第2章 年〜年

伊藤ハム米久ホールディングス:庄司清和の米久食品創業と伊藤ハムの東証一部上場

1965年〜食肉の卸売り10年を経て出したダルマ・スモークハム

庄司清和氏が静岡県沼津市で米久食品を興したのは1965年である。当時の食肉業界は、関西系のハム会社が全国に販売網を張り終えて上場も果たしたあとで、食肉加工業者の数は400社を超えていた。庄司清和氏は畜産学部で学び、在学中は脱脂粉乳を乳酸発酵させた飲料を売り歩いて研究室の費用に充てた人物で、卒業後に入った東京の米久を16カ月で辞めている。資金・信用・技術のいずれも欠く米久では、ハム・ソーセージを生産しても売り先がなく、代わりに食肉の卸売りを約10年続けて、余剰のある先から不足する先へ肉を運び、骨や脂を外す作業を残業で請けては手間賃を得た。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [1]庄司清和氏は東京の米久に就職して16カ月で辞め、故郷に近い静岡県沼津市で個人創業した
    • [2]当時の食肉業界は関西系のハム会社など大手が全国ネットワークを完成して上場も終えており、食肉加工業者も400社以上あった
    • [3]畜産学部の出身で、畜産物利用学の研究室にいた学生時代に脱脂粉乳を乳酸発酵させた乳酸飲料を作って売り歩き研究室の費用を稼いだ
    • [4]当初は資金も信用も技術もなくハムやソーセージの生産は無理で、作っても売れる状態ではなかった
    • [5]まず食肉の卸売りを手がけ、足りないものを余っているところから持ってきて売り、骨や脂を取る仕事は残業して手間賃を稼ぐやり方で約10年間続けた

取引先が200〜300社、営業所が2〜3カ所になった1973年から、米久はハム・ソーセージの製造と販売を本格的に始めた。丸・四角・三角の三つしかなかったハムの形に、手作りのダルマ・スモークハムを投じて当てたのは、後発の不利を独自の商品開発で差別化して埋めるという庄司清和社長の方針による。半調理品もミートボールやロールキャベツなどへ品目を広げ、1982年に開発を終えた生ハムは全国シェアで首位に立った。大手各社の間では、米久が何を開発するかを常に見張るべきだとの評価が定まった。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [6]取引先が200〜300社、営業所も2〜3カ所持てるようになり、1973年からハム・ソーセージの製造・販売を本格的に開始した
    • [7]それまでハムには丸か四角か三角しかなかったところへダルマ・スモークハムを開発し、手作りハムとして当たった
    • [8]独自の商品開発による差別化こそが徒手空拳の米久がこの業界で生き残るための何よりの武器と考えてきた
    • [9]ミートボール・ロールキャベツなど半調理品の分野でも多くの商品群を開発し、生ハムは1982年に開発を終えて圧倒的な全国シェアを持つに至った
    • [10]業界の大手各社から米久の商品開発から目を離してはいけないといわれるほどになった

販売では東海道メガロポリスと呼ばれる帯に絞って売り込み、得意先は約1,400社、売上高構成比は大手・中小スーパーが4割強、卸・専門店が4割強を占めた。従業員は415人にパートタイマー約200人、関連会社13社を合わせると約1,100人で、平均年齢は従業員が29歳、役員が44歳、支店長・工場長が36歳だった。社是は創業当初の『肉店の裏方はおまかせください』から『Better Products, Better Service』を経て、ヘルシー・コミュニケーションへ移した。仕入先はほとんどが生産者で、商社を通じた海外からの調達が約30%を占めた。1986年10月6日、米久は東京と名古屋で株式を店頭公開した。

