S Foods丸紅らとの合弁で米ネブラスカ州にFREMONT BEEF COMPANYを設立
- 概要
- 1989年4月、スタミナ食品(現エスフーズ)が丸紅らとの合弁で米ネブラスカ州フリモント市にFREMONT BEEF COMPANYを設立し、米国での食肉処理・加工の拠点を持った経営判断。森島征夫社長が同社の取締役会長を兼ねた。
- 背景
- 1972年1月の牛上みの開発輸入以来、同社は米国で食用習慣のない内臓部位を安く仕入れて国内で売る商売を築いた。1982年7月の『こてっちゃん』発売で原料の必要量が跳ね上がり、買い付ける立場のままでは量も仕様も他社の判断に委ねられた。
- 内容
- 商社の丸紅らと組み、ネブラスカ州フリモント市に食肉加工販売の現地法人を設立。同社は米国での処理・加工と日本向けの供給を担い、森島社長みずからが取締役会長に就いた。同年8月には店頭登録銘柄として株式を公開した。
値のつかない部位に、工場をひとつ持つということ
この判断の核心は、海外へ売りに行くことではなく、原料の入口を自分の側に置くことにあった。米国で処分されていた内臓部位が日本では商品になる、という価格差の上に成り立つ事業は、その差を誰が取るかで利益の行き先が変わる。買い付ける立場のままなら、こてっちゃんが売れるほど現地の処理業者と商社の交渉力が増していく。フリモント市に自分たちの処理場を置いた1989年の選択は、売上を伸ばす投資というより、伸びた売上の取り分を守るための投資だったとみられる。森島征夫社長が国内の社長職と並行して現地法人の会長を13年続けたことにも、その性格が表れている。
合弁という形をとった以上、意思決定は相手との相談ごとになる。それでも16年を置いてから単独保有に切り替えた順序は、いきなり単独で米国に工場を持つ体力が1989年の同社にはなかったことの裏返しでもある。1990年2月期の連結売上高413億円に対し、経常利益は前期の26億円から18億円へ減っている。丸紅の持ち株4,841,000株は、2006年2月期から2026年2月期まで1株も動いていない。合弁で始まった関係は、出資という形だけを残して36年続いている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
米国で値のつかない部位を運ぶ商売
スタミナ食品は1967年5月に兵庫県尼崎市で牛・豚の内臓肉販売から始まり、1972年1月には米国から牛上みの(牛の第2胃)の開発輸入に成功した。米国の食肉産業では内臓部位を食べる習慣が乏しく、創業者の森島征夫氏はのちに、牛の小腸はアメリカでは食べる習慣がなく不要部位とされていた、と語っている。国内の焼肉店向け内臓肉は地場の食肉センターからの調達に限りがあり、米国で処分されていた部位を日本の食卓へ運ぶという価格差の上に、同社の商売は立っていた[1][2]。
1982年7月に発売した牛内臓肉製品『こてっちゃん』が、この調達経路の意味を変えた。森島氏は1982年の講演で、こてっちゃんが爆発的な人気を博して主力商品となり、メーカーとして事業経営をする自信を得た、と述べている。焼肉店へ生肉を卸すのと、スーパーマーケットの棚に味付け加工品を並べるのとでは、必要な原料の量も納期の確からしさも違う。売れるほどに、米国産牛小腸を安定して確保できるかどうかが会社の成長を左右した[3][4]。
国内の設備は自前化できても、原料の入口は他人のもの
1980年代の同社は、加工と物流の設備を次々と自前で建てている。1984年1月に兵庫県西宮市鳴尾浜へ本社社屋・工場を移し、1985年11月には隣接地に生肉加工工場を建設して内臓肉専業から正肉も扱う体制に広げた。1987年9月には千葉県船橋市高瀬町に東京本社・船橋工場を新設し、1988年11月に鳴尾浜配送センター、同年12月には愛知県小牧市に事務所・配送センターを設けて名古屋営業所を支店に昇格させている。関西の内臓肉問屋から、関東・中部に拠点を持つ食肉加工業者へと業容が変わった[5][6]。
国内側の工程が自前になるほど、原料の入口だけが他社の手に残った。米国産の内臓肉も牛肉も、現地のパッカーが処理したものを商社経由で買い付ける形で、日本向けの洗浄や分割の仕様、出荷の時期、確保できる量は相手の都合に左右される。1989年2月期の連結売上高は345億円、経常利益は26億円で、扱い量はすでに関西の中堅を超えていた。売り先を広げる投資はできても、その売り先に置く商品の元になる部位を、自分の判断で押さえる手立てがなかった[7][8]。
決断
ネブラスカ州フリモント市に自分たちの処理場を置く
出資して現地の経営者に任せる形はとらなかった。役員の状況によれば、森島征夫氏は1989年4月にFREMONT BEEF COMPANYの取締役会長に就任し、2002年3月からは取締役会長兼社長を務めている。国内では代表取締役社長として本体を率いながら、米国子会社の会長職を13年、そのうえで社長職まで兼ねた。合弁の相手が商社である以上、現地事業の中身を見るのは自社の側でなければならないという判断がうかがえる[11]。
商社と組み、同じ年に株式を公開する
合弁設立から4カ月後の1989年8月、同社は日本証券業協会の登録承認を受け、店頭登録銘柄として株式を公開した。国内の工場・配送センターの建設と米国拠点への出資が重なる時期に、資本市場から資金を調達する道を開いた形になる。翌1990年2月期の連結売上高は413億円と前期の345億円から伸びた一方、経常利益は26億円から18億円へ落ちている。海外拠点と国内設備を同時に抱えた投資期の数字であった[14][15]。
結果
16年後の単独保有と、残った資本関係
1拠点のまま26年、そして2拠点へ
米国の設備は、いまではグループの投資計画の中心に置かれている。2026年4月改訂の中期計画は、企業価値向上の取り組みとして国内拠点開発と海外事業への積極投資による垂直統合事業の推進を掲げ、海外事業の欄に2026年の米国オーロラ新工場竣工と2.5倍規模の能力増強を記した。1989年に商社と折半で始めた米国での処理という選択が、37年後の設備投資計画の柱になっている[23]。
- エスフーズ 有価証券報告書【沿革】
- エスフーズ 有価証券報告書 第40期(2006年2月期)
- エスフーズ 有価証券報告書 第41期(2007年2月期)【役員の状況】
- エスフーズ 有価証券報告書(2026年2月期)【大株主の状況】
- 証券アナリストジャーナル 27(10)(1982年)
- フーズチャネル(2018年1月29日)「売上ゼロから再出発した『こてっちゃん』が、味付け牛もつ加工品の売上トップに復活するまで〜こてっちゃん(エスフーズ)」