生産能力は年間500トンで、東邦レーヨンの2,020トンの4分の1程度にすぎなかった。その差を承知のうえで原糸の増産競争に加わらず、成形品で部門売上高の90%近くを稼ぐ体制をつくったことが、1991年3月期の順位入れ替えにつながった。量では競わず高品質・高性能の商品開発を中心に置くという考えは、1982年に金澤脩三社長が講演で述べた時点から変わっていない。8年かけて加工の技術を積んだ会社に、軍需の急減で原糸が余った市況が結果として味方した。
ただし、この2位は市況の谷の上に立っていた。軍需の穴を民需が埋めて市況が戻れば、原糸の能力で勝る東レと東邦レーヨンが有利になり、抜き返される余地は残る。片岡良専務が設備増強によるコストダウンの必要を口にしたのは、川下へ回っても規模の問題からは逃げきれないと見ていたからである。順位が動いたことより、市況に左右されにくい稼ぎ方を先に選んでいたことのほうが、この判断の内実に近い。