インドネシアでの合板現地生産——クタイ・ティンバー・インドネシア(KTI)設立

原木を輸入に頼り続けるか、自ら現地に資源と製造拠点を持つか——住友林業が初めて手掛けた海外生産

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時期 1970年9月
意思決定者 住友林業 経営陣
論点 海外資源開発と現地製造拠点への進出
概要
1970年9月、住友林業がインドネシアの現地資本カルティメクス・ジャヤと合弁でPT. Kutai Timber Indonesia(クタイ・ティンバー・インドネシア)を設立し、1974年12月に合板の製造・販売を現地で開始した経営判断。住友林業にとって最初の海外製造拠点であり、輸入材への依存から自社資源保有への転換点となった。
背景
高度成長期の住宅需要拡大で国内材の調達余力が細るなか、住友林業は資源確保の動きが本格化する前の早い段階でインドネシアへ進出した。戦時中に同国の森林管理を担った経緯による土地勘も、進出の下地になったとみられる。
内容
現地資本との合弁で資本金20億7500万ルピア・出資比率65%のクタイを設立し、東部ジャワのプロボリンゴに合板工場を建設した。政府の要求に応じ、当初ほとんど存在しなかった国内需要に向けて合板生産を始め、林区許可権料などの負担を受け入れながら事業を軌道に乗せた。
含意
現地の華僑資本の追随を受けて内需重視へ転換したことで、1976年3月期には製品の100%が国内向けとなった。この経験は、のちのニュージーランドMDF・インドネシアのパーティクルボードへと続く海外製造拠点モデルの最初の実例になった。
筆者の見解

輸入材依存から現地資源保有へ、海外製造拠点モデルの最初の実例

この決断の核心は、原木を輸入に頼るだけの立場から、自ら現地に資源と製造拠点を持つ立場へ切り替えた点にあるとみることができる。合板需要がほぼ存在しない市場に工場を建てるという判断は、短期的な採算だけを見れば無謀にも映るが、政府との約束を履行しながら現地の需要変化に合わせて内需へ転換した対応力が、事業を軌道に乗せる決め手になったといえる。

クタイでの経験は、1984年のニュージーランドにおけるMDF生産、1990年のインドネシアでのパーティクルボード生産へと引き継がれ、木質ボード事業の海外生産体制を築く出発点となった。資源を持つ土地に製造拠点を構え、現地の需要とともに事業を育てるという手法は、木材専業の商社的な会社から、海外に自前の生産基盤を持つメーカーへと住友林業の性格を変えていく最初の一歩であったことがうかがえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

国内材の限界と外材依存を強めた時代

住友林業は、1948年の住友本社解体で分かれていた山林会社群が段階的に合流し、1955年2月に大阪市で発足した企業であった。1964年9月にはスミリン土地株式会社を設立して分譲住宅事業に進出し、木材建材と住宅を両輪とする事業構造の骨格を固めつつあった。1970年5月には大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場し、資本市場からの調達手段も得ていた。木材建材事業を柱とする同社にとって、原木を安定して調達できる供給源を自ら確保することが、事業拡大の前提となっていた[1]

なかでもカリマンタンは、開発の手がまだ及んでいない木材資源の宝庫とみられていた。樹齢100年に達する羽柿科のメランティー(現地でラワンと呼ばれる樹種)や、カポールと呼ばれる樹種の蓄積が豊富で、良質な原木をまとまった量で確保できる数少ない土地であった。住友林業がこの地に目を向けた背景には、こうした資源量の大きさがあった[2]

資源確保が本格化する前の先発性

1970年前後の日本企業は、木材輸入を通じて世界の森林資源への依存を年々強めていた。日本の原木輸入はのちに圧倒的にインドネシアへ集中していくことになるが、住友林業がカリマンタンへ進出したのは、資源確保の動きが本格化する前の早い段階であり、相前後して現地入りした三菱商事と並んで先見の明があったと、当時の経済誌は評した[3]

加えて、戦時中に日本軍の依頼でインドネシアの森林管理を担った経緯があり、これによる土地勘が現地進出の下地になったとみられる。現地の合弁パートナーであるカルティメクス・ジャヤ社との関係とあわせ、住友林業は他の外資企業に先んじて事業を軌道に乗せる条件を早くから整えていた[4]

決断

合弁会社クタイ・ティンバー・インドネシアの設立

1970年9月、住友林業は現地資本カルティメクス・ジャヤと合弁で、資本金20億7500万ルピア・出資比率65対35のPT. Kutai Timber Indonesia(クタイ・ティンバー・インドネシア、通称クタイ)をジャカルタに設立した。原木の安定調達を目的とする現地法人で、本社をジャカルタに置き、カリマンタン中部のスプル地区に山林事業所、東部ジャワのプロボリンゴに合板工場を構える体制を採った。同じ1970年9月には、国内でも浜田産業株式会社(現・住友林業クレスト)の発行済株式の過半数を取得し、国内合板事業の基盤も同時に強化した[5][6]

クタイの社長には、カリマンタン中部のクタイ王国の王族の血を引くルスタム・エフェンディ氏が就いた。「日本のビジネスからいいところ、欧米からもその良さを」と経営技術の導入に意欲的な人物とされ、住友林業から派遣された沼田副社長とともに、合弁会社の経営を早期に軌道へ乗せる原動力になったとされる[7]

政府の要求に応じた合板工場建設と、内需ゼロからの船出

インドネシア政府は、原木輸出だけでなく国内での木材加工を通じた付加価値向上を求めており、原木調達を目的に設立した合弁会社であっても、政府との約束を守るため合板工場の建設が必要になった。しかし、東部ジャワのプロボリンゴに工場建設を検討していた当時、インドネシア国内の合板需要はほとんどなく、国有企業が茶箱用に合板を細々と生産している程度だった。それでも住友林業は、林区許可権料や地域開発協力費などの負担を受け入れながら計画を進め、1974年12月にプロボリンゴ工場で合板の製造・販売を開始した[8][9]

輸出先の開拓も容易ではなかった。米国市場は台湾・韓国の先発組が激しく競り合っており割り込む余地がなく、欧州市場は進出条件が厳しく当初から商機になりにくかった。残る日本市場も、合板業界の多くがすでに住友林業の得意先であるうえ、20%(単板は15%)という高い関税率がコストダウンの壁として立ちはだかり、輸出先探しは八方ふさがりの状況に見えた[10]

結果

華僑資本の追随による内需転換と現地経営の定着

八方ふさがりに見えたところに動いたのは、住友林業の合板工場建設計画を知った現地の華僑資本であった。国内投資法に基づいて素早く合板工場を建設し、インドネシア国内での需要開拓に着手した。これに追随する形で住友林業も内需重視へ方針を転換し、1976年3月期には、クタイの合板製品の100%が国内向けとなった。同期のクタイの売り上げは40億ルピアを超え、森林開発部門・合板生産部門の両輪で採算に乗る体制が整った[11][12]

現地では資源の持続的な利用にも取り組んでいた。合板原料となるメランティーの自然発生状況を調べて苗木を移植する研究や、日本の松を移植して生育を確かめる試みを進め、林業を専攻するインドネシアの大学生からも就職を希望される企業になっていた。もっとも、伐採を許可された林区は数年内に半分を切り尽くす見通しで、次の林区確保やインドネシアの資源政策の変化という不確実性も、現地経営者の悩みとして記事には記されていた[13]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1976年7月5日号「ヒルに食われながら、森林に道開く」
  • 住友林業 有価証券報告書【沿革】