世界最大の航空連合スターアライアンスへの加盟と「選択と集中」による経営再建
30年ぶり無配の危機下、後発の全日空はなぜ単独の国際線拡大でなく世界連合を選んだか
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- 概要
- 1999年10月、全日本空輸(全日空)が世界最大規模の航空企業連合スターアライアンスに加盟した経営判断。野村吉三郎社長が同年6月に発表した2002年度までの中期経営計画「選択と集中」の柱で、ルフトハンザ・ユナイテッドとのコードシェアで国際線を伸ばす一方、不採算路線と海外ホテルを整理して航空事業へ集約した。
- 背景
- 1998年の日米航空交渉合意でコードシェアが解禁され、世界の航空業界は4つの巨大連合へ集約が進んでいた。全日空は1998年3月期に30年ぶりの無配へ転落し、大手3社で唯一、翌期も赤字を見込む出遅れた立場にあった。90年代後半の経営陣の抗争を経て、国際線拡大の活路をどう開くかが再建の課題となっていた。
- 内容
- 全日空はスターアライアンスに加盟し、ルフトハンザ・ユナイテッドとのコードシェアで国際線収入を4年間で20%増、加盟効果を年90億円と見込んだ。あわせて機材購入を19機から10機へ絞ってグループ有利子負債を20%圧縮し、海外ホテルや不採算路線を整理して航空事業へ集約。成長の尺度に使用総資本事業利益率6%を据えた。
- 含意
- 単独では国際線を伸ばしにくい後発が、世界連合の路線網に活路を求めた戦略転換であった。加盟は2001年3月期の業績回復を後押しし、後の国際線拡大を支える提携網の土台となった。一方で野村社長自身が、過去の提携の7割が解消されてきたリスクに触れ、連合に飲み込まれない自社体制の確立を課題に挙げた。
世界連合に賭けた後発の再建
全日空のスターアライアンス加盟は、単独では国際線を伸ばしにくい後発が、世界連合の路線網を借りて活路を探る選択であった。国内5割超の収益に頼る構造のまま自由化の波に洗われれば、欧米の巨大キャリアとの体力差はそのまま現れる。野村社長が加盟と「選択と集中」を一体で示したのは、連合の恩恵を受ける前にまず自社を身軽にしておく必要があったためとみられる。加盟効果を年90億円と細かく積み上げる一方で、提携の7割が解消されてきた事実にも触れ、飲み込まれない体制づくりを課題に挙げた慎重さがうかがえる。
この判断が今日から見て重いのは、ここで結んだ提携網が後の国際線拡大を支える基盤になった点にある。2010年の日本航空破綻を境に全日空は国際線を伸ばし、2017年には国際線旅客数で日本航空を上回った。スターアライアンスという看板は、その間ずっと路線網の背骨として働いた。他方、野村社長が2000年度に掲げた持株会社制は当時は実らず、LCCを束ねる体制として形になるのは2013年のANAホールディングス発足を待った。危機のなかで描いた再建の設計図が、十数年をかけて姿を現していったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
航空ビッグバンと世界連合への集約
1998年1月末、日米両政府は2001年の完全自由化を前提とする暫定的な自由化策で合意し、日米の航空会社どうしのコードシェア(共同運航)が解禁された。他社の路線を自社便のように売れるコードシェアは、投資を抑えて路線網を広げる手段として世界の再編の中核にあった。米ユナイテッドと独ルフトハンザはすでにスターアライアンスを結成しており、業界は4つの巨大連合へ集約が進んでいた[1]。
この波のなかで全日空は、1986年の国際線参入以来の悲願だった先発企業への昇格を日米合意で果たし、日米間の自由運航権を得た。だが国内最大市場である成田空港の発着枠は満杯で、権益を得ても増便できない壁が残った。全日空は2年前に米デルタと結んだコードシェアの覚書を解消する意向を示し、スターアライアンスの盟主であるユナイテッドとルフトハンザへ接近した[2][3]。
