三菱レイヨン炭素繊維での成形品重視の川下路線と、米プリプレグ・原糸2社の買収

原糸を量で売るか、加工した成形品で稼ぐか——生産能力4分の1の三菱レイヨンが東邦レーヨンを抜いた1991年

時期 1990年5月
意思決定者(推定) 永井彌太郎 社長
論点 炭素繊維事業の育て方と競争戦略
概要
1990年前後、三菱レイヨンが炭素繊維事業で原糸の増産競争を避け、プリプレグを加工した成形品を主力に据えた。あわせて米国のプリプレグ会社と原糸会社を相次いで買収し、米国でも原糸から成形品までを一貫して生産する体制を整えた経営判断。
背景
同社の生産能力は年間500トンで、東邦レーヨンの2,020トンの4分の1程度にとどまっていた。米国防予算の削減で軍需が1989年比の3分の1に減る一方、世界の設備能力は約1万1,000トンへ膨らみ、市況は1990年から悪化していた。
内容
成形品で炭素繊維部門の売上高の90%近くを稼ぐ構成をつくり、製品ごとに編成を組み替える開発チームでアメリカズカップ艇のマストやゴルフクラブのシャフトを受注した。1990年5月に米ニューポート・コンポジット社を50億円強、1991年6月に米コートルズ・グラフィル社を約20億円で買収した。
含意
1991年3月期の炭素繊維部門の売上高は138億円となり、東邦レーヨンを抜いて東レに次ぐ2位に入った。ただし買収したコートルズ社は赤字に転じており、市況が回復すれば原糸の能力で勝る2社が有利になる位置は変わらなかった。
筆者の見解

順位より、稼ぎ方の選択

生産能力は年間500トンで、東邦レーヨンの2,020トンの4分の1程度にすぎなかった。その差を承知のうえで原糸の増産競争に加わらず、成形品で部門売上高の90%近くを稼ぐ形をつくったことが、1991年3月期の順位入れ替えにつながった。量では競わず高品質・高性能の商品開発を中心に置くという考えは、1982年に金澤脩三社長が講演で述べた時点から変わっていない。8年かけて加工の技術を積んだ会社に、軍需の急減で原糸が余った市況が結果として味方した。

ただし、この2位は市況の谷の上に立っていた。軍需の穴を民需が埋めて市況が戻れば、原糸の能力で勝る東レと東邦レーヨンが有利になり、抜き返される余地は残る。米国で買ったコートルズ社は赤字のままで、笹脇弘・複合材料事業部門長みずからが見切り発車と認めていた。片岡良専務が設備増強によるコストダウンの必要を口にしたのは、川下へ回っても規模の問題からは逃げきれないと見ていたからである。順位が動いたことより、市況に左右されにくい稼ぎ方を先に選んでいたことのほうが、この判断の内実に近い。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

量では競わないと決めた1982年

第1次石油危機後の減量経営をひととおり終えたころ、三菱レイヨンは炭素繊維を新しい事業の柱に数えた。1982年3月、日本証券アナリスト協会の企業分析部会で講演した金澤脩三社長は、繊維・樹脂に続く新事業の三つ目に炭素繊維を挙げ、強度が鉄の7倍、比重はアルミより小さい素材だと説明している。国内では多くのメーカーが名乗りを上げており、競争は激しくなる。そのうえで金澤社長は、量で競争するのではなく高品質・高性能を重視した商品開発を中心に進めると述べた[1]

方針の裏には、加工の経験という持ち札があった。同社は以前から商品の一歩手前まで設計加工を手がけており、大竹で焼成を自社生産することとして、原料から焼成加工までの一貫生産体制を整えた。子会社のダイヤプレミックスではガラス繊維で強化した不飽和ポリエステルの複合材料を手がけ、コンピューターや複写機のハウジングで富士通などから注文を受けていた。この技術の蓄積を移し替えて、航空機や自動車のように強度と軽さを求められる用途の商品開発を進めていた[2]

軍需の急減と供給過剰

1990年に入ると、炭素繊維の市況は急に崩れた。世界需要は約6,800トンで、対前年比の伸び率は1988年に23%、1989年に15%と好調であったのが、1990年は一転して7%へ落ちた。三菱レイヨンが手がけるPAN系炭素繊維は戦闘機などの軍需産業に欠かせない素材であり、米国防予算の削減で軍需が1989年に比べ3分の1に激減したことが最も大きく響いた。これに対して世界全メーカーの設備能力は1990年末で約1万1,000トンに達し、対前年比で25%も増えていた[3]

余った炭素繊維は、スポーツレジャー用品や工業部品といった一般産業用途へなだれ込んだ。需給の均衡は崩れ、市況は1990年から悪化の一途をたどった。三菱レイヨンの生産能力は年間500トンで、東邦レーヨンの2,020トン、東レの2,250トンには遠く及ばない。設備を増やして原糸の量を売る競争にそのまま加われば、規模の差が損益の差となって表れる位置に、同社はいた[4]

決断

原糸ではなく、成形品を売る

炭素繊維の製品は三つの段階に分かれる。繊維そのものである原糸、原糸に樹脂を染み込ませたシート状の中間素材であるプリプレグ、そしてプリプレグを加工した成形品である。三菱レイヨンはこのうち成形品で売上高の90%近くを稼ぎ、輸出はほとんど手がけなかった。東レや東邦レーヨンは原糸が売上高の半分以上を占め、輸出比率も高い。売り方は正反対に分かれていた[5]

