1987年の米国進出を、円高と半導体摩擦に迫られた海外シフトとして読むと、順序を取り違える。当時の輸出比率は総売上高の3%程度で、押し出されるほどの輸出量はそもそも無かった。この判断の芯は、劣化しやすい材料を顧客の量産ラインの近くで持つという供給の型を、国内で先に確かめてから米国へ延ばしたところにある。全国を数ブロックに分けて出来たてのレジストを届けるという1984年の計画が、その原型であった。
もっとも、延長は設計図どおりには運ばなかった。1989年にオレゴン州へ設けたT.O.K.インターナショナル社は3年でオーカ・アメリカ社に吸収され、米国の体制は一度組み直された。オレゴンで半導体用フォトレジストを作れるまでには、最初の拠点設立から10年を要している。伊藤毅雄社長が案じた周辺の技術や環境の壁は、会社を設立しただけでは越えられなかっただろう。海外進出は、同じ品質を別の土地で再現できるようにする仕事であった。