30年ぶり無配と経営再建の課題
全日空は1998年3月期に30年ぶりの無配へ転落し、日本航空・日本エアシステムと合わせ日本の航空3社がそろって無配に陥った。欧米の有力各社が空前の利益を上げるなかで、護送船団の行政に長く守られてきた日本勢は競争力の差を突きつけられていた。全日空は大手3社で唯一、翌2000年3月期も240億円の赤字を見込む出遅れた立場にあった[4][5]。
経営の混乱も尾を引いていた。1997年に社長へ就いた野村吉三郎氏は、就任3年目の1999年6月にようやく2002年度までの中期経営計画をまとめた。1999年3月期の連結決算は最終赤字となり、累積損失は600億円に膨らんでいた。国際線は1日10便しか飛ばせず、国内偏重の収益構造をどう作り替えるかが再建の課題として残った[6][7]。
決断
スターアライアンスへの加盟
1999年10月、全日空は世界最大規模の航空企業連合スターアライアンスに加盟した。全日空のコードを付けた便がルフトハンザやユナイテッドの路線を飛び、空港での通し手続きが可能になる。野村社長は国際線の収入計画を4年間で20%増と見込み、その多くを加盟による増収効果に置いた。法人向けのファーストクラス販売にも力を入れ、単価の底上げを狙った[8]。
加盟の効果を野村社長は年間90億円の営業収益と試算した。増収が年100億円、共同宣伝費などのコストが10億円で、差し引き90億円が残るという計算であった。ただ本人も過信は戒めた。過去に結ばれた提携の7割が解消されてきた事実に触れ、共通システムの整合や費用分担で主導権を奪われれば加盟が逆効果になりうると認めた。自社の体制を固めることが加盟の前提であるとした[9][10]。
「選択と集中」の中期計画
加盟と並ぶ計画の柱が「選択と集中」であった。全日空は航空事業に絞る方針を掲げ、海外ホテルは売却の時機を待つ整理対象とした。国内外の不採算路線は切り、もうかる路線に資源を寄せる。関連事業からの撤退に伴う損失として300億円を引き当て、4年をかけてこれを一掃する道筋を描いた。「航空会社は航空一本でいく」と野村社長は語った[11]。
財務の立て直しも急いだ。1兆円規模のグループ有利子負債を20%削減する目標を掲げ、その柱として機材の購入計画を19機から10機へ絞り、ボーイングと合意した。1機200億円として1800億円の削減にあたる。人員は4年間で1700人の純減を見込み、成長の尺度には使用総資本事業利益率6%を据えた。運輸業の平均3%の倍にあたる水準であった[12][13]。
結果
構造改革の損失と業績の回復
計画の初年度にあたる2000年3月期、全日空は関連事業の整理に伴う損失を計上し、連結最終損益は152億円の赤字に沈んだ。だが構造改革の効果はほどなく表れ、翌2001年3月期には連結の経常利益が635億円、最終利益が403億円へ回復した。無配と累積損失に苦しんだ数年を経て、収益はいったん立ち直りをみせた[14]。
もっとも回復は続かなかった。2001年9月の米同時多発テロで国際線の需要が急減し、2002年3月期の連結最終損益は95億円の赤字へ転じた。加盟で伸ばそうとした国際線が、外部の衝撃をそのまま被る難しさが早くも表れた。野村社長が2000年度をめどに掲げた持株会社制も、グループ内の競合整理が間に合わず、計画期間内には実らなかった[15][16]。
- 週刊東洋経済 1999年6月26日号「編集長インタビュー 野村吉三郎 全日本空輸社長『選択と集中』で生き残りに賭ける」
- 週刊東洋経済 1998年3月21日号「航空ビッグバンの衝撃 世界再編に揺れるJAL、ANA、JASの運命」
- 全日本空輸 会社年鑑(連結業績)
- 全日本空輸 有価証券報告書(2002年3月期・連結)