住友林業 の歴史

更新: Author:

創業 1948年
母体 住友本社山林部解体
創業地 大阪市
創業
住友林業の山林は、1691年に開坑した別子銅山へ坑木と精錬用の薪炭を供給するために植え継がれた。1894年に住友本店林業所が置かれ、所長の伊庭貞剛氏が銅山の煙害で荒れた別子山地への植林を組織的に進めている。1917年ごろからは九州・北海道・朝鮮へも林野を広げ、戦前の総経営面積は14万町歩に及んだ。1948年2月、持株会社整理委員会の指定で住友本社が解体され、山林経営は四国林業・九州農林・北海農林・扶桑林業・兵庫林業・東海農林の6社へ分けられる。同年12月の扶桑農林、1951年2月の東邦農林と中間統合を重ね、1955年2月に四国林業と東邦農林が合併して住友林業株式会社が大阪市で発足した。経営山林は4万1,000町歩余、年間木材取扱高は約100万石だった。
決断
山を持つ会社が、木を売る先を自社の内側に作り続けてきた。1956年10月に外材輸入へ参入し、1961年3月の建材課設置で建築資材の取り扱いを始める。1964年3月にスミリン合板工業を設立して製造へ進み、同年9月にはスミリン土地で分譲住宅、1975年10月にスミリン住宅販売で注文住宅へ広げた。海外でも1970年9月にインドネシアで合板の現地生産に着手し、1984年10月にニュージーランドでMDF、1990年6月にインドネシアでパーティクルボードの製造を始めている。1991年4月には住友林業ホームテックでリフォームへ、2003年8月にはサン・ステップの取得で賃貸・仲介へ入り、川上の山林から川下の住宅管理までが一社に並んだ。
現況
売上の6割強は国内ではなく、米国と豪州で建てた戸建住宅から来ている。2025年12月期の連結売上高は2兆2,676億円、営業利益1,687億円、当期純利益1,067億円で、地域別では米国1兆416億円・豪州3,501億円に対し日本は8,309億円にとどまる。セグメントでは海外を含む建築・不動産事業が売上1兆4,098億円・利益1,197億円と全体の利益の7割を占め、住宅事業は5,846億円に対し413億円、木材建材事業は2,320億円に対し128億円である。出自にあたる資源環境事業は248億円の売上に対し13億円の損失で、グループの保有森林は国内約4.8万ヘクタール、海外を含めて約28万ヘクタールに及ぶ。
競合
同じ住宅大手でも、住友林業だけが戸数ではなく1棟の単価で競ってきた。積水ハウスと大和ハウス工業が鉄骨系プレハブで年5万〜6万戸を狙ったのに対し、1975年に木造軸組工法で参入した住友林業の供給は1991年3月期で8,100戸にとどまる。一方で『住友林業の家』の売れ筋は坪57万〜58万円と、坪50万円前後のプレハブ住宅より高く、1棟あたりの全国平均価格は約2,800万円に達した。国内の持ち家着工が1973年度の75万戸台から2003年度に半減すると、伸びしろは海外へ移る。2024年11月には豪州最大級のMetriconを子会社化し、大和ハウス工業が米IESを4,600億円で買収してデータセンター建設へ向かったのに対して住友林業が取得したのは戸建を建てる会社ばかりで、成長の速度は国内の棟数ではなく買収の件数で決まった。
住友林業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1996年3月期2025年12月期

設立ストーリー 財閥解体6社からの再統合と住宅二本柱化 (1948年〜)

7年で住友林業へ再結集した「分離→段階合流」の系譜

住友林業の山林経営は、住友家が開坑した別子銅山(愛媛県)へ、坑木と精錬用薪炭を自給する事業として始まった[1]。本格的な林業へ乗り出したのは明治維新以後で、経営面積を約2万町歩へ広げ[2]、近代的な林業技術による大規模な人工造林に着手した。1894年には住友本店林業所が設置され、当時の林業所長だった伊庭貞剛氏が、銅山の煙害で荒地化した別子山地への植林を組織的に進めた。1917年ごろからは九州・北海道・朝鮮でも林野の買収と直営を進め、住友合資の設立と同時に林業所を置いて造林計画を立て、経営面積は12万町歩余に達した[3]。委託経営を含めた戦前の総経営面積は14万町歩に及び[4]、太平洋戦争中はジャワ・スマトラ・ボルネオへも進出したが、終戦で朝鮮と南方の事業を失った[5]

