グローバル経営
海外拠点の設置と、海外を含めた一体の経営とは別の課題である。日本企業は海外拠点の設置を早くから進め、一体の経営には三十年ほど遅れて着手した。遅れの理由は、人事と意思決定と業績評価の仕組みにあった。
幹部は本社が新卒で採用し、長期雇用のなかで異動を重ねて育成した。拠点の責任者は日本から派遣する駐在員で、任期が終われば本社に戻った。現地採用の人材が本社の意思決定に加わる経路は、制度としてどこにも用意されていなかった。意思決定の手順も、関係者の合意を先に固めてから会議にかける方式であった。根回しと調整を前提にした手順は、日本語と対面から離れられない。さらに、海外子会社の成績は円換算で本社へ報告された。為替が動けば現地の努力と無関係に数字が上下し、拠点ごとの採算を評価しにくい。株式を取引先と相互に保有し合う資本構成の下では、拠点に投じた資本がどれだけ利益を生んだかを外から問う株主もいなかった。
そのため1970年代の海外展開は、本社の生産計画に販路を接続する販売子会社網の建設にとどまった。マキタはマキタUSAを設立し、クボタはトラクタで北米へ進出したが、価格決定も生産計画も本社が掌握していた。1980年代半ばには、対米進出した企業の苦戦が表面化した。拠点は建設したものの、運営する仕組みが伴っていなかった。
転換が始まったのは、海外事業が本社と拮抗する規模に達した1980年代である。TDKはニューヨーク上場を機に部品メーカーへ転じ、住友ゴム工業は英ダンロップ事業を取得し、富士通は英ICLを傘下に収めて日米欧の3地域から供給する体制へ移行した。1980年代末には、本社機能を地域ごとに分ける構想が現れた。ただし、統治の仕組みの整備は構想より後になった。東京エレクトロンは海外販売を直販へ転換し、シスメックスは家次恒氏の下で直販の体制を世界へ広げた。
2010年代には、経営者を外部から招聘する例が出た。LIXILは藤森義明氏をCEOに招聘した。本社機能を地域へ分ける構想が語られてから、外部から招いた経営者が指揮を執るまでに二十年以上を要した。つまり、権限の移譲は組織設計として提案され、実際に動いたのは人事を通じてであった。
財務諸表のどこを見るか
地域別セグメントの営業利益率を並べ、地域間の差を測る。拠点を開設しただけの段階では海外の利益率が国内を大きく下回り、経営が統合されるにつれて差が縮まる。連結子会社数と持分法適用会社数の推移は、提携で回していた海外事業をいつ連結へ取り込んだかを示す。「役員の状況」と従業員数の内訳では、外国籍の役員と海外従業員の比率を確かめたい。連結貸借対照表の為替換算調整勘定は在外子会社の純資産の大きさを映すため、その他の包括利益と併せて読む。