米ディーア・伊フィアットとの日米欧3極体制

油圧ショベル専業の日立建機は、2大巨人にどう「2番手連合」で挑んだか

更新:

時期 1988年6月
意思決定者 岡田元一 社長
論点 海外展開と製品フルライン化
概要
油圧ショベルで世界首位に立つ日立建機が、1980年代後半に米ディーア・伊フィアットアリスと合弁と相互OEM供給で結び、日米欧3極体制を築いて米キャタピラー・小松製作所の総合建機2大巨人に挑んだ経営判断。
背景
日立製作所の一事業部門から出発した日立建機は、油圧ショベルが売上の約7割を占める専業メーカーであった。総合建機の2大巨人に品揃えで劣り、円高と貿易摩擦で輸出一辺倒の海外戦略も限界に達していた。
内容
得意分野が重ならない3社が、欧州でフィアットと、米国でディーアと合弁で現地生産し、製品を相互にOEM供給してフルライン化を図った。単独進出でなく現地企業のインサイダーとして受け入れられる道を選んだ。
含意
専業ゆえの弱点を単独海外進出でなく2番手連合で補った点に特徴がある。フルライン化という課題は「第2ラウンド」に残され、提携は永続でなく次の自力展開への段階的な足場という性格を帯びていた。
筆者の見解

提携は足場か、目的か

この経営判断の核心は、油圧ショベル専業という強みと弱みの表裏を、単独の海外進出でなく2番手連合で補った点にある。総合の2大巨人に品揃えで劣る日立建機は、得意分野の重ならない米欧のメーカーと組むことで、互いの強い地域と製品を持ち寄り、単独では届かなかった世界のフルライン化へ近づこうとした。円高と貿易摩擦のなかで、現地企業のインサイダーとして受け入れられる合弁の形を選んだのは、摩擦を避けつつ市場に食い込む現実的な設計だったとみることができる。

もっとも、3社の思惑がジグソーパズルのようにはまった提携も、永続を約束するものではなかった。フルライン化という課題は当時「第2ラウンド」に持ち越され、その後の日立建機は2001年に欧州フィアットとの提携を解消して自力展開へ転じ、2021年には北米のディア(ディーア)との合弁も解消していく。2番手連合は、次の自力の海外展開へ向けた段階的な足場という性格を帯びていた。提携を目的とみるか、力をつけるまでの足場とみるか——日立建機の3極体制は、その使い分けを問う事例といえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

専業メーカーの弱点と輸出一辺倒の限界

日立建機は、日立製作所の亀有工場が戦後の国産化要請に応えてパワーショベルを手がけたことに源流を持つ。1970年に製造と販売を統合して新生日立建機が発足したが、発足直後に2期連続の経常赤字を出し、自己資本比率が1.8%まで低下する危機に陥った。1974年に足立工場を閉鎖して土浦工場へ一貫生産を集約し、1981年に株式を上場して、油圧ショベルを主力に地位を固めた。もっとも同社は油圧ショベルが売上高の約7割を占める専業メーカーであり、ブルドーザーからダンプトラックまでを揃える米キャタピラー・小松製作所の総合2大巨人に対して、製品の品揃えが薄く販売網でも後手に回っていた[1]

海外戦略も、転機を迎えていた。かつて日立建機は油圧ショベルを輸出主体で売っており、1985年度上期には新車ベースで53%を輸出していた。だが円高の進行で相当部分を現地生産に切り替え、輸出比率は30%程度まで下がっていた。欧州でのダンピング問題や米国との貿易摩擦も大きく影響した。単独で現地に生産拠点を持てば現地と摩擦を引き起こしかねないため、現地企業との合弁でインサイダーとして受け入れてもらうことが、海外展開の最大の狙いとなった。国際戦略を主導した瀬口龍一常務は、この方針転換をそう説明した[2]

決断

得意分野の重ならない「2番手連合」

日立建機が選んだのは、米ディーアと伊フィアットアリスとの日米欧3極体制であった。ディーアは米国最大の農機メーカーで建機でもキャタピラーに次ぐ2番手、フィアットアリスはフィアットグループに属する欧州最大の建機メーカーで、いずれも2大巨人を追う立場にあった。3社の得意分野は、日立が油圧ショベル、ディーアが小型ブルドーザーとバックホーローダー、フィアットが大型ブルドーザーと、ほとんど重なっていなかった。1985年にボルボ系のVMEを含めた3者会談を試みたが、米国市場でVMEとディーアのビジネスがぶつかってまとまらず、翌1986年から仕切り直してディーア・フィアットとの現在の組み合わせに至った[3]

提携は、合弁での現地生産と相互OEM供給という形をとった。1986年12月にフィアットとの合弁フィアット日立エクスカベーターズ(本社トリノ、出資比率フィアット51%・日立49%)を設立し、EXシリーズの中小型機種を欧州で生産した。1988年6月には米国にディーアとの折半出資でディーア・日立建設機械(本社ノースカロライナ州)を設立し、油圧ショベルの現地生産へ動いた。ホイールローダーではディーアとの共同開発により1987年7月にLXシリーズ6機種で新規参入し、ディーアが中型機、日立が小型機を生産して相互にOEM供給した。中村穆海外本部副本部長は「お互いに強い地域が重なっていないから、1+1がちゃんと2になる」と述べた[4]

結果

業績回復と「孝行息子」への昇格

国内販売と国際戦略の両輪がそろい、日立建機の業績は急回復した。1987年半ばからの内需景気で公共投資を中心に土木工事が急増し、前年10月に投入した油圧ショベルの新製品EXシリーズが大ヒットした。国内販売台数は1985年度の6170台から1988年度には1万2845台へ倍増し、シェアは24.1%から27.9%へ上がった。1989年3月期決算は売上高が24%増の2150億円、経常利益が90%増の160億円で史上最高となり、2年前に比べて経常利益は6倍近くに跳ね上がった。同年9月には東証1部への昇格が予定された[5]

この回復は、日立グループ内での日立建機の位置づけをも変えた。岡田元一社長は「日立グループの中でやっと人並みになった」と胸を張った。従来は日立電線・日立金属・日立化成工業の3社が孝行息子と称されてきたが、そこへ仲間入りする格好であった。グループ関係者は「小松製作所に押され、守りだったのが攻めに転じた。劣等生が優等生に大変身した」と表現した。1981年12月の2部上場から東証1部昇格まで、財務担当の下恒信常務は「苦節8年、ようやく宿願がかなう」と語った[6]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1989年4月10日号「日立建機 弱点補い合い、世界でフルライン化」(日経BP社)
  • 日立建機 日立建機50年史ほか社史