    • [1]別子銅山の開坑と同時に精錬用薪炭・坑木の自給を図ったのが林業の起こり
    • [2]明治維新以後に経営面積を約2万町歩へ拡張、近代的林業技術で大規模な人工造林に着手
    • [3]1917年ごろからの九州・北海道・朝鮮での林野買収、住友合資への林業所設置、経営面積12万町歩余
    • [4]委託経営を含む戦前の総経営面積 14万町歩
    • [5]太平洋戦争中のジャワ・スマトラ・ボルネオ進出と、終戦による朝鮮・南方事業の喪失

1948年2月、持株会社整理委員会の指定で住友本社が解体され[6]、同社が保有していた山林経営は四国林業・九州農林・北海農林・扶桑林業・兵庫林業・東海農林[7]の地域別6社に分離された。企業再建整備法に基づいて住友本社の林業部門を継承した6社[8]は、それぞれが所有山林の経営を始めている。同年12月には扶桑林業・兵庫林業・東海農林の3社が合併して扶桑農林が設立され[9]、分離からわずか10か月で最初の再結集が始まった。1951年2月には扶桑農林・九州農林・北海農林の3社が合併して東邦農林となり[10]、本州・九州・北海道の山林経営が一法人にまとまった。東邦農林の資本金は1,350万円[11]で、のちに6,000万円へ積み増している。

  • 住友林業 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1948年2月 持株会社整理委員会の指定で住友本社が解体、山林経営を地域別6社へ分割
    • [7]分割6社=四国林業・九州農林・北海農林・扶桑林業・兵庫林業・東海農林
    • [9]1948年12月 扶桑林業・兵庫林業・東海農林の3社合併で扶桑農林を設立
    • [10]1951年2月 扶桑農林・九州農林・北海農林の3社合併で東邦農林を設立
    • [8]企業再建整備法に基づき住友本社の林業部門を継承した6社が、それぞれ所有山林の経営を開始
    • [11]東邦農林の資本金 1,350万円(増資後6,000万円)

1955年2月、四国林業と東邦農林が合併し、住友林業株式会社が大阪市本店で発足した[12]。合併時の資本金は2億1,000万円[13]で、四国林業は増資後の1億5,000万円を持ち寄っている。財閥解体による分離から7年、地域単位の中間統合を2度経由して6社が1社へ戻った[14]。新会社は山林経営と国内材の集荷販売を主たる事業として始動し、経営山林面積は北海道1万4,000町歩・四国1万9,000町歩・九州8,000町歩の計4万1,000町歩余、その蓄積は1,100万石に達した[15]。戦後は木材商事部門にも進出し、大阪・四国・九州・東海・北海道の5支店に営業所・出張所を加えたほぼ全国の集荷販売機構[16]を持ち、年間木材取扱高は約100万石、総売上高は約20億円となった[17]

  • 住友林業 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1955年2月 四国林業と東邦農林が合併し住友林業株式会社が大阪市本店で発足
    • [14]1948年2月の6社分離から1955年2月の1社統合まで7年、中間統合は扶桑農林(1948年12月)・東邦農林(1951年2月)の2回
    • [13]合併時の資本金 2億1,000万円(四国林業は増資後資本金1億5,000万円)
    • [15]1955年時点の経営山林面積 北海道1万4,000町歩・四国1万9,000町歩・九州8,000町歩の計4万1,000町歩余、蓄積1,100万石
    • [16]1955年時点で大阪・四国・九州・東海・北海道の5支店を軸とする集荷販売機構、年間木材取扱高約100万石・総売上高約20億円
    • [17]1955年時点の年間木材取扱高 約100万石・総売上高 約20億円
    • [1]別子銅山の開坑と同時に精錬用薪炭・坑木の自給を図ったのが林業の起こり
    • [2]明治維新以後に経営面積を約2万町歩へ拡張、近代的林業技術で大規模な人工造林に着手
    • [3]1917年ごろからの九州・北海道・朝鮮での林野買収、住友合資への林業所設置、経営面積12万町歩余
    • [4]委託経営を含む戦前の総経営面積 14万町歩
    • [5]太平洋戦争中のジャワ・スマトラ・ボルネオ進出と、終戦による朝鮮・南方事業の喪失
    • [8]企業再建整備法に基づき住友本社の林業部門を継承した6社が、それぞれ所有山林の経営を開始
    • [11]東邦農林の資本金 1,350万円(増資後6,000万円)
    • [13]合併時の資本金 2億1,000万円(四国林業は増資後資本金1億5,000万円)
    • [15]1955年時点の経営山林面積 北海道1万4,000町歩・四国1万9,000町歩・九州8,000町歩の計4万1,000町歩余、蓄積1,100万石
    • [16]1955年時点で大阪・四国・九州・東海・北海道の5支店を軸とする集荷販売機構、年間木材取扱高約100万石・総売上高約20億円
    • [17]1955年時点の年間木材取扱高 約100万石・総売上高 約20億円
  • 住友林業 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1948年2月 持株会社整理委員会の指定で住友本社が解体、山林経営を地域別6社へ分割
    • [7]分割6社=四国林業・九州農林・北海農林・扶桑林業・兵庫林業・東海農林
    • [9]1948年12月 扶桑林業・兵庫林業・東海農林の3社合併で扶桑農林を設立
    • [10]1951年2月 扶桑農林・九州農林・北海農林の3社合併で東邦農林を設立
    • [12]1955年2月 四国林業と東邦農林が合併し住友林業株式会社が大阪市本店で発足
    • [14]1948年2月の6社分離から1955年2月の1社統合まで7年、中間統合は扶桑農林(1948年12月)・東邦農林(1951年2月)の2回

