第1章 年〜年

セントラル硝子:宇部曹達工業の設立と苛性ソーダ・ソーダ灰の生産

1936年〜東見初炭鉱の株主が出した750万円と、アンモニア法で建てた宇部工場

1935年ごろ、宇部セメント取締役の中安閑一氏は、社内で調べていたソーダ工業の計画を国吉信義氏に引き継ぐよう持ちかけた。宇部セメントは朝鮮セメントの設立を優先しており、ソーダ事業に参入する余力を欠いていた。当時の宇部では大工場が市西部の沖ノ山炭鉱の埋立地に集まり、東部にある東見初炭鉱の埋立地は開発の遅れた土地である。1936年6月5日、藤本閑作氏と国吉信義氏は宇部の工業クラブに地元の出資候補、とりわけ東見初炭鉱の株主を招き、ソーダの企業化計画を説明した。発起人は板ガラスとレーヨン・スフの生産拡大に伴うソーダ需要を見込み、企業化を決めた。創立趣意書は、ソーダに続いて関連工業を起こし、東新川の埋立地を化学工業の集積地にする構想を掲げた。

  • セントラル硝子三十五年史(1972)
    • [1]1935年ごろ宇部セメント取締役の中安閑一が、朝鮮セメント創設で手が回らないツァーン法ソーダ計画の引き継ぎを国吉信義に持ちかけた
    • [2]1935年ごろ宇部セメント取締役の中安閑一が、朝鮮セメント創設で手が回らないツァーン法ソーダ計画の引き継ぎを国吉信義に持ちかけた
    • [4]1936年6月5日、東見初炭鉱の株主中心の地元有志に藤本閑作・国吉信義が企業化計画を説明。板ガラス・化繊の需要に応えて企業化を決意
    • [5]1936年6月5日、東見初炭鉱の株主中心の地元有志に藤本閑作・国吉信義が企業化計画を説明。板ガラス・化繊の需要に応えて企業化を決意
  • 会社銀行八十年史(1955)「宇部曹達工業」
    • [3]宇部の既存大企業は市西部の沖ノ山炭鉱埋立地に集中し、東部の東見初炭鉱埋立地の開発を市民が要望していた
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「セントラル硝子」
    • [6]創立趣意書は、ソーダ工業を最終目的とせず関連工業を起こし宇部を化学工業の拠点にすると掲げた

国吉信義氏らは当初ドイツのツァーン法を採る計画を進め、国吉五六氏を現地調査に派遣する段取りまで整えた。ツァーン法はソーダと塩安を同時に作れる反面、品質の劣る原料塩を固形のまま精製する工程を要し、欧米での企業化例もアンモニア法より少ない。1936年3月にアンモニア法の技術情報を入手して両法を比較し直した結果、国吉信義氏らはアンモニア法の採用に転じた。6月9日の発起人会で決めた計画は、資本金500万円、全灰日産400トン。株式の予約募集に想定を上回る応募が集まり、7月末に資本金を750万円、規模を日産600トンへ引き上げた。10月10日、宇部曹達工業は資本金750万円で発足し、創立時の株主4,874名のうち宇部市民が65%を占めた。

  • セントラル硝子三十五年史(1972)
    • [7]ツァーン法で国吉五六をドイツへ派遣する段階まで進んだが、1936年3月にアンモニア法の技術情報を得て比較検討の末アンモニア法に転換
    • [8]ツァーン法はソーダと塩安を同時製造する反面、品質の劣る原料塩を固形のまま精製する難点があり、欧米の企業化実績もアンモニア法より乏しい
    • [9]ツァーン法で国吉五六をドイツへ派遣する段階まで進んだが、1936年3月にアンモニア法の技術情報を得て比較検討の末アンモニア法に転換
    • [10]1936年6月9日発起人会で資本金500万円・全灰日産400トンと決定。予約募集の応募超過で7月末に750万円・日産600トンへ変更
    • [11]1936年6月9日発起人会で資本金500万円・全灰日産400トンと決定。予約募集の応募超過で7月末に750万円・日産600トンへ変更
  • 会社銀行八十年史(1955)「宇部曹達工業」
    • [12]1936年10月、国吉信義・藤本閑作を代表取締役に資本金750万円で発足

