東京応化工業米国現地法人の設立と1992年の二社統合による北米供給体制の構築
輸出比率3%の専業メーカーは、なぜ顧客の量産ラインの隣に拠点を置いたか
- 概要
- 1986年7月に東証第二部へ上場した東京応化工業は、翌1987年に米国カリフォルニア州へオーカ・アメリカ社を設立し、1989年にはオレゴン州へT.O.K.インターナショナル社を設けた。1992年12月に両社を合併してオーカ・アメリカ社へ一本化し、翌1993年5月にオレゴン工場を稼働させた。輸出比率が総売上高の3%程度にとどまっていた専業メーカーが、北米の顧客のそばに供給の拠点を置いた判断であった。
- 背景
- フォトレジストは劣化しやすく、作られてから使われるまでの日数が短いほど良い材料である。同社は国内でも全国を数ブロックに分けて生産拠点を置く計画を進めており、顧客の近くで作るという考え方を先に国内で確かめていた。
- 内容
- 米国にはまず販売と技術支援の会社を置き、工場は後に回した。二つに分かれていた現地法人を1992年12月に一社へ集約し、1993年5月にオレゴン工場を稼働させ、1997年5月には海外で初めて半導体用フォトレジストの生産に入った。
- 含意
- 1986年9月の講演で伊藤毅雄社長は米国での生産に慎重な見方を示していた。販売から始めて現地生産に届くまで10年を要した歩みは、材料メーカーの海外進出が品質を別の土地で再現する課題であったことを示している。
顧客の隣で同じ品質を出すまで
1987年の米国進出を、円高と半導体摩擦に押された海外シフトとして読むと、順序を取り違える。当時の輸出比率は総売上高の3%程度で、押し出されるほどの輸出量はそもそも無かった。この判断の芯は、劣化しやすい材料を顧客の量産ラインの近くで持つという供給の型を、国内で先に確かめてから米国へ延ばしたところにある。全国を数ブロックに分けて出来たてのレジストを届けるという1984年の計画が、その原型であった。
もっとも、延長は設計図どおりには運ばなかった。1989年にオレゴン州へ設けたT.O.K.インターナショナル社は3年でオーカ・アメリカ社に吸収され、米国の体制は一度組み直された。オレゴンで半導体用フォトレジストを作れるまでには、最初の拠点設立から10年を要している。伊藤毅雄社長が案じた周辺の技術や環境の壁は、会社を置いただけでは越えられなかったとみられる。海外進出は、同じ品質を別の土地で再現できるようにする仕事であった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
輸入品では間に合わない材料
東京応化工業は1936年に創業した化学メーカーで、1980年代前半には半導体用フォトレジストのトップメーカーとなっていた。ネガ型では国内シェアの7割強を握り、1983年11月期の売上高は252億3100万円であった。半導体用フォトレジストの市場は、当初その大半を米コダック社の製品が占めていた。しかし輸入品は輸送に時間がかかるうえ品質が劣化しやすく、買い手である半導体メーカーは、より品質の高いレジストを求めていた[1][2]。
レジストは半導体メーカーの設備や仕様ごとに作り分ける材料でもあった。同社は技術担当者が研究開発から商品化までを一貫して受け持つ体制をとり、生産品種は300種類以上に達していた。さらに、作られてからユーザーの手もとに届くまでの日数が短いほど良いという性質から、全国を数ブロックに分け、ブロックごとに生産拠点を設けて地域の需要を出来たてのレジストで満たす計画を、1984年までに立てていた[3][4]。
上場の年に語られた海外への慎重論
1986年7月30日、東京応化工業は東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。同年9月の講演で伊藤毅雄社長は、フォトレジスト関連で7割強、精製水酸化カリウムで9割を超えるシェアという寡占の状態を会社の特色に挙げている。一方、輸出比率は前年度で総売上高の3%程度にすぎなかった。日本の得意先を通じて海外の工場へ出荷される分は輸出に数えられず、同社の製品は統計に表れないまま海外の生産ラインへ流れていた[5][6]。