山林会社から「木材建材+住宅事業」二本柱への転換

再統合直後の住友林業は山林経営と国内材の仕入販売で出発したが、1956年10月には外材輸入業務に着手し[18]、アメリカ・フィリピン・インドネシアからの調達を始めた[19]。合板・加工合板・窯業建材・プラスチック建材・金属建材といった新しい建築資材が出回りはじめたのを受けて1961年3月に建材課を設け[20]、1962年2月には建材の取り扱いを開始した[21]。1964年3月にはスミリン合板工業株式会社を設立して住宅資材の製造事業に着手し[22]、仕入れて売る商社機能に、自ら作る製造機能を重ねた。建材部門はのちに、石膏ボード・アルミサッシ・流し台・洗面台・浴槽まで、住宅に使う建築資材のすべてを対象とする部門へ広がった[23]

  • 住友林業 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1956年10月 外材輸入業務に着手
    • [21]1962年2月 建材の取り扱いを開始
    • [22]1964年3月 スミリン合板工業株式会社を設立し住宅資材製造事業に着手
    • [19]外材輸入の調達先はアメリカ・フィリピン・インドネシア
    • [20]1961年3月 新建材の登場を受けて建材課を新設
    • [23]建材部門の取扱品目は石膏ボード・アルミサッシ・流し台・洗面台・浴槽など住宅用建築資材のすべて(1990年時点)

同じ1964年9月、住友林業はスミリン土地株式会社(現在の住友林業ホームサービス)を設立して分譲住宅事業に進出し[24]、木材建材と並ぶもう一本の柱をここで立てた。新設住宅着工戸数は1960年の42万戸から1972年の186万戸まで4倍以上に拡大しており、自社が扱う木材・建材の出口を住宅として内部に確保する狙いがあった。1970年5月には大阪証券取引所市場第二部に株式を上場し[25]、1972年2月には大証1部へ指定替えとなった[26]。1990年11月30日には東京証券取引所市場第一部へ上場[27][28]している。

  • 住友林業 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1956年10月 外材輸入業務に着手
    • [21]1962年2月 建材の取り扱いを開始
    • [22]1964年3月 スミリン合板工業株式会社を設立し住宅資材製造事業に着手
    • [24]1964年9月 スミリン土地株式会社(現:住友林業ホームサービス)を設立し分譲住宅事業に進出
    • [25]1970年5月 大阪証券取引所市場第二部に上場
    • [26]1972年2月 大証1部へ指定替え
    • [27]1990年11月 東京証券取引所市場第一部へ上場
    • [19]外材輸入の調達先はアメリカ・フィリピン・インドネシア
    • [20]1961年3月 新建材の登場を受けて建材課を新設
    • [23]建材部門の取扱品目は石膏ボード・アルミサッシ・流し台・洗面台・浴槽など住宅用建築資材のすべて(1990年時点)
    • [28]東証1部への上場日は1990年11月30日

量の拡大が止まる時代に注文住宅の単価で稼ぐ選択

1970年9月、住友林業は木材資源を開拓するため[29]、現地資本カルティメクス・ジャヤと合弁でインドネシアにPT. Kutai Timber Indonesia(出資比率65%)[30]を設立し、合板製造事業の準備に入った。戦時中に日本軍の依頼でインドネシアの森林管理にあたった経緯から土地勘があり[31]、日本全体が資源確保に走る少し前の進出となった。同社は1974年12月に合板の製造・販売を開始し[32]、当初ほぼ無かった現地需要も、現地華僑資本の合板工場建設に追随して内需重視へ転換したことで、1976年3月期には製品の100%が内需向けとなった[33]。同期の売上高は森林開発14億ルピア・合板生産26億ルピアの計40億ルピアを超えている[34]。同じ1970年9月には浜田産業株式会社(現・住友林業クレスト)の発行済株式の過半数を取得し[35]、1975年8月には大阪殖林株式会社の全株式を取得した[36]