宇部曹達工業は東見初炭鉱の廃土で造成された東新川の埋立地を工場用地とし、1940年4月に借地の60,255平方メートル分を取得した。用地は炭鉱に隣接して石炭を安く受け取れたうえ、原料塩や石灰石の搬入にも、京阪神や瀬戸内への製品輸送にも海路と陸路を使える立地である。1936年10月17日に地鎮祭を執り行い、翌日から全灰日産200トンの第1期工事に着手した。第1期設備は1937年12月に完成し、1938年1月から操業を始めた。当初予定したソーダ灰との併産は見送り、粗重曹は全量を苛性化して化学繊維向けの苛性ソーダに充てた。1938年4月の苛性ソーダ生産は1,859トンで、日産60トン余りと設備能力の約40%の水準である。

  • セントラル硝子三十五年史(1972)
    • [13]東新川埋立地は東見初炭鉱の廃土で造成され、炭鉱に隣接し原料搬入と京阪神・瀬戸内への海陸輸送に便利。同社から借用し1940年4月に60,255平方メートルを買収
    • [14]東新川埋立地は東見初炭鉱の廃土で造成され、炭鉱に隣接し原料搬入と京阪神・瀬戸内への海陸輸送に便利。同社から借用し1940年4月に60,255平方メートルを買収
    • [15]1936年10月17日地鎮祭、第1期(全灰日産200トン・全量苛性化)着工。1938年4月の苛性ソーダ生産1,859トン、能力の約40%
    • [17]1936年10月17日地鎮祭、第1期(全灰日産200トン・全量苛性化)着工。1938年4月の苛性ソーダ生産1,859トン、能力の約40%
    • [18]1936年10月17日地鎮祭、第1期(全灰日産200トン・全量苛性化)着工。1938年4月の苛性ソーダ生産1,859トン、能力の約40%
  • 会社銀行八十年史(1955)「宇部曹達工業」
    • [16]1937年12月第1期の全灰日産200トン設備完成、1938年1月操業開始
参考文献[1]-[18]
  • セントラル硝子三十五年史(1972)
    • [1]1935年ごろ宇部セメント取締役の中安閑一が、朝鮮セメント創設で手が回らないツァーン法ソーダ計画の引き継ぎを国吉信義に持ちかけた
    • [2]1935年ごろ宇部セメント取締役の中安閑一が、朝鮮セメント創設で手が回らないツァーン法ソーダ計画の引き継ぎを国吉信義に持ちかけた
    • [4]1936年6月5日、東見初炭鉱の株主中心の地元有志に藤本閑作・国吉信義が企業化計画を説明。板ガラス・化繊の需要に応えて企業化を決意
    • [5]1936年6月5日、東見初炭鉱の株主中心の地元有志に藤本閑作・国吉信義が企業化計画を説明。板ガラス・化繊の需要に応えて企業化を決意
    • [7]ツァーン法で国吉五六をドイツへ派遣する段階まで進んだが、1936年3月にアンモニア法の技術情報を得て比較検討の末アンモニア法に転換
    • [8]ツァーン法はソーダと塩安を同時製造する反面、品質の劣る原料塩を固形のまま精製する難点があり、欧米の企業化実績もアンモニア法より乏しい
    • [9]ツァーン法で国吉五六をドイツへ派遣する段階まで進んだが、1936年3月にアンモニア法の技術情報を得て比較検討の末アンモニア法に転換
    • [10]1936年6月9日発起人会で資本金500万円・全灰日産400トンと決定。予約募集の応募超過で7月末に750万円・日産600トンへ変更
    • [11]1936年6月9日発起人会で資本金500万円・全灰日産400トンと決定。予約募集の応募超過で7月末に750万円・日産600トンへ変更
    • [13]東新川埋立地は東見初炭鉱の廃土で造成され、炭鉱に隣接し原料搬入と京阪神・瀬戸内への海陸輸送に便利。同社から借用し1940年4月に60,255平方メートルを買収
    • [14]東新川埋立地は東見初炭鉱の廃土で造成され、炭鉱に隣接し原料搬入と京阪神・瀬戸内への海陸輸送に便利。同社から借用し1940年4月に60,255平方メートルを買収
    • [15]1936年10月17日地鎮祭、第1期(全灰日産200トン・全量苛性化)着工。1938年4月の苛性ソーダ生産1,859トン、能力の約40%
    • [17]1936年10月17日地鎮祭、第1期(全灰日産200トン・全量苛性化)着工。1938年4月の苛性ソーダ生産1,859トン、能力の約40%
    • [18]1936年10月17日地鎮祭、第1期(全灰日産200トン・全量苛性化)着工。1938年4月の苛性ソーダ生産1,859トン、能力の約40%
  • 会社銀行八十年史(1955)「宇部曹達工業」
    • [3]宇部の既存大企業は市西部の沖ノ山炭鉱埋立地に集中し、東部の東見初炭鉱埋立地の開発を市民が要望していた
    • [12]1936年10月、国吉信義・藤本閑作を代表取締役に資本金750万円で発足
    • [16]1937年12月第1期の全灰日産200トン設備完成、1938年1月操業開始
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「セントラル硝子」
    • [6]創立趣意書は、ソーダ工業を最終目的とせず関連工業を起こし宇部を化学工業の拠点にすると掲げた