  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [11]東海道メガロポリスといわれる地域で集中的に販売を強めてきたことが特徴で、得意先は約1,400社、売上高構成比は大手スーパー・中小スーパーが4割強、卸・専門店が4割強
    • [12]従業員は415人、パートタイマー約200人、関連会社13社を合わせた全従業員は約1,100人で、平均年齢は従業員29歳・役員44歳・支店長・工場長36歳
    • [13]経営理念は当初の「肉店の裏方はおまかせください」から社是「Better Products, Better Service」を経て「ヘルシー・コミュニケーション」に変わった
    • [14]仕入先はほとんど生産者だが、海外からも商社を通じて約30%を仕入れている
    • [15]1986年10月6日に東京と名古屋で株式を店頭公開した
参考文献[1]-[15]
  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
    • [1]庄司清和氏は東京の米久に就職して16カ月で辞め、故郷に近い静岡県沼津市で個人創業した
    • [2]当時の食肉業界は関西系のハム会社など大手が全国ネットワークを完成して上場も終えており、食肉加工業者も400社以上あった
    • [3]畜産学部の出身で、畜産物利用学の研究室にいた学生時代に脱脂粉乳を乳酸発酵させた乳酸飲料を作って売り歩き研究室の費用を稼いだ
    • [4]当初は資金も信用も技術もなくハムやソーセージの生産は無理で、作っても売れる状態ではなかった
    • [5]まず食肉の卸売りを手がけ、足りないものを余っているところから持ってきて売り、骨や脂を取る仕事は残業して手間賃を稼ぐやり方で約10年間続けた
    • [6]取引先が200〜300社、営業所も2〜3カ所持てるようになり、1973年からハム・ソーセージの製造・販売を本格的に開始した
    • [7]それまでハムには丸か四角か三角しかなかったところへダルマ・スモークハムを開発し、手作りハムとして当たった
    • [8]独自の商品開発による差別化こそが徒手空拳の米久がこの業界で生き残るための何よりの武器と考えてきた
    • [9]ミートボール・ロールキャベツなど半調理品の分野でも多くの商品群を開発し、生ハムは1982年に開発を終えて圧倒的な全国シェアを持つに至った
    • [10]業界の大手各社から米久の商品開発から目を離してはいけないといわれるほどになった
    • [11]東海道メガロポリスといわれる地域で集中的に販売を強めてきたことが特徴で、得意先は約1,400社、売上高構成比は大手スーパー・中小スーパーが4割強、卸・専門店が4割強
    • [12]従業員は415人、パートタイマー約200人、関連会社13社を合わせた全従業員は約1,100人で、平均年齢は従業員29歳・役員44歳・支店長・工場長36歳
    • [13]経営理念は当初の「肉店の裏方はおまかせください」から社是「Better Products, Better Service」を経て「ヘルシー・コミュニケーション」に変わった
    • [14]仕入先はほとんど生産者だが、海外からも商社を通じて約30%を仕入れている
    • [15]1986年10月6日に東京と名古屋で株式を店頭公開した

1967年〜精肉店4万店をめぐる系列化の競争

ハム・ソーセージは生鮮食料品で鮮度が最も重んじられるため、問屋を通さず精肉店へ直に売る仕組みが業界の標準だった。冷凍ケースや冷蔵庫といった設備を備えているのは精肉店で、彼らは一種の地域独占権を持っていた。畜肉のソーセージを主とする伊藤ハムとプリマハムでは、精肉店が販路の8割を占め、スーパーは1割にとどまった。精肉店を一店でも多く確保し、他社より早く系列に組み込んだメーカーがシェアを握るという構図があった。資金の乏しい小売店は、全国規模のスーパーの攻勢に単独では抗しようがなかった。そこで選んだのが集団化・組織化の道である。全国に4万店と推定される精肉店のうち、その半数にあたる2万店は、すでにいずれかのメーカーの会の加入店となっていた。

  • 産業と経済 1967年(勝田健)
    • [16]ハム・ソーセージは生鮮食料品であるため鮮度が一番重んじられ、他業界と異なり問屋を通さない精肉店直販システムである
    • [17]製品の保存期間が短いため小売りには冷凍ケース・冷蔵庫が必要で、そうした設備を完備しているのが精肉店であり、彼らは一種の地域独占権を所有している
    • [18]畜肉のソーセージを主とする専門メーカーである伊藤ハム・プリマハムは精肉店で80%、スーパー10%、後はその他という構成で、精肉店のウェイトは絶大である
    • [19]一軒でも多く精肉店を確保しいちはやく系列化をはかったメーカーがシェア確保で勝利を収め、王座に君臨できるので市場争奪戦は熾烈さを加えている
    • [20]資金的に限りのある小売店は全国的なスーパー攻勢に自分の店一軒だけでは対抗できず、進歩的な店は集団化・組織化の道を歩むことになる
    • [21]全国に4万店と推察される精肉店のうち半数の2万店がどこかのメーカーの〇〇会に加入加盟している

