磁気テープ世界首位とニューヨーク上場を機とするグローバル電子部品メーカーへの転換
世界一の看板を、素野福次郎社長はどう次の柱へつなぎ替えようとしたか
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- 概要
- 1982年、磁気テープの生産金額で世界シェア首位に立った東京電気化学工業(TDK)が、素野福次郎社長のもとで6月にニューヨーク証券取引所へ上場し、翌年には社名をTDKへ改めてロンドンにも上場した。フェライトコアを納める国内の素材メーカーから、自社ブランドを世界の資本市場と消費者に問うグローバル電子部品メーカーへ立ち位置を移した経営判断。
- 背景
- 石油危機後の電子部品不況のなかでも同社は赤字を出さず、年率20%以上で伸びる磁気テープが利益を下支えしていた。需要のある土地で生産するイン・マーケットの海外戦略のもと、台湾・韓国・米国に生産拠点を広げ、世界規模の事業へ踏み出す下地が整っていた。
- 内容
- 1982年に磁気テープの世界シェア31.5%で首位に立ち、同年6月に日本企業として8番目のニューヨーク証券取引所上場を果たした。1983年3月に商標そのままの社名ティーディーケイ株式会社へ改称し、同年5月にはロンドン証券取引所にも上場して日米欧三市場で株式が取引される体裁を整えた。
- 含意
- 素野社長は世界一の絶頂で高収益の看板を誇らず、次の柱への危機感を口にした。同じ年に磁気ヘッドの新工場を建てて主力交代を仕込んだ動きは、後年の電池事業への賭けやROICによる事業の選別にまで通じている。
世界一を看板にせず、次の柱へ
この転換の核心は、世界一という到達点を守りに入る理由にしなかった点にある。ニューヨークとロンドンへの上場や社名の世界統一は、単なる資金調達や体裁づくりにとどまらず、素材メーカーが自社ブランドを世界に問う立場へ踏み出す意思表示とみることができる。同じ年に磁気ヘッドの新工場を建てて次の主力を仕込んだ動きと合わせると、頂点で見せた素野社長の慎重さは、幸運な主力交代を偶然で終わらせないための布石だったとみられる。
もっとも、テープに代わる「太い幹」がすぐに現れたわけではない。磁気ヘッドや電子部品への転換が実を結ぶまでには、上場来初の営業赤字を挟むなお十数年の試行を要した。それでも、フェライトで創業し磁気テープで世界一となった会社が、絶頂の年に次の不安を口にしていた事実は、後年の電池事業への賭けやROICによる事業の選別にまで通じている。世界一をいつ手放し、何へ乗り換えるか——この問いを高みで自らに向けた点に、TDKという会社の性格がうかがえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
石油不況を越えた素材メーカーの高収益体質
1970年代の東京電気化学工業(TDK)は、石油危機後の電子部品不況のなかでも赤字を出さず、高い利益率を保っていた。カラーテレビ・オーディオ・CBトランシーバーの三本柱が崩れて減額修正が相次いだ電子部品業界にあって、同社の利益を下支えしたのが磁気テープであった。磁気テープの売上は年率20%以上で伸び、1974年度に100億円を、1976年には234億円を超えていた。酸化鉄を焼き固めるフェライト以来の素材技術を土台に、テープ・マグネット・コンデンサと収益源を重ねてきた点が、機器(セット)を手掛ける同業他社との違いになっていた[1]。
販売の足取りも早くから海外へ向いていた。同社は需要のある土地で生産して供給するイン・マーケットの考えのもと、世界を北米・欧州・東南アジアに分けて生産と販売を配置する世界戦略を採り、台湾と韓国に工場を持ち、アメリカ市場向けにはカリフォルニアのカセットテープ工場、メキシコのマグネット・フェライト工場で応じていた。素材技術と海外生産の網が、世界規模の事業へ踏み出す下地となっていた[2]。
