輸出から現地生産へ——米国ウィスコンシンでの醤油工場建設
1973年実施輸出で稼ぎ続けるか、資本を投じて海外に工場を建てるか——食品メーカー初の本格的な海外直接投資
- 概要
- 1972〜73年、キッコーマン醤油が米国ウィスコンシン州ウォルワースに醤油工場を建設し、日本からの完成品輸出から現地生産へ移った経営判断。1957年以来の販売で米国の食卓に育てた需要を土台に、会社の資本金を上回る額を投じ、日本の食品メーカーとして本格的な海外生産に踏み切った。工場は1973年6月に稼働した。
- 背景
- 北米への醤油輸出は明治期の日系移民向けに始まり、戦後はテリヤキなど肉料理への食提案で一般家庭へ広がった。1968年には米国向け輸出醤油の九割を占めていた。だが供給は日本からの完成品輸出に頼り、海上運賃の上昇と円高が採算を圧迫していた。
- 内容
- 1971年の役員会で現地製造を正式な議題とし、蔵付きの菌がなければ味を再現できないという不安を技術陣が退けた。1972年3月に現地法人KIKKOMAN FOODS, INC.を設立し、農業地帯のウォルワース郡に200エーカーの土地を取得。建設に反対する地元は茂木友三郎が戸別に訪ねて説得した。
- 含意
- 発酵食品を海外で量産した経験そのものが、後発メーカーの追随を阻む壁となった。北米事業は海外の柱へ育ち、ウォルワースは世界最大の醤油工場となった。今日、キッコーマンの海外事業は売上高の七割、事業利益の八割以上を占める。
輸出の先に工場を建てるという選択
この判断の核心は、輸出で稼ぎ続ける安全な道を選ばず、資本金を上回る資金を海の向こうの工場に投じた点にある。醤油は蔵付きの微生物が味を左右する発酵食品であり、その品質を異国で再現できるかは、実際に造ってみるまで誰にも保証できなかった。キッコーマン醤油は、1957年からの販売で米国の食卓に需要を育て、その手応えを頼りに、確実な輸出益より不確実な現地生産の将来を採った。成功した事業のただ中で、あえて次の投資へ資金を回した判断だった。
現地生産は、輸送費や為替の変動を抑えるだけの選択ではなかった。工場を地域に根づかせ、「アメリカのキッコーマン」として振る舞ったことが、後発が容易に踏み込めない参入の壁を築いた。発酵という時間のかかる技術と、地元との信頼をあわせて現地へ移した点に、単なる輸出の延長を超える意味がある。今日の海外売上七割という数字は、半世紀前にウィスコンシンの農地で味の再現と地元の説得に費やした年月の上に積み上がっている。輸出の先に工場を建てるこの選択は、日本の食品産業の海外展開に一つの型を残した。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
輸出で広げた米国の食卓
米国での醤油販売は明治期の日系移民向けに始まり、第二次大戦後は進駐軍を通じて一般家庭へ広がった。キッコーマン醤油は1957年に販売会社をサンフランシスコに設け、照り焼きなど肉料理への食提案で、醤油を日本料理専用ではなく万能の調味料として売り込んだ。その甲斐あって、1968年には米国向け輸出醤油の九割を同社が占めるに至る。売上の八割超をなお醤油が担うなか、会社は「世界のキッコーマン醤油」を掲げ、輸出体制の強化を経営の方針に据えた[1]。
完成品輸出の制約
もっとも、輸出には構造的な弱点があった。製品は日本の工場から船で運ばれ、海上運賃は年々上がっていた。円が変動相場へ移る前後の為替の振れも、ドル建ての採算を揺らした。販売量が増えるほど、完成品を海で運ぶ負担は重くなる。現地でつくれば製品と原料の双方で運賃を節減できる——1972年、海外事業を担う茂木友三郎は、この計算を社内の議論の中心に据えた[2]。
決断
「アメリカへ工場を作ろう」という決定
検討そのものは1960年代半ばから続き、販売量が小さく投資を回収できないとみて一度は見送られていた。転機は需要の伸びだった。1971年、役員会は米国での醤油の現地製造を正式な議題に載せた。醤油の需要が、最小の経済単位の工場を賄える量に近づいていたためである。運賃と国内人件費の上昇もこれに重なり、会社は「アメリカへ工場を作ろう」との結論に達した[3]。
決定に至る道は平坦ではなかった。醤油の蔵には固有の菌がすみつき、その微妙な味を異国で再現できるのかという不安が、役員のあいだに根強く残っていた。のちに会長となる茂木啓三郎社長は、自分が役員会で話を持ち出すと皆が黙り込んだと振り返っている。それでも、資本金を上回る額を投じるこの計画を、社長は「大丈夫だ、やるんだ」と押し切った[4]。
ウォルワースの農地と地元の説得
立地に選ばれたのは、シカゴにも近いウィスコンシン州南部、ウォルワース郡の農村だった。大豆と小麦を産する農業地帯である点が、原料の調達と地域の理解の両面で重んじられた。1972年3月、会社は現地法人KIKKOMAN FOODS, INC.を設立し、200エーカーの土地を取得する。将来の増設を見込んで、当座は広すぎるほどの敷地をあえて買った[5]。
工場の建設計画が伝わると、地元の農民は当初、外国企業の進出を強く拒み、反対の声が渦巻いた。会社は建設を押し通すのではなく、時間をかけて対話で理解を得る道をとった。現地を率いた茂木友三郎は、まるで選挙の候補者のように農家の集まりへ足を運び、個人の家を訪ねて握手を重ねた。工場を地域に溶け込ませることが、稼働の前提だと考えたためである[6]。
結果
稼働後の成長
工場は1973年6月に稼働し、醤油の現地生産が始まった。茂木啓三郎社長は落成の挨拶で、「この工場は、キッコーマンのアメリカ工場ではなく、アメリカのキッコーマン工場である[7]」と述べ、地域に根ざす意思を込めた。設備を思い切って近代化し、日本より進んだ実験も試みた末に、日本と同じ品質の醤油ができたとき、経営陣は胸をなでおろした。発酵食品の海外量産という難題を、会社は乗り越えた[8]。
販売は想定を上回る速さで伸びた。現地生産によって供給の時間と費用が縮まり、価格の面でも輸出品より優位に立った。出荷量はやがて製造初年度の三十倍に達し、ウォルワースは世界最大の醤油工場となる。発酵食品を海外で量産した経験そのものが、後発メーカーの容易な模倣を許さない壁となった。北米事業は海外の柱へ育ち、今日ではキッコーマンの海外事業が売上高の七割、事業利益の八割以上を占める[9]。
- 『企業の歴史:明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
- 日本醸造協会雑誌(1972年12月15日)「しょうゆの輸出について」(茂木友三郎)
- 日経ビジネス 1978年4月24日号「古くても本物なら飽きられません」
- 日本経済新聞(2006年7月17日)「米国工場建設、地元が猛反対」
- キッコーマン国際食文化研究センター「MADE IN USAのKIKKOMAN」(キッコーマングループ企業情報サイト)
- 激流オンライン(2023年7月)「海外戦略/キッコーマン/アメリカ工場完成50周年、広がるしょうゆの食文化」