1938年〜遠海塩の途絶で近海塩に頼った宇部工場と、6.2%にとどまった原料塩の配分

1940年12月に第2期工事が完成し、宇部工場の能力は全灰日産400トン(ソーダ灰200トン、苛性ソーダ150トン)となった。第2期は1938年夏の着工から2年以上を要し、工費は約870万円と第1期の約450万円の倍近く。工業塩は全量を輸入に依存する。1939年9月に第2次世界大戦が始まり、1940年6月のイタリア参戦で地中海・北アフリカの塩はほぼ入らなくなった。宇部工場に届く塩は中国沿岸などの近海塩が中心となり、鹹水からマグネシウムを取り除く精製に手間がかかる。苛性ソーダの生産では塩素の軍需を満たす電解法が優先され、宇部曹達工業は1941年夏からソーダ灰の生産を本格的に再開した。

  • 会社銀行八十年史(1955)「宇部曹達工業」
    • [19]1940年12月第2期工事完成、能力は全灰日産400トン(ソーダ灰200トン・苛性ソーダ150トン)
  • セントラル硝子三十五年史(1972)
    • [20]第2期は1938年夏着工〜1940年末、工費約870万円(第1期約450万円)。原料は近海塩主体で鹹水精製に苦心。電解法優先のなか1941年夏にソーダ灰生産を本格再開
    • [21]工業塩は全量輸入。1939年9月の大戦勃発、1940年6月のイタリア参戦で地中海・北アフリカの遠海塩はほぼ途絶
    • [22]工業塩は全量輸入。1939年9月の大戦勃発、1940年6月のイタリア参戦で地中海・北アフリカの遠海塩はほぼ途絶
    • [23]第2期は1938年夏着工〜1940年末、工費約870万円(第1期約450万円)。原料は近海塩主体で鹹水精製に苦心。電解法優先のなか1941年夏にソーダ灰生産を本格再開
    • [24]第2期は1938年夏着工〜1940年末、工費約870万円(第1期約450万円)。原料は近海塩主体で鹹水精製に苦心。電解法優先のなか1941年夏にソーダ灰生産を本格再開

1938年度から、輸入を許された原料塩は曹達懇話会の塩業委員会が各社に配分した。配分は過去の生産実績を重んじたため、新規参入の宇部曹達工業への割当は1938年度でアンモニア法全体の6.2%、8万トンにとどまる。1940年3月の曹達工業薬品配給統制規則により、製造予定は商工大臣への届出制となり、製品は指定の共販機関を通さなければ販売できなくなった。1942年10月には化学工業統制会が発足し、電解法とアンモニア法それぞれの工業組合はその第2部会ソーダ部に吸収された。1943年の企業整備で宇部工場は存置工場に指定され、宇部曹達工業は三井化学と資本・経営の両面で提携関係に入った。三井化学は1944年3月に16,621株の株主となり、常務の林俊香氏が取締役に就任した。