1967年の時点で、伊藤ハムは全国1万5,000軒の取引先のうち2,300店を自社製品だけを扱う専門店にしていた。入会金は1,000円、年会費は3,600円で、営業所ごとに単位組織を置くプリマハムとは異なり、関東・中部など全国10ブロックに分けて会員制を敷いた。専売店であるため会社との結びつきは濃く、機械資材の共同購入、統一包装紙の無料配布、電飾ディスプレイとショーケースの無料設置、毎月の小売店経営セミナー、機関誌の発行まで支援の範囲を拡大した。加盟店のマージン幅は26%で、一般の精肉店より1〜2%高く置いた。全従業員2,100人のうち600人を営業に充てており、3,000人中500人のプリマハムより小売店の系列化へ力を割いていた。

  • 産業と経済 1967年(勝田健)
    • [22]伊藤ハムは全国取引先1万5,000軒のうち2,300店を完全な伊藤ハムのみを販売する専門店にしている
    • [23]入会金1,000円は同じだが年会費は3,600円で、営業所ごとに単一ハム会を置くプリマハムと異なり関東伊藤ハム会をはじめ全国10ブロックに分けて会員制を敷いている
    • [24]専売店であるため伊藤ハム会とメーカーの密着度は濃く、機械資材の共同購入・統一包装紙の無料配布・電飾ディスプレイの無料設置・ハーモニーショーケースの無料設置・小売店経営セミナーの毎月開催・小売店向け機関誌の発行など多種多様なディーラープロモーションを行っている
    • [25]伊藤ハムでは伊藤ハム会に加盟した場合のマージン幅は26%で、一般精肉店と1〜2%の差を設けている
    • [26]伊藤ハム全従業員2,100人のうち600人が営業マンであり、プリマハムは全従業員3,000人のうち500人という比率から小売店系列化への力の配分が察せられる

1967年7月、伊藤ハムは東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ指定された。同年8月の仮決算では売上高86億7,200万円と前年同期比37.4%の伸びを示したが、経常利益は500万円増の3億6,500万円にとどまった。売上原価と販売費・一般管理費が23億3,700万円増え、売上の伸びを食ったためである。伊藤ハムと関わりのない血清豚肉事件が業界に波及して広告宣伝費に1億円以上を要したうえ、原料の豚肉が30〜40%値上がりした。それでも会社は向こう3年で25億円の設備投資を組み、佐賀県基山と千葉県柏に工場を建て、営業所20カ所を新増設する計画を進めた。1968年6月にはチーズ部門へ進出し、総合食品メーカーへの間口を広げた。

