セントラル硝子の決断社史:経営の意思決定を振り返る

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決断

ソーダ灰だけでは採算が立たなくなった戦後、原料塩の塩素分を肥料に変える塩安併産法に転換した。1949年の均衡予算で価格差補給金が圧縮され、単一為替レートの設定でソーダ製品も国際価格への接近を迫られた。同年末、朝鮮窒素で塩安工場を手がけた廣橋憲亮氏が会長の奥田新三氏に請われて入社し、塩安併産法への転換を推した。1953年10月に月産1,500トンの塩安工場が営業運転に入り、原料塩のうち製品に生かせる比率は70%からほぼ100%になった。それでも1953年末からのソーダ市況の急落で創立以来の危機に陥り、奥田新三氏は1954年12月に小野田セメント・協和醗酵工業と提携し、同月に社長に就任している。塩安工場を月産6,000トンへ広げた1957年3月期に、3年ぶりの復配を果たした。

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