GoGo作戦は効率化運動という名前のわりに、実際には自らの測り方を変える決断だった。免許制と認可料率に守られた業界で、東京海上の位置は常に他社との比較でしか語られてこなかった。『損害保険業界には、1位はあっても2、3位はない』という言い方がそれである。だが比較で見ているかぎり、シェアが16.6%から15.6%へ8年かけて1ポイント低下しても、首位である事実は動かない。創業100周年という期限を切り、保険料収入5,500億円・マーケットシェア1%アップという自分だけの数字を置いたとき、東京海上は他社にではなく目標に対して未達となりうる会社になった。
もっとも、この運動が数字を動かしたと言い切るのは難しい。正味収入保険料は1977年3月期の3,090億円から1983年3月期の5,626億円へ伸びているが、自動車保険と積立保険が広がった時代の追い風と運動の効き目は分けられない。むしろ残ったのは型のほうだろう。1980年・85年・90年と3〜5年の計画を継ぎ、1982年からはGT運動を重ねている。後任の渡辺文夫氏が保険料6位・純資産2位という自社の順位を臆せず口にできたのも、社内が数字で自社を語る言葉を持ったからだと思われる。