  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1967年7月に東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定された
  • 週刊日本経済 1967年11月9日号
    • [28]1967年8月の仮決算では売上高86億7,200万円と前年同期比37.4%増えたが、前半6カ月の経常利益は500万円増の3億6,500万円にとどまった
    • [29]売上原価や販売費・一般管理費などの営業費が23億3,700万円増加し、営業費が売上の伸びを食った形となった
    • [30]伊藤ハムや日本ハム、丸大食品など関西系ハム会社には何の関連もなかった血清豚肉事件が業界に影響を及ぼし、伊藤ハムでも広告宣伝費に1億円以上を要したほか特別販売セールなどで拡販に努めた
    • [31]原料豚肉が約30〜40%値上がりした
    • [32]向こう3年間の設備投資は合計25億200万円で、千葉(柏)工場10億円・九州(基山)工場3億8,600万円・営業所新増設5億8,800万円などを計画し、営業所は3年間で20カ所を新増設する
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
    • [33]昭和43年5月に千葉県に柏新工場を完成して関東地区への供給力を強化し、同6月から新たにチーズ部門に進出した
参考文献[16]-[33]
  • 産業と経済 1967年(勝田健)
    • [16]ハム・ソーセージは生鮮食料品であるため鮮度が一番重んじられ、他業界と異なり問屋を通さない精肉店直販システムである
    • [17]製品の保存期間が短いため小売りには冷凍ケース・冷蔵庫が必要で、そうした設備を完備しているのが精肉店であり、彼らは一種の地域独占権を所有している
    • [18]畜肉のソーセージを主とする専門メーカーである伊藤ハム・プリマハムは精肉店で80%、スーパー10%、後はその他という構成で、精肉店のウェイトは絶大である
    • [19]一軒でも多く精肉店を確保しいちはやく系列化をはかったメーカーがシェア確保で勝利を収め、王座に君臨できるので市場争奪戦は熾烈さを加えている
    • [20]資金的に限りのある小売店は全国的なスーパー攻勢に自分の店一軒だけでは対抗できず、進歩的な店は集団化・組織化の道を歩むことになる
    • [21]全国に4万店と推察される精肉店のうち半数の2万店がどこかのメーカーの〇〇会に加入加盟している
    • [22]伊藤ハムは全国取引先1万5,000軒のうち2,300店を完全な伊藤ハムのみを販売する専門店にしている
    • [23]入会金1,000円は同じだが年会費は3,600円で、営業所ごとに単一ハム会を置くプリマハムと異なり関東伊藤ハム会をはじめ全国10ブロックに分けて会員制を敷いている
    • [24]専売店であるため伊藤ハム会とメーカーの密着度は濃く、機械資材の共同購入・統一包装紙の無料配布・電飾ディスプレイの無料設置・ハーモニーショーケースの無料設置・小売店経営セミナーの毎月開催・小売店向け機関誌の発行など多種多様なディーラープロモーションを行っている
    • [25]伊藤ハムでは伊藤ハム会に加盟した場合のマージン幅は26%で、一般精肉店と1〜2%の差を設けている
    • [26]伊藤ハム全従業員2,100人のうち600人が営業マンであり、プリマハムは全従業員3,000人のうち500人という比率から小売店系列化への力の配分が察せられる
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1967年7月に東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定された
  • 週刊日本経済 1967年11月9日号
    • [28]1967年8月の仮決算では売上高86億7,200万円と前年同期比37.4%増えたが、前半6カ月の経常利益は500万円増の3億6,500万円にとどまった
    • [29]売上原価や販売費・一般管理費などの営業費が23億3,700万円増加し、営業費が売上の伸びを食った形となった
    • [30]伊藤ハムや日本ハム、丸大食品など関西系ハム会社には何の関連もなかった血清豚肉事件が業界に影響を及ぼし、伊藤ハムでも広告宣伝費に1億円以上を要したほか特別販売セールなどで拡販に努めた
    • [31]原料豚肉が約30〜40%値上がりした
    • [32]向こう3年間の設備投資は合計25億200万円で、千葉(柏)工場10億円・九州(基山)工場3億8,600万円・営業所新増設5億8,800万円などを計画し、営業所は3年間で20カ所を新増設する
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
    • [33]昭和43年5月に千葉県に柏新工場を完成して関東地区への供給力を強化し、同6月から新たにチーズ部門に進出した