ビデオテープの倍々ゲームと世界一への到達
世界一への引き金は、本命とされたビデオテープにあった。ビデオ用テープでは米デュポン社が二酸化クロム系で独占的な地位を築き、TDKには使用を認めず、他用途に限っても特許料は1億円と提示していた。素野福次郎社長は自社開発を主張し、研究所は犠牲テーマを四つ出しながら、酸化物に金属磁性体の長所を重ねる新材料にたどり着いた。1973年11月、これをアビリン・ビデオテープとして発売している[3]。
1977年、この自社開発のテープを一挙に増産させる大量注文が舞い込んだ。対米輸出用のVHSテープに欠陥が出た松下寿電子工業からの5万巻の緊急要請で、TDKの月産能力は3千巻に過ぎなかった。稲井隆義社長の依頼を受け、長野の千曲川工場は休日を返上して昼夜兼行で生産にあたり、納期に間に合わせた。この一件を境にビデオテープは倍々の勢いで伸び、オーディオとビデオを合わせた磁気テープで世界一へと駆け上がった[4]。
決断
磁気テープ世界一とニューヨーク上場
1982年、TDKはオーディオテープとビデオテープを合わせた生産金額ベースで磁気テープの世界シェア31.5%を握り、ソニーの21.5%、日立マクセルの18.0%を引き離して世界首位に立った。市場規模4,170億円のなかで頭一つ抜けた地位であった。同年6月、素野福次郎社長のもとで同社は世界最大のニューヨーク証券取引所に株式を上場し、日本企業として8番目のNYSE上場を果たした。素野社長は前年に迎えた創立50周年を、自らの言葉で「立志」の段階と受け止めていた[5][6]。
世界一の看板は、事業構成の作り替えと同時に進んだ。1983年3月、同社は創業以来の社名「東京電気化学工業」を、輸出品で親しまれた商標そのままの「ティーディーケイ株式会社」へ改め、ブランドを世界で一つにそろえた。同年5月にはロンドン証券取引所にも上場し、日本・米国・欧州の三市場で株式が取引される体裁を整えた。フェライトコアを供給する国内の部品メーカーから、自社ブランドの製品を世界の資本市場と消費者へ直接さらすグローバル電子部品メーカーへ、立ち位置を移そうとしていた[7]。
結果
世界一の絶頂で語られた次への危機感
頂点に立ったその時期に、素野福次郎会長は高収益の看板を素直に誇らなかった。1983年5月、日経ビジネスが「テープに次ぐ高収益商品をTDKは用意しているのだろうか」と問うと、会長は「蒔いたタネの実はすべて刈り取ってしまった。いまから捲くタネは育ってもあまり太い幹になりそうもない」と答えている。ラジオ・テレビの普及に乗ったフェライトの伸びが陰る前にカセットテープが育ち、オーディオ需要が峠を越えるころにビデオテープの倍々の伸びが始まる——幸運な主力交代を重ねてきた自覚が、次の柱への危機感と裏表になっていた[8]。
危機感は設備の手当てとして形を取った。世界一を達成した1982年、同社は11月に山梨県甲西町の甲府南工場を竣工してハードディスク用磁気ヘッドの生産に着手し、磁気テープで得た資金を次世代の磁気応用製品へ振り向ける事業入替の下ごしらえを始めた。財務の裏づけも厚く、1985年1月には銀行の担保保証なしで社債を出せる国内初の完全無担保普通社債を発行している。世界市場での磁気テープの優位と厚い自己資本を土台に、主力を一つずつ入れ替えながら生き延びる型が、この時期に固まっていった[9][10]。
- 素野福次郎『私の履歴書 経済人 第24巻』(日本経済新聞社)
- 週刊東洋経済 1977年9月10日号「東京電気化学の不況抵抗力を吟味する」
- 証券アナリストジャーナル 1976年12月号「東京電気化学工業」(講演要旨)
- 日経ビジネス 1983年5月16日号「TDK・優等生が気づいた不安定な我が身」
- 永田清寿『TDK世界一の秘密』(東都書房)
- TDK 有価証券報告書 第129期(2025年3月期)【沿革】