海外プラント受注拡大への傾斜と「日揮」への社名変更
拡大するリスクを、鈴木義雄社長(のち会長)は実績と信用づくりでどう受け止めようとしたか
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- 概要
- 1976年10月、日本揮発油が社名を実態に合う「日揮」へ改め、同じ年にアルジェリアでガスプラント「モジュールⅠ・Ⅱ」を1,450億円で受注した経営判断。鈴木義雄社長(のち会長)は、名実の一致した社名と、実績・信用づくりによるリスク回避の考え方を軸に、海外プラント事業への傾斜を進めた。
- 背景
- 国内製油所建設の特需が一巡し、日本揮発油は1960年代後半から海外プロジェクトへ舵を移していた。1972年ごろのアルジェリア製油所建設では約50億円の赤字を計上し、減配・賞与カットに追い込まれる代償も払っていた。それでもオイルショック後の海外プラント需要と国際競争のなかで、海外を主戦場に据える経営環境が続いていた。
- 内容
- 「揮発油」すなわちガソリンの意味を残す社名を実態から乖離したものとみて「日揮」へ改称し、専任のアルジェリア事業本部を新設して海外案件の遂行体制を固めた。鈴木義雄会長は「海外の仕事にリスクはつきもの。それをカバーするのが得意先への実績、信用づくり」と語り、一案件への集中を避ける分散を掲げる一方、アルジェリア案件が一時売上の約半分を占めた現実も率直に認めていた。
- 含意
- 社名変更は単なる表示の修正ではなく、海外発注者に向けた信用構築の一環であった。分散を掲げながらも追加受注で一案件への集中が生じた事実は、リスク管理の理念と受注の現実との間にある緊張を映している。
看板の刷新と、引き受けたリスクの中身
この決断の軸は、社名という表看板を実態に合わせたことにとどまらない。鈴木義雄会長が語った「実績と信用づくり」は、契約の型やカントリーリスクの分散だけでは埋まらない領域、すなわち発注者との関係そのものをリスク管理の対象に据える考え方だった。数字に表れにくいこの資産を積み上げることが、社名変更と並ぶもう一つの決断の核だったとみることができる。
ただし、鈴木会長自身がアルジェリア一極集中を率直に認めていたように、分散という理念は受注の現実の前でたびたび揺らいだ。看板を掛け替え、信用を積み増しても、個別の商談が積み重なる先でリスクが再び偏る構図は消えなかった。海外調達比率の引き上げに乗り出す1989年の改革、そして半世紀近く後に大型契約で損失を計上する場面まで、日揮は形を変えながら同じ問いへ繰り返し向き合うことになる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「揮発油」という社名と特許事業からの出発
日本揮発油は1928年、米ユニバーサル・オイル・プロダクツ社のダブス式熱分解プロセス特許を買い取り、石油精製業を志して東京で設立された。だが自社製油所の建設は資金難で断念に追い込まれ、諸般の事情から計画を変更して、特許の使用許可すなわちプロセス・ライセンシングを主業務とする形へ転じた。社名に刻まれた「揮発油」というガソリンを指す言葉は、この創業時の構想をそのまま映していた[1]。
同社は戦後、国内製油所建設の受注で規模を広げる一方、海外にも早くから足場を築いていた。ペルー・ベネズエラ・アルゼンチン・クウェート・韓国などへ石油精製プラント一式を建設し、日本のプラント輸出の先駆けとなる実績を積んでいた。1960年代後半に国内の特需が一巡すると、この海外実績が次の成長を支える土台になった[2]。
アルジェリアで払った代償と、拡大する海外市場
海外シフトの初期に、日本揮発油は手痛い代償も払っていた。1972年ごろのアルジェリア製油所建設では約50億円の赤字を計上し、減配と賞与カットに追い込まれた。契約の型とリスク管理のあり方を見直す教訓となったこの経験は、その後の海外戦略に影を落としながらも、海外への傾斜そのものを止める理由にはならなかった[3]。