  • セントラル硝子三十五年史(1972)
    • [25]1938年度から原料塩輸入許可量を曹達懇話会塩業委員会が配分。実績重点主義で当社割当は1938年度アンモニア法の6.2%・8万トン
    • [26]1938年度から原料塩輸入許可量を曹達懇話会塩業委員会が配分。実績重点主義で当社割当は1938年度アンモニア法の6.2%・8万トン
    • [27]1940年3月曹達工業薬品配給統制規則で製造予定の届出と共販機関経由の販売を義務化。1942年10月化学工業統制会発足、両組合は第2部会ソーダ部に吸収
    • [28]1940年3月曹達工業薬品配給統制規則で製造予定の届出と共販機関経由の販売を義務化。1942年10月化学工業統制会発足、両組合は第2部会ソーダ部に吸収
    • [30]三井化学は1944年3月に当社株16,621株を取得し、6月に常務の林俊香が当社取締役に就任
  • 会社銀行八十年史(1955)「宇部曹達工業」
    • [29]1943年アンモニア法ソーダの企業整備で存置工場に指定、三井化学と資本・経営両面で提携(持株7%弱)
参考文献[19]-[30]
  • 会社銀行八十年史(1955)「宇部曹達工業」
    • [19]1940年12月第2期工事完成、能力は全灰日産400トン(ソーダ灰200トン・苛性ソーダ150トン)
    • [29]1943年アンモニア法ソーダの企業整備で存置工場に指定、三井化学と資本・経営両面で提携(持株7%弱)
  • セントラル硝子三十五年史(1972)
    • [20]第2期は1938年夏着工〜1940年末、工費約870万円(第1期約450万円)。原料は近海塩主体で鹹水精製に苦心。電解法優先のなか1941年夏にソーダ灰生産を本格再開
    • [21]工業塩は全量輸入。1939年9月の大戦勃発、1940年6月のイタリア参戦で地中海・北アフリカの遠海塩はほぼ途絶
    • [22]工業塩は全量輸入。1939年9月の大戦勃発、1940年6月のイタリア参戦で地中海・北アフリカの遠海塩はほぼ途絶
    • [23]第2期は1938年夏着工〜1940年末、工費約870万円(第1期約450万円)。原料は近海塩主体で鹹水精製に苦心。電解法優先のなか1941年夏にソーダ灰生産を本格再開
    • [24]第2期は1938年夏着工〜1940年末、工費約870万円(第1期約450万円)。原料は近海塩主体で鹹水精製に苦心。電解法優先のなか1941年夏にソーダ灰生産を本格再開
    • [25]1938年度から原料塩輸入許可量を曹達懇話会塩業委員会が配分。実績重点主義で当社割当は1938年度アンモニア法の6.2%・8万トン
    • [26]1938年度から原料塩輸入許可量を曹達懇話会塩業委員会が配分。実績重点主義で当社割当は1938年度アンモニア法の6.2%・8万トン
    • [27]1940年3月曹達工業薬品配給統制規則で製造予定の届出と共販機関経由の販売を義務化。1942年10月化学工業統制会発足、両組合は第2部会ソーダ部に吸収
    • [28]1940年3月曹達工業薬品配給統制規則で製造予定の届出と共販機関経由の販売を義務化。1942年10月化学工業統制会発足、両組合は第2部会ソーダ部に吸収
    • [30]三井化学は1944年3月に当社株16,621株を取得し、6月に常務の林俊香が当社取締役に就任

1946年〜塩安併産法で月産1,500トンの肥料に出た戦後と、奥田新三氏が担った再建

1945年7月の空襲で東見初炭鉱からの送炭設備が焼け、宇部工場は操業を止めたまま終戦を迎えた。宇部曹達工業は1946年3月に在庫の塩でテスト操業を始め、同年8月に原料塩の割当を受けて本格操業に戻った。1948年6月までアンモニア法の稼働工場は全国に2カ所しかなく、宇部工場はその1つで、当時の国内需要の40%を担う供給元である。戦時補償の打ち切りを受けて会社経理応急措置法の対象となり、1948年7月に企業再建整備計画の認可を得た。計画は特別損失15,355千円を資本金と旧債権を切り捨てずに処理する内容である。同年11月には元商工次官の奥田新三氏が会長として招かれ、社長は国吉五六氏。1949年5月、宇部曹達工業は東京証券取引所に株式を上場した。