1971年〜自由化と生肉への傾斜が変えた収益の形

資本の自由化に伴う外資との提携で業界が一時混乱するなか、伊藤ハムは技術の習得を狙った提携には加わらなかった。欧米の工場を見学した経験から、自社の技術水準は劣らないとみたためである。製品の側では、1971年6月にソーセージ、1972年4月にハムとベーコンの自由化が決まり、伊藤ハムの主力はすべて自由化の対象となった。工場は神戸・西宮・豊橋・四日市・目黒・東京・九州・札幌の各工場に、1972年5月竣工の東北工場と広島県三原市の中国工場が加わり、11カ所を数えた。営業所は関西から東北・北海道まで7地区に95〜96カ所を数えた。1971年2月期の売上高は約591億円、税引後利益は約12億4,400万円で、上場した1961年2月期の約36億2,000万円・約6,600万円から10年で16倍と18倍になっていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [34]以前から欧米のハム・ソーセージ製造工場を見学しており技術水準では決して引けを取らない自信を持っているため、技術を学ぶために外資と提携する必要は全くないと述べた
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [35]昭和46年6月にソーセージが、昭和47年4月からハム・ベーコンが自由化され、主力製品のハム・ソーセージはいずれも自由化品目に指定された
    • [36]工場は神戸・西宮・豊橋・四日市・目黒・東京・九州・札幌のほか、昭和47年5月に竣工式を迎える東北工場と来期中に完成予定の広島県三原市の中国工場を加えると11カ所となる
    • [37]営業所は関西・中部・北陸・中国四国・九州・関東・東北北海道の7地区に大体95〜96カ所ある
    • [38]上場時の昭和36年2月期は売上高約36億2,000万円・税引後利益約6,600万円だったが、10年を経過した昭和46年2月期の売上高は約591億円・税引後利益約12億4,500万円で、売上で約16倍・税引後利益で約18倍になった

ハム・ソーセージ一本で通してきた会社が生肉へ手を伸ばしたのは、得意先の小売店から生肉を他業者から仕入れるのは手間がかかるという要請が相次いだためである。西宮工場内に生肉のカット工場を建て、骨を抜き、そのまま切って小売りできるところまで加工した。小売店の職人が少なくて済むためデパートやスーパー、ショッピングセンターからの需要が増え、1972年には生肉が水揚げの47〜48%を占めるまでになった。生肉を扱うと派生してくるくず肉を加工へ回せる利点もあった。ただし規格肉と生肉は利益率が低く、売上高に比べて利益が大きくならないことが業績上の特色になった。1976年2月期は売上高1,420億円に対し経常利益62億円、税引利益30億円あまりを見込んだ。

  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [39]昭和40年までハム・ソーセージ一本槍で通してきたが、得意先の小売店から生肉を他業者から仕入れるのは手間がかかるとの要請が相次ぎ、生肉カット工場を西宮工場内に建設した
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [40]生肉は骨を抜いて加工を施してあり、すぐ切って小売りできるもので、カット肉と称している
    • [41]小売店の職人が少なくて済むのでデパート・スーパーマーケット・ショッピングセンターなど各方面の小売店からの需要が増加し、現在生肉が水揚げの47〜48%を占めるようになっている
    • [42]生肉を扱うと派生的に出てくるくず肉を加工面に使用できる利点を持つ
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [43]小売店の要望に応じて利益率の低い規格肉や生肉の販売もしているので、売上高に比して利益があまり大きくないのが業績上の特色となっている
    • [44]昭和51年2月期の業績は売上高1,420億円、経常利益62億円、税引利益30億円余りとなる見込み

1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円に達し、678億円の日本ハムとの差を広げて首位に立ったが、と畜場の経営はゼロだった。豚肉の緊急輸入制限措置が発動されると、伊藤ハムはそれに伴って膨らんだ原価を埋め切れなかった。原料の輸入依存はかねて深まっており、1975年には豚肉だけで12万トンほどを海外から買っていた。1993年3月期の伊藤ハムは売上高4,540億円、営業利益100億円、経常利益123億円を上げていた。それが1996年3月期には売上高4,340億円、営業利益53億円、経常利益63億円まで落ち込んだ。1995年のハム・ソーセージのシェアは、日本ハム19.3%に対し伊藤ハム17.8%である。日本ハムがハム・ソーセージの比重を下げて多角化へ進んだのとは逆に、伊藤ハムでは生肉が売上の54%を占めていた。と畜と肥育を握らないまま原料相場に収益を委ねる構造が残っていた。

