大塚商会経営刷新構想「大戦略」の策定と、支店ごとに分かれていた顧客情報の全社一元化
人海戦術で伸びてきた商社は、売上高と社員数の連動をどこで断ち切ったか
- 概要
- 1993年、創業者の長男で取締役経営企画室長だった大塚裕司氏が、経営の刷新構想「大戦略(大塚経営戦略)」をまとめた。支店ごとに分かれていた顧客情報を営業から経理、サポートまで全社で一本化し、基幹系と情報系をPC-LAN上でつなぐ設計である。着手の動機は借入金の膨張への危機感にあった。
- 背景
- 大塚商会は訪問販売と支店網で顧客を積み上げ、売上高と社員数がほぼ同じ速さで伸びる会社であった。バブル崩壊で人を採っても売上高が伸びなくなり、借入金は年商の約半分にあたる868億円まで膨らんでいた。オフコンからパソコンへのダウンサイジングも同時に進んでいた。
- 内容
- 生産性の向上を目的に、支店ごとにばらばらだった顧客情報を全社で一元化した。基幹系と情報系をつないで全部をPC-LAN上で動かし、基本のマスターを1本にする構想である。売上計上基準の変更や在庫の一元管理、営業経費の管理徹底といった社内の仕組みの見直しも同時に進んだ。
- 含意
- 単体売上高は1993年の2,024億円から2001年に3,036億円へ5割増えた一方、社員数は5,451人から6,251人へ15%の増加にとどまった。人を増やした分だけ売るやり方から抜け、2001年のSPRや後年のAI活用へつながる土台となった。
財務の問題を、営業のやり方として解く
1993年の大戦略を、DXの先取りという言葉で読むと要点を外す。着手の理由は技術ではなく、年商の約半分にあたる868億円の借入金であった。借入金を減らすには売るか削るかしかないところで、大塚裕司氏が選んだのは、支店ごとに分かれていた顧客情報を一本にまとめ、同じ人数でより多く売れる形へ営業を組み替える道であった。財務の問題を、営業のやり方の問題として解いたところに、この構想の性格がうかがえる。
もっとも、効き目がすぐ出たわけではない。構想がまとまった1993年12月期の経常利益は11億5,000万円にとどまり、1998年12月期には創業以来の減益で17億円まで落ちている。大塚裕司社長自身、基幹系の取り組みを始めた年として1998年を挙げており、絵を描いてから会社の形が変わるまでには5年前後を要したとみられる。同じ時期に大塚實社長が人事評価制度の作り替えで現場を動かしていたことも、あわせて数えるべき要因といえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
売上高と社員数が同じ速さで伸びた会社
大塚商会は1961年の創業以来、支店網と訪問販売で顧客を積み上げ、売上高と社員数をほぼ同じ速さで増やしてきた。単体売上高は1990年に1,612億円、社員は4,373人。1992年には2,002億円・5,380人へ伸びたが、翌1993年は2,024億円・5,451人と、社員を増やしても売上高がほとんど動かない年になった。人を採れば売れるという前提が、この年に崩れていた[1]。
大塚裕司社長は後年、この時期を人海戦術の限界として振り返っている。売上高と社員数が連動する時代が1990年代前半まで続き、平成バブルの崩壊で人を採用しても売り上げが伸びなくなって業績が苦しくなった、という説明である。営業一人ひとりの勘と足に頼る売り方が、市場の伸びが止まると費用だけを積み増す構造へ変わっていた。1994年初めの陣容は営業約1,700人に対し保守などのサービス要員が1,800人で、売る人員と支える人員がほぼ同数に並んでいた[2][3]。
借入金868億円と、業界を襲ったダウンサイジング
もう一つの重荷が借入金であった。大塚裕司氏は1990年に一度大塚商会を退社し、1992年に復帰している。戻った当時について本人は、借入金が868億円に膨らみ年商の約半分を借りている状態だったと語る。さらに、それまでの成功体験が当てはまらなくなっているのに社内に危機感がなかったとも述べている。財務と意識の双方に穴があいていた[4]。
業界の地殻変動も同時に進んだ。オフコンからパソコンへのダウンサイジングで機器の価格は半値近くまで下がり、大塚實社長は1993年の取材で昨日までの専門家では通じないと語り、人事評価制度の作り替えに手を着けていた。1993年12月期の経常利益は前期比約2倍の11億5,000万円まで戻したものの、売上高2,000億円規模の会社としては低い水準にとどまった[5][6]。
決断
顧客情報を全社で一本にする
1993年、大塚裕司氏は経営の刷新構想「大戦略(大塚経営戦略)」をまとめた。本人の説明によれば、借入金が大きく膨らむなかで「このままだとまずい」という危機感を抱き、経営基盤を作り直すために描いたグランドデザインであった。狙いは生産性の向上に置かれ、支店ごとにばらばらだった顧客情報を、営業から経理、サポートまで全社で一元化することを軸に据えた[7][8]。