  • 住友林業 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1970年9月 インドネシアでPT. Kutai Timber Indonesiaを設立
    • [32]1974年12月 PT. Kutai Timber Indonesiaが合板の製造・販売を開始
    • [35]1970年9月 浜田産業株式会社(現:住友林業クレスト)の発行済株式の過半数を取得
    • [36]1975年8月 大阪殖林株式会社の全株式を取得
  • 日経ビジネス(1976年7月5日号 165号 p84-86)
    • [30]現地合弁相手カルティメクス・ジャヤとの出資比率(住友林業65%)
    • [31]戦時中の日本軍依頼によるインドネシア森林管理の経緯が進出の先発性に寄与した点
    • [33]当初ほぼ無かった現地需要が現地華僑資本の内需開拓に追随した転換で1976年3月期に製品の100%が内需向けとなった
    • [34]1976年3月期のPT. Kutai Timber Indonesiaの売上高 森林開発14億ルピア・合板生産26億ルピアの計40億ルピア超

1975年10月にはスミリン住宅販売株式会社を東京と大阪の2拠点に設立し[37]、注文住宅事業を開始した。{q1}という信念に基づく船出[38]だったが、第一次石油危機の直後にあたり、立ち上がりには苦労が伴った[39]。住宅業界では積水ハウス(1960年設立)・大和ハウス工業(1955年設立)が鉄骨系プレハブで先行しており、住友林業は自社グループの山林・製材・建材を背後に置いた木造軸組工法で参入した[40]。年間の供給棟数が2,000棟に達したのは1980年代半ば[41]である。

  • 住友林業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1975年10月 スミリン住宅販売株式会社を東京・大阪の2拠点に設立し注文住宅事業を開始
  • 日経ビジネス 1992年10月19日号
    • [38]住友林業専務住宅本部長の山口博人氏による発言(1975年の注文住宅参入の動機)
    • [39]注文住宅参入が第1次石油ショック直後にあたり立ち上がりに苦労した点
    • [41]年間供給棟数 2,000棟到達は1980年代半ば
    • [40]木造軸組工法(木造在来工法)による戸建て注文住宅を主力とした点

新設住宅着工戸数は1973年の191万戸をピークに、1979年に149万戸、1983年に113万戸へ下がった。量の拡大が止まるなかで住友林業が採ったのは、戸数で競わずに1棟あたりの単価で稼ぐ道[42]だった。積水ハウス・大和ハウス工業が各5万〜6万戸を狙うのに対し、住友林業の供給戸数は1991年3月期で8,100戸[43]にとどまる。一方で『住友林業の家』の売れ筋は坪57万〜58万円と、坪50万円前後が売れ筋のプレハブ住宅より高い価格帯にあり[44]、1棟当たりの全国平均価格は約2,800万円に達した[45]。1992年3月期の住宅部門は約7,700棟・約2,300億円を売り上げ[46]、その6割を建て替え需要が占めている。1990年3月期の売上構成は木材29%・建材34%・住宅37%[47]で、3部門がほぼ三分する形になった。