  • セントラル硝子三十五年史(1972)
    • [31]1945年7月の空襲で送炭ベルトコンベア焼失し操業停止。1946年3月テスト操業、8月に原料塩割当を受け本格操業
    • [32]1945年7月の空襲で送炭ベルトコンベア焼失し操業停止。1946年3月テスト操業、8月に原料塩割当を受け本格操業
    • [34]特別経理会社指定ののち1948年7月31日企業再建整備計画認可。特別損失15,355千円、資本金・旧債権の切捨てなし
    • [35]特別経理会社指定ののち1948年7月31日企業再建整備計画認可。特別損失15,355千円、資本金・旧債権の切捨てなし
    • [36]1948年11月奥田新三(元商工次官)が会長、国吉五六が社長に就任し、国吉信義は相談役
  • 会社銀行八十年史(1955)「宇部曹達工業」
    • [33]1948年6月まで三菱化成とともに全国2つのアンモニア法稼働工場として国内需要の40%を供給
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1949年5月、株式を東京証券取引所に上場

1949年の均衡予算で価格差補給金が圧縮され、単一為替レートの設定でソーダ製品も国際価格への接近を迫られた。通商産業省は1949年11月、アンモニア法の合理化策として、行政指導で業者を塩安併産法へ移らせる方針を決めた。塩安併産法ではソーダ灰1トン当たりの原料塩が1.58トンから1.23トンに減り、捨てていた塩素分も肥料に生かせる。同年末、朝鮮窒素興南工場で塩安工場の建設と操業を経験した廣橋憲亮氏が、会長の奥田新三氏に請われて入社した。1952年夏に宇部興産からアンモニア供給の確約を得て月産1,500トンの塩安工場の建設を決め、1953年10月に営業運転を始めた。塩安工場の新設で、原料塩のうち製品に生かせる比率は70%からほぼ100%になった。

  • セントラル硝子三十五年史(1972)
    • [38]1949年の均衡予算で補給金圧縮・単一為替レート。同年11月通産省が塩安併産法転換を行政指導で推進。年末に朝鮮窒素で塩安経験のある廣橋憲亮が奥田会長に請われ入社。塩安併産法は原料塩ソーダ灰トン当たり1.23トン(ア法1.58トン)で塩素分も利用
    • [39]1949年の均衡予算で補給金圧縮・単一為替レート。同年11月通産省が塩安併産法転換を行政指導で推進。年末に朝鮮窒素で塩安経験のある廣橋憲亮が奥田会長に請われ入社。塩安併産法は原料塩ソーダ灰トン当たり1.23トン(ア法1.58トン)で塩素分も利用
    • [40]1949年の均衡予算で補給金圧縮・単一為替レート。同年11月通産省が塩安併産法転換を行政指導で推進。年末に朝鮮窒素で塩安経験のある廣橋憲亮が奥田会長に請われ入社。塩安併産法は原料塩ソーダ灰トン当たり1.23トン(ア法1.58トン)で塩素分も利用
    • [41]1949年の均衡予算で補給金圧縮・単一為替レート。同年11月通産省が塩安併産法転換を行政指導で推進。年末に朝鮮窒素で塩安経験のある廣橋憲亮が奥田会長に請われ入社。塩安併産法は原料塩ソーダ灰トン当たり1.23トン(ア法1.58トン)で塩素分も利用
    • [42]1952年夏に宇部興産のアンモニア供給確約を得て月産1,500トンの塩安工場建設を決定、1953年10月営業運転開始
  • 会社銀行八十年史(1955)「宇部曹達工業」
    • [43]1953年秋の塩安工場新設で原料塩の有効利用率が70%からほぼ100%へ

統制撤廃後のソーダ業界では各社の増産が過当競争を招き、1953年末から市況が急落した。宇部曹達工業は1954年度上期に売上高が前期から約20%減って赤字に転落し、同年晩秋には資金繰りが悪化して創立以来の危機に陥った。会長の奥田新三氏は小野田セメントと協和醗酵工業との提携を決め、1954年12月8日に3社で覚書を結び、同月に社長に就任した。1955年2月には両社から取締役を迎え、経営陣を入れ替えた。1956年10月には月産6,000トン規模に増設した塩安工場が営業生産に入り、1957年3月期に3年ぶりの復配(年1割)を果たした。小野田セメント・協和醗酵工業との関係は、ソーダ灰の需要先である板ガラスへの参入を考える足場になったとみられる。