  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [45]1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で2位の日本ハムは678億円、伊藤ハム栄養食品は畜殺場経営がゼロだった
  • 経営コンサルタント 1997年「激突する変革時代の競合戦略(5)日本ハムVS.伊藤ハム」(坂口義弘)
    • [46]伊藤ハムは日本ハム同様セーフガード(豚肉緊急輸入制限措置)発動によるコスト増を吸収できず大幅な減益になった
    • [48]伊藤ハムの1996年3月期は売上高4,340億円・営業利益53億円・経常利益63億円で、1993年3月期の売上高4,540億円・営業利益100億円・経常利益123億円から大幅な減益となった
    • [49]1995年のハム・ソーセージ国内生産量・輸入量合計のシェアは日本ハムが19.3%で対前年比1.2ポイント減、伊藤ハムは17.8%で0.3ポイント伸ばした
    • [50]日本ハムは多角化路線を目標にハム・ソーセージへのウエートを低くしている一方、伊藤ハムの売上構成はハム・ソーセージ30%・調理加工食品14%・生肉54%・その他2%である
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [47]牛肉・豚肉とも国内では賄いきれず、最近では豚肉も足りなくなり昨年は12万トン程度を輸入している
参考文献[34]-[50]
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [34]以前から欧米のハム・ソーセージ製造工場を見学しており技術水準では決して引けを取らない自信を持っているため、技術を学ぶために外資と提携する必要は全くないと述べた
    • [43]小売店の要望に応じて利益率の低い規格肉や生肉の販売もしているので、売上高に比して利益があまり大きくないのが業績上の特色となっている
    • [44]昭和51年2月期の業績は売上高1,420億円、経常利益62億円、税引利益30億円余りとなる見込み
    • [47]牛肉・豚肉とも国内では賄いきれず、最近では豚肉も足りなくなり昨年は12万トン程度を輸入している
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
    • [35]昭和46年6月にソーセージが、昭和47年4月からハム・ベーコンが自由化され、主力製品のハム・ソーセージはいずれも自由化品目に指定された
    • [36]工場は神戸・西宮・豊橋・四日市・目黒・東京・九州・札幌のほか、昭和47年5月に竣工式を迎える東北工場と来期中に完成予定の広島県三原市の中国工場を加えると11カ所となる
    • [37]営業所は関西・中部・北陸・中国四国・九州・関東・東北北海道の7地区に大体95〜96カ所ある
    • [38]上場時の昭和36年2月期は売上高約36億2,000万円・税引後利益約6,600万円だったが、10年を経過した昭和46年2月期の売上高は約591億円・税引後利益約12億4,500万円で、売上で約16倍・税引後利益で約18倍になった
    • [40]生肉は骨を抜いて加工を施してあり、すぐ切って小売りできるもので、カット肉と称している
    • [41]小売店の職人が少なくて済むのでデパート・スーパーマーケット・ショッピングセンターなど各方面の小売店からの需要が増加し、現在生肉が水揚げの47〜48%を占めるようになっている
    • [42]生肉を扱うと派生的に出てくるくず肉を加工面に使用できる利点を持つ
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
    • [39]昭和40年までハム・ソーセージ一本槍で通してきたが、得意先の小売店から生肉を他業者から仕入れるのは手間がかかるとの要請が相次ぎ、生肉カット工場を西宮工場内に建設した
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
    • [45]1978年2月期のハム・ソーセージ売上高は927億円で2位の日本ハムは678億円、伊藤ハム栄養食品は畜殺場経営がゼロだった
  • 経営コンサルタント 1997年「激突する変革時代の競合戦略(5)日本ハムVS.伊藤ハム」(坂口義弘)
    • [46]伊藤ハムは日本ハム同様セーフガード(豚肉緊急輸入制限措置)発動によるコスト増を吸収できず大幅な減益になった
    • [48]伊藤ハムの1996年3月期は売上高4,340億円・営業利益53億円・経常利益63億円で、1993年3月期の売上高4,540億円・営業利益100億円・経常利益123億円から大幅な減益となった
    • [49]1995年のハム・ソーセージ国内生産量・輸入量合計のシェアは日本ハムが19.3%で対前年比1.2ポイント減、伊藤ハムは17.8%で0.3ポイント伸ばした
    • [50]日本ハムは多角化路線を目標にハム・ソーセージへのウエートを低くしている一方、伊藤ハムの売上構成はハム・ソーセージ30%・調理加工食品14%・生肉54%・その他2%である

