信越化学工業森俊三氏への社長職の移譲と、シンテック社長を経た斉藤恭彦氏への二段階の承継
後継者は育てられないと言い切った経営者が、なぜ試す場所を本社ではなく米国子会社に置いたのか
- 概要
- 1990年から20年にわたり社長を務めた金川千尋氏が、2010年6月に社長職を森俊三氏へ譲って会長となり、その半年後には自らが1978年から握っていた米国子会社シンテックの社長職を斉藤恭彦氏へ渡し、2016年6月に斉藤氏を本社の社長に据えた二段階の承継。
- 背景
- 金川氏は後継者は育てられず、自分にできるのはOJTだけだとして、指名委員会で社長を選ぶ方式にも反対していた。2010年の時点で84歳、前年には約2カ月の入院を経ており、塩化ビニール樹脂と半導体シリコンウエハで世界首位に立った高収益が一人の判断に依存する構図が、社外から懸念されていた。
- 内容
- 本社の社長職は国内畑を歩んだ森俊三氏へ渡す一方、後継候補を試す場所は米国に置いた。斉藤氏は20代でシンテックへ出向して30年以上を現地で過ごし、2011年1月にその社長となって五年半を経てから本社の社長に就いた。金川氏自身が本社社長になる前に12年務めた道筋を、そのままなぞる形であった。
- 含意
- 教育ではなく持ち場での選別に賭けた承継の設計。ただし金川氏は96歳で亡くなるまで会長にとどまり、承継の期間は13年に及んだ。斉藤氏は社長就任後もシンテック社長を兼ね続けており、次の後継者を試す席は空いていない。
席を空けるという試し方
金川千尋氏が後継者に与えたのは教えではなく、席であった。1978年3月から握り続けたシンテックの社長職を2011年1月に空け、そこへ斉藤恭彦氏を座らせている。本社の社長を森俊三氏に渡した半年後という順序が、どちらを本命の持ち場とみていたかを示している。後継者は育てられない、自分にできるのはOJTだけだと語った人が選んだ試験は、自らが12年かけて通った同じ道を、候補にもう一度歩かせることであった。
ただ、この型は繰り返しにくい。斉藤氏は社長就任から十年を経てなおシンテックの社長を兼ねており、次の後継者を試す席は空いていない。金川氏の側も90歳で会長にとどまり96歳で亡くなるまで席を保ったため、承継の期間は13年に及び、その間ポスト金川リスクという言葉は消えなかった。自分が通った道を後継者に歩ませる承継は、その経営者が長く在り続けられることを前提にしているとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
「育てられない」という後継者観
社長に就いて18年目にあたる2008年、金川千尋氏は次の世代への引き継ぎについて質問を受けた。氏は、明日やるかもしれないし必要があればいつでもやると答えたうえで、激しい競争のなかでやっていける人材がいるのかどうかと続けた。人間として信頼していることと、事業を信頼して任せることは別問題であるとも述べている。交代の時期ではなく、任せられる人物が見当たるかどうかに関心は置かれていた[1]。
後継者を育てられるかという問いに、金川氏の答えは否定であった。能力は努力の部分もあるがある程度は持って生まれたものであり、それを教育しろと言われても無理だと語り、自分にできるのは職業内訓練だけで、その結果を見守るしかないとした。指名委員会で社長を選ぶ方式にはさらに批判的で、会社を知らない者が最大公約数で選んでも事業が成功するはずがないと退けている。育成ではなく選別に賭ける立場であった[2]。
84歳の社長と、一人に集まった評価
2010年、金川氏は84歳になっていた。前年の6月には、三人に一人が死ぬ大病にかかったが生き延びたと自ら語る病を得て約2カ月入院し、その年の株主総会にも出席できなかった。それでも氏はその後1年近く社長を務め続けている。体力も気力も歳とともに衰えたと本人が認めながら、社長の席は空かないまま20年が過ぎようとしていた[3]。
社外からの懸念は、業績の良さと表裏であった。塩化ビニール樹脂と半導体材料のシリコンウエハは金川氏の手腕で世界首位に躍進し、2008年3月期まで13期連続で最高益を更新した。2010年3月期の営業利益率は約13%で、2から4%台の化学大手三社を引き離していた。刻々と変化する市況はつねにすべて頭に入っていると側近が語る一方、その金川氏が経営に関与しなくなるのは悪材料だと投資顧問の運用担当者は話していた[4][5]。
決断
社長を譲り、半年後にシンテックを譲る