  • セントラル硝子三十五年史(1972)
    • [44]1953年末から過当競争でソーダ市況急落。1954年度上期は前期比約20%減収で赤字、晩秋に資金逼迫で創立以来の危局
    • [45]1953年末から過当競争でソーダ市況急落。1954年度上期は前期比約20%減収で赤字、晩秋に資金逼迫で創立以来の危局
    • [46]奥田会長の決断で小野田セメント・協和醗酵工業と提携し1954年12月8日覚書調印。奥田新三は1954年12月に社長就任
    • [48]塩安工場の月産6,000トンへの増設は1956年9月竣工・10月営業生産。1957年3月期に3年ぶり復配(年1割)
  • 会社銀行八十年史(1955)「宇部曹達工業」
    • [47]1954年12月小野田セメント・協和醗酵と提携、1955年2月両社から取締役を迎え経営陣一新、奥田新三が社長
参考文献[31]-[48]
  • セントラル硝子三十五年史(1972)
    • [31]1945年7月の空襲で送炭ベルトコンベア焼失し操業停止。1946年3月テスト操業、8月に原料塩割当を受け本格操業
    • [32]1945年7月の空襲で送炭ベルトコンベア焼失し操業停止。1946年3月テスト操業、8月に原料塩割当を受け本格操業
    • [34]特別経理会社指定ののち1948年7月31日企業再建整備計画認可。特別損失15,355千円、資本金・旧債権の切捨てなし
    • [35]特別経理会社指定ののち1948年7月31日企業再建整備計画認可。特別損失15,355千円、資本金・旧債権の切捨てなし
    • [36]1948年11月奥田新三(元商工次官)が会長、国吉五六が社長に就任し、国吉信義は相談役
    • [38]1949年の均衡予算で補給金圧縮・単一為替レート。同年11月通産省が塩安併産法転換を行政指導で推進。年末に朝鮮窒素で塩安経験のある廣橋憲亮が奥田会長に請われ入社。塩安併産法は原料塩ソーダ灰トン当たり1.23トン(ア法1.58トン)で塩素分も利用
    • [39]1949年の均衡予算で補給金圧縮・単一為替レート。同年11月通産省が塩安併産法転換を行政指導で推進。年末に朝鮮窒素で塩安経験のある廣橋憲亮が奥田会長に請われ入社。塩安併産法は原料塩ソーダ灰トン当たり1.23トン(ア法1.58トン)で塩素分も利用
    • [40]1949年の均衡予算で補給金圧縮・単一為替レート。同年11月通産省が塩安併産法転換を行政指導で推進。年末に朝鮮窒素で塩安経験のある廣橋憲亮が奥田会長に請われ入社。塩安併産法は原料塩ソーダ灰トン当たり1.23トン(ア法1.58トン)で塩素分も利用
    • [41]1949年の均衡予算で補給金圧縮・単一為替レート。同年11月通産省が塩安併産法転換を行政指導で推進。年末に朝鮮窒素で塩安経験のある廣橋憲亮が奥田会長に請われ入社。塩安併産法は原料塩ソーダ灰トン当たり1.23トン(ア法1.58トン)で塩素分も利用
    • [42]1952年夏に宇部興産のアンモニア供給確約を得て月産1,500トンの塩安工場建設を決定、1953年10月営業運転開始
    • [44]1953年末から過当競争でソーダ市況急落。1954年度上期は前期比約20%減収で赤字、晩秋に資金逼迫で創立以来の危局
    • [45]1953年末から過当競争でソーダ市況急落。1954年度上期は前期比約20%減収で赤字、晩秋に資金逼迫で創立以来の危局
    • [46]奥田会長の決断で小野田セメント・協和醗酵工業と提携し1954年12月8日覚書調印。奥田新三は1954年12月に社長就任
    • [48]塩安工場の月産6,000トンへの増設は1956年9月竣工・10月営業生産。1957年3月期に3年ぶり復配(年1割)
  • 会社銀行八十年史(1955)「宇部曹達工業」
    • [33]1948年6月まで三菱化成とともに全国2つのアンモニア法稼働工場として国内需要の40%を供給
    • [43]1953年秋の塩安工場新設で原料塩の有効利用率が70%からほぼ100%へ
    • [47]1954年12月小野田セメント・協和醗酵と提携、1955年2月両社から取締役を迎え経営陣一新、奥田新三が社長
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1949年5月、株式を東京証券取引所に上場

出典・参考

4件
出典・参考
  • 有価証券報告書【沿革】
  • セントラル硝子三十五年史(1972)
  • 会社銀行八十年史(1955)「宇部曹達工業」
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「セントラル硝子」

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