筆者考察

1960年代後半の食肉加工は、製品の出来よりも精肉店を何軒確保したかで順位が決まる市場だった。問屋を通さず、冷蔵設備を持つ精肉店へ直接売る仕組みである以上、全国4万店の小売が実質の関門になる。伊藤ハムは全従業員2,100人のうち600人を営業に充て、取引先1万5,000軒のうち2,300店を自社製品だけの専売店に変え、マージンを一般の精肉店より高く置いて囲い込んだ。統一包装紙もショーケースも会社が無償で配ったのは、店ごと自社の売り場に変えるためである。プリマ会の6,000店より数は少ないが、一店あたりの結びつきは濃い。他人の店を関門ごと確保する道として合理的であり、実際に1978年にはハム・ソーセージで日本ハムを上回った。

同じ時期に沼津で始まった米久は確保できる店を持たなかったので、置いてもらう場所のほうを自分で作るしかなかった。庄司清和氏は最初の10年を食肉の卸売りに使って取引先を積み上げ、丸か四角か三角しかなかったハムへダルマ・スモークハムを持ち込んだ。伊藤ハムが小売の網に収益を預けたのに対し、米久は商品の新しさに預けたことになる。差は原料が高くなったときに表れる。と畜も肥育も持たない伊藤ハムは、豚肉の緊急輸入制限によるコスト増を吸収できず、1993年に100億円あった営業利益を1996年には53億円まで減らした。売り場をいくら確保しても、仕入れの側を握っていなければ相場がそのまま損益へ抜ける。

1965年〜1999年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1965年02月期 単体 73 n/a n/a 2 2.7% n/a
1966年02月期 単体 100 +37.0% 6 3 3.0% n/a
1967年02月期 単体 137 +37.0% 7 4 2.9% n/a
1968年02月期 単体 190 +38.7% 8 5 2.6% n/a
1969年02月期 単体 271 +42.6% 9 5 1.8% n/a
1970年02月期 単体 356 +31.4% 13 7 2.0% n/a
1971年02月期 単体 465 +30.6% 19 10 2.2% n/a
1972年02月期 単体 591 +27.1% 24 12 2.0% n/a
1973年02月期 単体 729 +23.4% 33 18 2.5% n/a
1974年02月期 単体 980 +34.4% 47 25 2.6% n/a
1975年02月期 単体 1,181 +20.5% 45 23 1.9% n/a
1976年02月期 単体 1,429 +21.0% 64 31 2.2% n/a
1977年02月期 単体 1,712 +19.8% 82 40 2.3% n/a
1978年02月期 単体 1,993 +16.4% 89 46 2.3% n/a
1979年02月期 単体 2,052 +3.0% 98 53 2.6% n/a
1980年02月期 単体 2,178 +6.1% 106 56 2.6% n/a
1981年02月期 単体 2,329 +6.9% 112 59 2.5% n/a
1982年02月期 単体 2,509 +7.7% 101 51 2.0% n/a
1983年02月期 単体 2,641 +5.3% 94 45 1.7% n/a
1984年02月期 単体 2,821 +6.8% 97 47 1.7% n/a
1985年02月期 単体 3,011 +6.7% 101 48 1.6% n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1993年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1994年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1995年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1996年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1997年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1998年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1999年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑 1967年版 半期合算、会社年鑑 1976年版、会社年鑑 1986年版

出典・参考

10件
出典・参考
  • 伊藤ハム 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史 明治百年 3編(1968年)「伊藤ハム栄養食品」
  • 週刊日本経済 1967年11月9日号
  • 証券アナリストジャーナル 1972年5月号(伊藤傳三・講演要旨)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(伊藤傳三・講演要旨)
  • 日経ビジネス 1979年4月23日号
  • 証券アナリストジャーナル 1987年2月号(庄司清和・講演要旨)
  • 私の履歴書 経済人18(日本経済新聞社、1981年)「伊藤傳三」
  • 産業と経済 1967年(勝田健)
  • 経営コンサルタント 1997年「激突する変革時代の競合戦略(5)日本ハムVS.伊藤ハム」(坂口義弘)

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