原糸やプリプレグより付加価値の高い成形品を中心に事業を進めてきたため、同社は市況悪化の影響を受けずに済んだ。片岡良専務には、東レや東邦レーヨンの真似をして原糸を売っても、生産能力の劣る自社に勝ち目はないという考えがあった。もっとも本人の説明は控えめで、顧客の要求にこたえて事業を進めているうちに加工品の売上比率が増えただけ、と語っている。米国への進出でも、国内で成功したのと同じ成形品重視の戦略を採った[6]

製品ごとに組み替える開発チーム

川下路線を進めたのは、製品別につくった開発チームである。注文を受けると、複合材料事業部門長の権限で製品ごとに必要なメンバーを入れ替える。加工技術を研究する商品開発研究所(名古屋市)、原糸を生産する豊橋事業所(愛知県豊橋市)、本社の炭素繊維複合材料事業部の技術スタッフが集まり、素材の選定から加工、評価までを一手に引き受けた。これで、プリプレグを加工する設備を持たない顧客からの注文を次々に取った[7]

そのやり方が最もよく表れたのが、1992年に米サンディエゴ沖で開かれるアメリカズカップの日本艇「ニッポン」号のマストであった。委員会から依頼を受けた同社は20人の技術者を集め、1990年6月に開発へ着手する。設計データをもとに最適な構造を割り出し、3カ月にわたって試作品の性能評価を繰り返した。製品化のめどがつくと豊橋事業所に専用設備までつくり、12月に長さ34メートルの大型マストを完成させた。アルミ合金製より約40%軽く仕上がった[8]

マストは1991年5月のIACC世界選手権のレース中に折れたが、ヨット設計者の予想を上回る力がかかったのが原因で、材料や成形法に問題はなかった。同じ手法は他の製品にも及ぶ。ゴルフクラブでは開発チームがシャフトを造り、住友ゴム工業やブリヂストンスポーツ、ダイワ精工などと取引のあるシャフトメーカーへ売り込んだ。スキー板は仕上げ塗装をすれば完成する形にして、カザマスキー(本社新潟県新井市)へ納めた[9]

結果

生産能力4分の1で2位へ

1991年3月期、三菱レイヨンの炭素繊維部門の売上高は前年度比で約23%伸び、138億円となった。首位の東レは10%増の220億円を確保したが、2番手だった東邦レーヨンは130億円で、伸び率は1.6%にとどまった。三菱レイヨンはわずかながら東邦レーヨンを抜き、東レに次ぐ2位に入った。生産能力が4分の1程度の会社に順位を入れ替えられたことに、競合メーカーからは驚きの声が上がった[10]

1990年度の売上高138億円は、スポーツレジャー70%、一般産業20%、航空宇宙10%に分かれた。軍需が細っても揺らぎにくい構成である。永井彌太郎社長は炭素繊維を合成繊維、樹脂に次ぐ第3の事業に育てると述べ、数年以内に300億円、10年以内には500億円の事業規模にする計画を掲げた。1988年6月の社長就任時から「9勝6敗」を経営哲学に挙げ、全勝を狙えば挑戦できなくなると語ってきた[11][12]

米国での一貫生産と、その代価

販売地域が国内市場にとどまっていては、500億円の目標には届かない。三菱レイヨンは最大市場である米国に生産拠点を持つ作戦に出た。1990年5月、プリプレグを製造販売する米ニューポート・コンポジット社を50億円強で買収し、社内公募制度で選んだ若手研究者を1人派遣して、現地の技術者に成形技術を教えさせた。1991年6月には原糸を製造販売する米コートルズ・グラフィル社を買収し、年産400トンを加えて設備能力を900トンに増やした[13]

コートルズ社の買収額は約20億円であった。単独で米国に進出しても、ほぼ同額の投資が必要になる計算で、それが半分以下で済んだのは、米国の市況が低迷して現地の炭素繊維メーカーの収益が軒並み悪化していたからである。最大手のハーキュレス社ですら身売り先を探していた。安く買えた代わりに、コートルズ社の収益は1990年度に赤字へ転じ、黒字転換の見通しは立っていない。笹脇弘・複合材料事業部門長も、見切り発車と思われてもしかたがない、と打ち明けている[14]

市況が戻ったときの構図も、社内では見えていた。1991年中には軍需の落ち込みを民需が補い、炭素繊維の市況が回復に向かうとの予測があった。回復すれば原糸の生産能力が大きい東レと東邦レーヨンが有利になり、売上高で東邦レーヨンに抜き返される可能性は十分にある。片岡良専務は、原糸を売れば市況に左右される、今以上に設備増強でコストダウンを図らないと勝てない、と語った。川下へ回っても、規模の問題そのものから抜け出せたわけではなかった[15]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1991年7月8日号「三菱レイヨン 炭素繊維2位に躍進 川下作戦で東レを追う」
  • 日経ビジネス 1988年10月10日号「新社長登場 永井彌太郎氏(三菱レイヨン)」
  • 証券アナリストジャーナル 1982年4月号(20巻4号)「三菱レイヨン ハイテクノロジーを基礎に高付加価値事業展開」(金澤脩三社長 講演要旨・1982年3月5日 日本証券アナリスト協会企業分析部会)

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