    • [42]戸数で競わず木造軸組工法の注文住宅を主力とする方針(大西和男社長)
    • [43]積水ハウス・大和ハウス工業は各5万〜6万戸を志向、住友林業の1991年3月期供給戸数は8,100戸
    • [47]1990年3月期の売上構成 木材29%・建材34%・住宅37%
  • 日経ビジネス 1992年10月19日号
    • [44]「住友林業の家」の売れ筋価格は坪57万〜58万円、プレハブ住宅の売れ筋は坪50万円前後
    • [45]1棟当たりの全国平均価格 約2,800万円(1991年度実績)
    • [46]1992年3月期の住宅部門 約7,700棟・約2,300億円、建て替え需要が売上の6割
  • 住友林業 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1970年9月 インドネシアでPT. Kutai Timber Indonesiaを設立
    • [32]1974年12月 PT. Kutai Timber Indonesiaが合板の製造・販売を開始
    • [35]1970年9月 浜田産業株式会社(現:住友林業クレスト)の発行済株式の過半数を取得
    • [36]1975年8月 大阪殖林株式会社の全株式を取得
    • [37]1975年10月 スミリン住宅販売株式会社を東京・大阪の2拠点に設立し注文住宅事業を開始
  • 日経ビジネス(1976年7月5日号 165号 p84-86)
    • [30]現地合弁相手カルティメクス・ジャヤとの出資比率(住友林業65%)
    • [31]戦時中の日本軍依頼によるインドネシア森林管理の経緯が進出の先発性に寄与した点
    • [33]当初ほぼ無かった現地需要が現地華僑資本の内需開拓に追随した転換で1976年3月期に製品の100%が内需向けとなった
    • [34]1976年3月期のPT. Kutai Timber Indonesiaの売上高 森林開発14億ルピア・合板生産26億ルピアの計40億ルピア超
  • 日経ビジネス 1992年10月19日号
    • [38]住友林業専務住宅本部長の山口博人氏による発言(1975年の注文住宅参入の動機)
    • [39]注文住宅参入が第1次石油ショック直後にあたり立ち上がりに苦労した点
    • [41]年間供給棟数 2,000棟到達は1980年代半ば
    • [44]「住友林業の家」の売れ筋価格は坪57万〜58万円、プレハブ住宅の売れ筋は坪50万円前後
    • [45]1棟当たりの全国平均価格 約2,800万円(1991年度実績)
    • [46]1992年3月期の住宅部門 約7,700棟・約2,300億円、建て替え需要が売上の6割
    • [40]木造軸組工法(木造在来工法)による戸建て注文住宅を主力とした点
    • [42]戸数で競わず木造軸組工法の注文住宅を主力とする方針(大西和男社長)
    • [43]積水ハウス・大和ハウス工業は各5万〜6万戸を志向、住友林業の1991年3月期供給戸数は8,100戸
    • [47]1990年3月期の売上構成 木材29%・建材34%・住宅37%

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

住友林業の沿革1948〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1948〜1980年財閥解体6社からの再統合と住宅二本柱化林業所を分割
四国林業・九州農林・北海農林など新会社6社を設立
扶桑林業・兵庫林業・東海農林の3社を合併し扶桑農林を設立
扶桑農林・九州農林・北海農林の3社を合併し東邦農林を設立
四国林業と東邦農林が合併し住友林業が発足(本店:大阪市)
外材の輸入業務に着手★★
建材の取り扱いを開始
スミリン合板工業を設立し住宅資材製造事業を開始
スミリン土地を設立
分譲住宅事業に参入★★
大阪証券取引所市場第二部に株式を上場
インドネシアでの合板現地生産——クタイ・ティンバー・インドネシア(KTI)設立

1970年9月、住友林業がインドネシアの現地資本カルティメクス・ジャヤと合弁でPT. Kutai Timber Indonesia(クタイ・ティンバー・インドネシア)を設立し、1974年12月に合板の製造・販売を現地で開始した経営判断。住友林業にとって最初の海外製造拠点であり、輸入材への依存から自社資源保有への転換点となった。

詳細を読む
★★★
PT. Kutai Timber Indonesiaを設立
スミリン住宅販売を東京と大阪に設立し注文住宅事業を開始★★
スミリン緑化を設立し造園・緑化事業を開始
スミリン住宅販売2社を住友林業ホーム(東京)・住友林業住宅(大阪)に商号変更
1981〜2009年海外林業3拠点と住宅ストック市場への基盤拡張住友林業ホームと住友林業住宅が合併
ニュージーランドにNelson Pine Industries Ltd.を設立
住友林業ホーム・大阪殖林を吸収合併
スミリンメンテナンスを設立
PT. Rimba Partikel Indonesiaを設立
東京証券取引所市場第一部に株式を上場
スミリンメンテナンスを住友林業ホームテックに商号変更
リフォーム事業に本格参入
イノスグループ事業開始
矢野龍サン・ステップの持分を取得し子会社化
矢野龍本社を移転
矢野龍安宅建材を吸収合併
矢野龍Henleyグループの持分を取得し持分法適用関連会社化
2010〜2025年米豪住宅M&A連鎖と森林・脱炭素事業の併走市川晃Bloomfield Homesグループの持分を取得し持分法適用関連会社化
市川晃紋別バイオマス発電を設立し子会社化
市川晃Gehan Homesグループの持分を取得し子会社化★★
市川晃熊谷組の持分を取得し持分法適用関連会社化★★
市川晃Crescent Communitiesグループの持分を取得し子会社化
光吉敏郎プライム市場へ移行
光吉敏郎JPIグループの持分を取得し子会社化
光吉敏郎Metriconグループの持分を取得し子会社化★★
光吉敏郎Brightland HomesグループをDRBグループへ再編
出典・参考

免責事項およびポリシー