36年初めの従業員は約1,300人、年商も約36億円になっていた
- [61]西宮工場に移転して間もなく総評系の労働組合が誕生し、春闘や一時金闘争があるたびにストライキ騒ぎに巻き込まれた
- [62]夏のボーナス闘争で労組が行った集会が勤務時間に食い込む違法集会だったことを理由に組合の委員長・副委員長・書記長を解雇処分にしたことが直接の原因となり、昭和37年11月に組合幹部を中心とする32人が14日間のハンガーストライキに入った
- 野田経済 1962年6月4日号
- [63]組合問題が原因で昭和36年12月期の業績は売上高36億7,400万円・利益1億600万円となり、当初の予想である売上高50億円をかなり下回って公約の20%配当が15%に減配された
- [64]伊藤傳三は株式市場での取り沙汰に対し、うわすべりな見方はやめて総合的にみてほしい、当社の含み資産ひとつ見てもわかるように底力は業界ナンバーワンだと反論した
- [65]経営の近代化に心がけてきているがまだ近代経営へ脱皮しているとはいえず、人材の養成や同族カラーを破っていく課題が残っていた
参考文献[41]-[65]
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
- [41]戦時中ハム・ソーセージには物品税が課せられ、戦後も一時期そのまま引き継がれてハム・ソーセージ需要の拡大を妨げる一要因となった
- [47]当初は代理店を通じて小売店に販売していたが、値段をたたかれること、他社製品と共に取り扱われるので自社製品がどれだけ売れているのか把握できないことなどの弊害があった
- [49]自社製品だけを売る小売店を集めて伊藤ハム会を結成し、会社が側面から援助するようになった
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- [42]当時はボンレス・ポークハムなどの単味品はもちろん寄せハムにも物品税30%が課せられていた
- [43]東京・大森の料亭で関東・関西の代表者が集まって対策を練った際、東京の業者には物品税は悪税で撤廃してもらいたいがあまり強硬に主張してお上ににらまれても損するという空気があった
- [44]高級品ではなく大衆品である寄せハムに物品税をかけるのは間違っていると信じ、灘の税務署長と口げんかしたあげく大蔵省の主税局で談判した
- [45]昭和24年6月11日にプレスハムは課税を撤廃され、7月から実施された
- [46]単味品に残っていた10%の物品税も翌昭和25年1月についに全廃になり、プレスハムの大衆化路線が軌道に乗り始めた
- [48]昭和23年のプレスハムの販売のころから関西を中心に直営の営業所を設置し、仲買人を通さないメーカーから小売店への直販ルートにした
- [50]昭和32年夏に新橋の第一ホテルでテレビを見ていると日本水産や大洋漁業などの魚肉ハム・ソーセージの宣伝が目立ち、西宮工場建設どころではなく東京進出が先だと判断した
- [51]目黒区三田に4,200平方メートルの用地を取得し、当時の金で2億3,900万円をかけて昭和34年6月に目黒工場が完成した
- [52]東京での販売がうまくいったのは最初から仲買制度をやめて直販システムを採用したことが大きかった
- [53]昭和32、33年ごろから原料豚肉の入手が難しくなってきた
- [54]米価が上がるのにつれて農村は米づくりに精出し、豚の飼育に熱を入れなくなっていたうえ豚肉需要は伸びる一方だった
- [55]原料不足を予想してマトンの脱血・脱臭法を研究しており、昭和33年にニュージーランドから初めて3,000トンのマトンを輸入した
- [56]昭和33年のわが国全体のマトン輸入は3,200トンで、そのほとんどを伊藤ハムが使ったことになる
- [57]マトンは脂肪分を分離して油脂会社に売却し、残りの赤身の部分を氷水で十分洗って血液を抜き、脱水器で絞ってから塩漬けにかけてプレスハムの主原料に使われるようになった
- [58]昭和34年秋に着手した西宮工場の工事は急ピッチで進み、翌昭和35年11月3日に操業にこぎつけた
- [60]神戸工場から新しい西宮工場に移転した昭和36年初めの従業員は約1,300人、年商も約36億円になっていた
- [61]西宮工場に移転して間もなく総評系の労働組合が誕生し、春闘や一時金闘争があるたびにストライキ騒ぎに巻き込まれた
- [62]夏のボーナス闘争で労組が行った集会が勤務時間に食い込む違法集会だったことを理由に組合の委員長・副委員長・書記長を解雇処分にしたことが直接の原因となり、昭和37年11月に組合幹部を中心とする32人が14日間のハンガーストライキに入った
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- [59]1961年1月に伊藤ハム栄養食品株式会社へ商号変更、同年10月に東京・大阪両証券取引所市場第二部および神戸証券取引所に上場
- 野田経済 1962年6月4日号
- [63]組合問題が原因で昭和36年12月期の業績は売上高36億7,400万円・利益1億600万円となり、当初の予想である売上高50億円をかなり下回って公約の20%配当が15%に減配された
- [64]伊藤傳三は株式市場での取り沙汰に対し、うわすべりな見方はやめて総合的にみてほしい、当社の含み資産ひとつ見てもわかるように底力は業界ナンバーワンだと反論した
- [65]経営の近代化に心がけてきているがまだ近代経営へ脱皮しているとはいえず、人材の養成や同族カラーを破っていく課題が残っていた
筆者考察
伊藤ハムの創業期を貫いているのは、資本の要る場所を避け、他社が扱えない原料を扱う技術で立ち位置を確保するという選び方である。ボンレスハムやロースハムは設備と資金の量で優劣が決まるため、伊藤傳三氏はそこへ向かわず、あめ菓子の包装から出た赤いセロハンの断ちくずを使って10匁単位の商品を作った。戦後はかまぼこ屋にも敬遠されて肥料へ回っていたさめ肉を脱臭してニューソーセージに変え、においが強くて誰も使わなかった馬肉と山羊肉を氷水の水洗いで寄せハムに仕立てた。原料の格が低いほど仕入れ値は安く、技術を持つ者だけが加工できる。セロハンウインナから寄せハムまで、扱えないものを扱えるようにする一点で製品が並んでいる。
その技術を独占せずに同業へ公開したことは、競争優位を手放す判断に見える。だが当時のプレスハムは作り手ごとに色も風味もばらつき、消費者にとってはプレスハムという商品そのものが信用できなかった。市場が信用されないかぎり、首位を取っても取る市場が小さいままになる。伊藤傳三氏は温度管理から氷水の水洗いまでを同業へ公開して品質の底を上げ、同じ理屈で大蔵省主税局に談判し、1949年に寄せハムの物品税を撤廃させた。品質が揃い税が外れて初めて、プレスハムは贈答品ではなく日常の副食として売れる。技術も税も、自社の取り分を増やすより先に市場の天井を外すほうへ使われている。1961年の上場までに年商36億円を確保した土台は、この二度の開放にあった。
1928年〜1964年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年12月期 | 単体 | 36 | n/a | 1 | 2.8% | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年02月期 | 単体 | 54 | n/a | 2 | 3.7% | n/a |
| 1964年02月期 | 単体 | 58 | +7.4% | 2 | 3.4% | n/a |
出所:会社年鑑 1967年版、会社年鑑 1967年版 変則14ヶ月合算、会社年鑑 1967年版 半期合算
出典・参考
7件
- 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
- 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
- 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
- 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
- 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
- 野田経済 1962年6月4日号
- オール大衆 1969年「ハムの歴史をつくる/伊藤傳三」