その伊藤社長は、海外への進出に慎重な見方を示していた。フォトレジストは周辺の技術や環境に左右されやすく、米国の工場へ持ち込んでただちにうまくいくものではない、というのが理由であった。1986年は日米間の半導体摩擦が決着へ向かう年でもあり、円高も重なって事業環境は読みにくかった。講演では、全体のバランスを取ったうえで徐々に進出することはあり得る、という言い方にとどめている[7][8]。
決断
工場より先に置いた拠点
慎重な発言から半年後の1987年3月、東京応化工業は米国カリフォルニア州にオーカ・アメリカ社を設立した。置いたのは工場ではなく、北米の半導体ユーザーへ直接売り、試作に応じるための会社であった。同年9月には英国にもオーカ(ユー・ケー)社を設けている。そして1989年4月、オレゴン州にT.O.K.インターナショナル社を設立し、米国に二つの現地法人が並ぶ体制とした[9][10]。
販売と技術支援を先に置いた順序には、伊藤社長が挙げた懸念がそのまま表れている。周辺の技術や環境に左右される材料であれば、まず現地の顧客がどの設備でどう使うのかを知る人と在庫を置くほうが先になる。国内で始めていた地域ごとの生産拠点の考え方を太平洋の向こうへ延ばすにも、供給の相手と工程を把握する時間が要った。1987年の設立は、その時間を確保するための一手であったとみられる[11][12]。
二社の統合と工場の稼働
1992年12月、T.O.K.インターナショナル社はオーカ・アメリカ社と合併し、社名をオーカ・アメリカ社とした。二州に分かれていた米国の機能は、この一社へ集約された。最初の設立から5年、二社目の設立からは3年での組み替えであり、進出の設計図がはじめから固まっていたわけではないことがうかがえる。販売の会社と、工場を持つ土地に置いた会社を、ひとつの指揮系統に収める作業であった[13][14]。
集約の半年後にあたる1993年5月、オレゴン工場が稼働した。同社にとって海外で初めての製造工場であり、米国内で作って米国内の顧客へ届ける体制がここで形になった。1987年の販売拠点設立から6年、伊藤社長が全体のバランスを取ったうえでの進出に触れてから7年が経っていた。1992年の二社統合は、この工場を動かす前に指揮系統と責任を一本化しておく作業であったとみることができる[15][16]。
結果
現地生産の完成と、集積地ごとの供給網
オレゴン工場が最初から半導体用フォトレジストを作れたわけではなかった。海外で初めての半導体用フォトレジスト生産工場が同工場に竣工したのは1997年5月で、米国拠点の設立から10年が経っていた。翌1998年1月には台湾東應化社を設立し、受託製造の集積が進む台湾へ材料を直接供給する体制を整えている。北米で確かめた作り方を、次の集積地へ移した[17][18]。
2006年1月には、オーカ・アメリカ社の社名をTOKYO OHKA KOGYO AMERICA, INC.へ改め、グループの呼称を「東京応化」で統一した。フォトレジストでの地位は保たれ、2007年時点の同社は世界で3番手につけ、営業利益率は14.6%であった。2020年にはレジストの世界シェアの9割を日本勢が占め、東京応化工業はその市場を牽引する一社に数えられている[19][20][21]。
- 日経ビジネス 1984年10月15日号「フォトレジスト深耕で巨人になった東京応化工業」
- 証券アナリストジャーナル 1986年10月号(24巻10号)「東京応化工業 高度化学技術の多角的展開による経営」(伊藤毅雄・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演要旨、1986年9月25日)
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- 東京応化工業 公式サイト「沿革」(https://www.tok.co.jp/company/history)
- 週刊東洋経済 2007年3月17日号「[特集]電機浮上す!儲かっているのはどこだ 4 半導体製造装置大解剖世界的な寡占化の恩恵を如実に反映」
- 週刊東洋経済 2020年10月24日号「【特集 半導体狂騒曲】 第1部 日本勢は生き残れるか 半導体製造工程を全解剖 装置と材料に強い日本勢」
- 証券 第38巻8号(1986年8月)