1970年代なかば、日本のプラント輸出は年間170億ドルに達し、自動車などの主力輸出品に次ぐ規模へと育っていた。海外市場は有望であると同時に、欧米の大手や国内の千代田化工建設・東洋エンジニアリングとの受注競争も激しく、政情や為替のリスクを引き受けなければ商談そのものが成立しない構造だった。日本揮発油はこの環境のなかで、海外を主戦場に据える選択を続けた[4]。
決断
「日本揮発油」から「日揮」への社名変更
1976年10月、日本揮発油は創業以来の社名を「日揮」へと変更した。同じ年にはすでにアルジェリアのガスプラント「モジュールⅠ・Ⅱ」を受注総額1,450億円で獲得しており、社名に残る「揮発油」というガソリンを指す言葉は、総合エンジニアリング企業となった実態から離れていた。改称は事業実態の追認であると同時に、海外発注者に向けて自社の姿を示す狙いを持った経営判断だった[5]。
名前だけでなく、遂行体制も同時に整えた。専任のアルジェリア事業本部を新設して対応[6]し、海外プロジェクトを経験した技術者を集めて配置した。社名の刷新と組織の裏づけを同時に進めたことで、海外発注者に対して「看板だけの改称ではない」という説得力を持たせようとした。
鈴木義雄会長の「実績と信用づくり」というリスク哲学
社長を14年務めた鈴木義雄氏は、海外市場開拓の要諦を「海外の仕事にリスクはつきもの。それをカバーするのが得意先への実績、信用づくり」と語った。海外14カ所の支店・営業所を通じて世界の情報を集める一方、最も早く確かな情報はお得意先からの直接のニュースであるとし、いい仕事を重ねて信頼を得ることが、次の受注につながる回路になっているとみていた[7]。
リスクを減らす具体策として、鈴木義雄会長は「自社の能力を考えて、あまり大きな仕事を1カ所に集中するのを避けること」を挙げた。だがその同じ口で、直近数年で最大の仕事だったアルジェリア案件が、当時の売上高の約半分を占めていた事実も率直に認めた。当初の受注に追加受注が重なった結果であり、分散を掲げる方針と、現実に生じた集中との間には隔たりがあった[8]。
結果
名実共に大きくなった海外プラント事業
社名変更から6年が過ぎた1982年、日揮の売上高は996億円(1976年3月期)から3,089億円(1982年3月期)へと3倍強に伸びていた。プラント輸出の草分けでありながら国内型企業に近い規模だった会社が、社名にふさわしい海外エンジニアリング企業へと姿を変えたことを、この数字が裏づけていた[9]。
1980年6月、鈴木義雄氏は社長から代表取締役会長へ退いた。14年に及んだ社長職について「一人でやるより、新しい社長を選んで2人で手広くやる方が効果があるのじゃないか」と振り返り、対外活動を会長が担い社内業務を新体制の社長が担う二人三脚へ移す理由を語った。信用づくりを重んじる路線は、経営体制の切り替えを越えて引き継がれた[10]。
新分野への広がりと、利益率という別の課題
海外案件で稼ぐ力を広げる一方、日揮は原子力や社会開発といった新分野にも踏み込んでいた。放射性廃棄物の処理を手がける国内唯一の企業となったこの進出を、中島孝夫常務は「鈴木義雄会長の英断による進出」と言い表した。石油精製プラント一辺倒からの広がりは、受注が特定分野に偏るリスクをやわらげる、もうひとつの分散策でもあった[11]。
もっとも、受注の伸びがそのまま収益に結びついていたわけではなかった。1980年3月期に3.4%あった売上高営業利益率は、1982年3月期には0.4%まで落ち込んでいた。海外案件の拡大と社名の刷新で対外的な存在感を高めた一方、収益力そのものを立て直す課題は、この時点でなお残されていた[12]。
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- 日経ビジネス 1980年8月25日号「リスクも、実績と信用づくりで回避」
- 日経ビジネス 1982年8月23日号「日揮 花形企業の“利益なき繁忙”いつまで」
- 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】