2010年6月、20年ぶりの社長交代が行われた。副社長の森俊三氏が社長に昇格し、金川氏は代表権のある会長に就いている。森氏は1963年に入社し、信越エンジニアリングの役員や武生工場長を経て本社の役員になった国内畑の人物で、就任時に72歳であった。金川氏は新社長を徹底的にバックアップして今まで以上に収益の拡大に取り組むと述べ、交代後も自らが前に立つと明言した[6][7]。
引き継ぎの設計が表れたのは、その半年後であった。2011年1月、金川氏は1978年3月から握り続けてきた米国子会社シンテックの取締役社長を退いて同社の会長に移り、後任には前年に副社長となった斉藤恭彦氏を据えた。本社の社長職より遅れて空いたこの席は、金川氏自身が本社の社長に就く前に12年務めた持ち場そのものであった。後継候補を試す場所は、東京ではなくテキサスに置かれた[8]。
米国での五年半を経た2016年の交代
斉藤氏は1978年に入社し、本社経理部にいた20代のときに、まだ設立から10年目のシンテックへ出向した。以来30年以上を現地で過ごし、2004年にはシンエツハンドウタイアメリカの社長も兼ねている。経歴は米国事業に集中していた。金川氏は、人を育てるなら一つに専念させる、一つのことができないのに他のことができるはずがないと語っており、斉藤氏の歩みはその言葉どおりの形をとっていた[9][10]。
2016年4月26日、信越化学工業は斉藤氏の社長昇格を内定した。森氏は78歳で相談役に退き、金川氏は90歳で会長を続投した。当時60歳の斉藤氏は、シンテックの社長を兼ねたまま本社の社長に就くことになる。米国では約1700億円を投じるエチレンプラントが建設中で、2018年にも稼働する見込みであった。主力市場を現地で預かってきた人物が、そのまま本社を預かった[11]。
結果
「ポスト金川リスク」と、13年に及んだ承継
交代の受け止めは二つに割れた。東洋経済オンラインは本当の世代交代に近づいた日と題し、斉藤氏を次期社長候補の大本命と目されていた人物として紹介した。一方の日本経済新聞は、本格的な権限委譲が起きる可能性を認めつつ、投資家や顧客先の評価が金川氏の経営手腕に集まっていたため、うまく権限が移行できなければ失望を買う恐れがあるとして、ポスト金川時代のリスクを残していると書いている[12]。
会長の席のほうは空かなかった。金川氏は2023年1月1日に96歳で亡くなるまで会長にとどまり、2010年に社長を譲ってからの期間は13年に及んでいる。斉藤氏の側も、本社の社長に就いた後もシンテックの取締役社長を兼ね続け、有価証券報告書には現任と記されたままである。後継候補を試すために使われた席は、承継が済んだ後も次の誰かへは渡っていない[13][14]。
承継後の投資と資金の置き方
承継後も投資の手は緩まなかった。2024年4月、斉藤社長は半導体シリコンウエハの加工を担う三益半導体工業への公開買い付けを発表し、株式の取得に総額680億円を投じて完全子会社とした。三益と信越化学、そしてグループの信越半導体との連携を一段と深めるには完全子会社化が最善の方法であるとして決めたと説明している。同年度の設備投資は、この取得額を含めて約4400億円を見込んでいた[15]。
数字の上でも体制は保たれた。斉藤氏が就任した2017年3月期の連結売上高は1兆2374億円、営業利益は2386億円で、前の期の2085億円を上回っている。手元資金については、買収を含む大型投資と、五年前の感染症のような経済的な打撃への備え、そして株主還元に充てるという従来の方針を続けるとしたうえで、現金をこれ以上積み増すことはせず、適正な保有額をさらに検討していくと述べている[16][17]。
- 週刊東洋経済 2008年11月8日号「TOP INTERVIEW 信越化学工業社長 金川千尋 想像と観念論は時間の無駄。理論よりOJTで人は育つ」
- 週刊東洋経済 2010年6月5日号「NEWS TOP4 03 化学 社長交代でも体制維持 カリスマ経営者の難題」
- 日経ビジネス電子版(2023年1月5日)「追悼 信越化学・金川氏 成長の限界を超えた「経営力」」
- 東洋経済オンライン(2016年5月2日)「信越化学が「本当の世代交代」に近づいた日 金川会長の右腕、斉藤氏が新社長に昇格」
- 日本経済新聞(2016年4月26日)「信越化学社長に斉藤氏 金川会長は続投」
- 日本経済新聞(2016年4月26日)「信越化学、残る「ポスト金川リスク」 斉藤氏に社長交代」
- 財界オンライン(2023年2月6日)「【追悼】信越化学・金川千尋さんを偲ぶ」
- 信越化学工業 有価証券報告書【役員の状況】
- 信越化学工業 有価証券報告書(連結・日本基準)
- 信越化学工業 2024年3月期 決算説明会 質疑応答
- 信越化学工業 2025年3月期第3四半期 決算説明会 質疑応答