構想の中身は、当時としては先の話であった。基幹系と情報系をつないで全部をPC-LAN上で動かし、基本のマスターを1本にする——1993年の時点でこの絵はできあがっていたと、大塚裕司社長は後年に振り返っている。汎用機やオフコンで基幹業務を回すのが常識だった時期に、社内の情報基盤をパソコンの網の上へ移す設計であった。同社はこの時期、オフコン関連のソフト技術者のうち約100人をパソコン部隊へ移して再教育しており、社内の技術も同じ方向へ寄せていた[9][10]。
背骨を入れ替える社内改革と財務の締め直し
作り替えの対象は情報システムだけではなかった。バブル崩壊後に大塚商会へ戻った大塚裕司氏は、売上計上基準の変更、在庫の一元管理、営業経費の管理徹底など、右肩上がりを前提にした社内の仕組みを次々に見直した。本人はこれを生きながら背骨を入れ替えるに等しい改革と呼び、各論では反発も多かったと当時の取材に答えている。復帰後はまず経費削減と子会社の立て直しから手を着けたとも語っている[11][12]。
財務の締め直しも並行した。同社は売上高重視から利益重視へ方針を変え、有利子負債の削減と売掛金・在庫の圧縮でキャッシュフローを改善した。1999年初めに750億円あった有利子負債は1年足らずで150億円減り、1998年12月期に創業以来の減益で17億円まで落ちた経常利益は、1999年12月期に70億円の見込みまで戻した[13]。
結果
売上高と社員数の連動が切れた
効き目は人数と売上高の関係に表れた。単体売上高は1993年の2,024億円から2001年に3,036億円へ5割増えた一方、社員数は5,451人から6,251人へ15%の増加にとどまった。人を増やした分だけ売るやり方から、この8年で抜け出している。売上高が1兆円を超えた2024年でも社員は7,949人で、1993年比の売上高4.9倍に対し人員は1.5倍であった[14]。
社外からの評価も変わった。大塚商会は2000年7月に東京証券取引所市場第一部へ上場する。上場時点で法人顧客は25万社に達し、サポート契約は31万7,000件を数え、導入後の保守やサプライを担うサービス&サポート事業が1999年12月期の営業利益の84%を稼いでいた。機器を売り切る商社から、契約を積み上げて稼ぐ会社へと収益の形が入れ替わっていた[15][16]。
SPRへの接続と、構想から実装までの距離
一元化した顧客情報は、次の仕掛けの土台になった。2001年、大塚商会は顧客管理と営業支援を一体化したSPR(セールス・プロセス・リエンジニアリング)を始める。大塚裕司社長はこれを科学的な営業ツールと呼び、大戦略とSPRを進めた結果、社員数よりも売上高の伸びが上回ったと説明している。蓄積した取引データは後にAIでの解析へ進み、社内では7種類のAIが動いていると同社長は述べている[17][18]。
数字の管理にも同じ発想が及んだ。本社で与信管理を集中させる仕組みを1990年代後半に入れて以降、取引先の倒産で資金を回収できない事故率は0.1%未満で推移し、正社員1人当たりの営業利益は2008年までの10年で13倍になった。ただし大塚裕司社長が基幹系の取り組みを始めた年として挙げるのは1998年で、構想から実装までには5年前後の開きがある[19][20]。
- 大塚商会「売上高(単体)と社員数の推移」
- 日経ビジネス 1993年7月26日号「編集長インタビュー 大塚実氏[大塚商会社長] 昨日より明日の専門家目指せ 今は冬を越し好況に備える時」
- 日経ビジネス 1994年3月21日号「大塚商会 パソコン店頭販売が好調 得意の直販と相乗効果」
- 日経ビジネス 1999年12月6日号「大塚商会、2000年夏にも東証1部上場へ! IT産業の「隠れた大物」、強い顧客網生かしソリューションで攻勢」
- 証券アナリストジャーナル 2000年8月号「企業 大塚商会(2000年7月21日・東京)」
- 週刊東洋経済 2001年11月17日号「[トップの履歴書]大塚商会社長 大塚裕司 父を超え、理想の会社を作る」
- 週刊東洋経済 2008年11月8日号「特集 ニッポン経済 大波乱 経営者に聞く 景気最前線 大塚裕司 大塚商会社長」
- 週刊東洋経済 2025年6月14日号「トップに直撃 大塚商会 社長 大塚裕司「生産性にこだわりながら顧客に寄り添い続ける」」
- 週刊BCN+ 2021年10月20日「INTERVIEW 大塚商会 代表取締役社長 大塚裕司 30年前に着手したDX 中小企業の変革を支える責任がある」
- 日経ビジネス電子版 2023年9月22日「大塚商会・大塚裕司社長「DXの原点、30年前に着想」」
- 週刊エコノミスト 2024年7月30日号「編集長インタビュー 大塚裕司 大塚商会社長」