カナダの多国籍企業エリー社(ETP)買収による海外拠点の一挙獲得

1980年実施

CBブームの資金を抱えたセラミックコンデンサーの雄は、なぜ北米・欧州に拠点を持つ多国籍企業をまるごと買ったか

時期 1980年3月
意思決定者 村田昭(社長)
論点 海外展開と多国籍化
概要
1980年、村田製作所が創業者・村田昭社長の主導で、カナダに本社を置く多国籍電子部品メーカー、エリー・テクノロジカル・プロダクツ(ETP)を買収した経営判断。株式の3分の2をまず取得し、5年以内の完全子会社化を契約した。米国・カナダ・西独・メキシコの工場と、フランス・イタリアの販売会社を一挙に引き受けた。
背景
CBトランシーバーの世界的ブームで得た高株価を元手に、村田は国際金融市場で転換社債などを発行し、資金の余力を蓄えていた。円高差損とセットメーカーの値引き攻勢で1976〜77年に収益が落ち込んだのち、業績は回復に向かい、海外拠点の拡張へ振り向ける余裕があった。
内容
ETPは資本金約51万ドル、年間売上高約5,000万ドルの中堅で、昭氏が1957年頃から付き合う取引先だった。1979年5月に全株取得の話がまとまり、村田は1981年3月末に海外売上高比率を40%から50%へ、1983年度に連結売上高1,000億円へ引き上げる目標を掲げた。
含意
ETPの主力は産業用・軍事用で村田の民生用部品とほとんど競合せず、買収は重複のない拠点の追加だった。1961年の対米輸出に始まる海外展開の総仕上げとして、対米輸出頼みから多極的な生産・販売網へ移り、後年の円建て統一戦略を支える土台になった。
筆者の見解

低賃金を追わない海外化という選択

この買収の核心は、安い労働力を求める海外進出とは逆の発想にあった。当時の電子部品メーカーの多くは、円高と人件費を避けて低賃金の国へ生産を移した。村田昭氏は、産業用・軍事用を主力とし自社製品とほとんど競合しないETPをまるごと引き受け、北米・欧州・中南米の拠点と顧客を一度に手にした。CBブームの高株価で蓄えた資金と、売りに出たETPという偶然が噛み合い、対米輸出頼みから多極的な生産・販売網への移行を、一つの買収で仕上げた。

多極的な販売網は、その後の経営を支えた。村田は1979年に輸出取引の96%を円建てに統一する逆張りに踏み切るが、対米輸出だけに寄りかからない海外拠点が、その為替戦略を裏づけた。一方で昭氏自身、人材の育成と、もうかる体質づくりを次の課題に挙げていた。売りに出た相手を買い切る大胆さと、競合しない相手を選ぶ慎重さの同居は、2010年代以降にVTIやpSemiなど海外技術を相次いで買収する村田の下地になった。買える時に、競合しない相手をまるごと買う——この判断が、部品専業のまま世界へ広がる道を開いた。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

収益の乱高下とCBブームの資金

村田製作所は1970年代半ばに収益の激しい振れを経験した。1975年上期には単独で7億5,200万円の欠損を出したが、下期には一転して7億5,900万円の経常利益を計上する。市民バンド(CB)トランシーバーの世界的なブームが需要を押し上げ、1977年3月には史上最高の利益をあげた。その後は円高とセットメーカーの値引き攻勢で収益が再び揺れたものの、村田の業績は健闘した[1]

収益が振れるなか、昭社長は好調時に財務の備えを固めた。CBブームで株価が1976年初から上がり、同年8月に1,900円の史上最高値をつけると、昭氏はこの高株価を元手に海外市場から資金を集める。1976年8月にシンガポールで預託証券300万株、翌年3月にコンチネンタル預託証券400万株、1978年8月にドイツマルク建て転換社債4,000万マルク、1979年7月にスイスフラン建て転換社債6,000万スイスフランを発行した。同業他社が舌を巻いたこの資金調達が、買収の原資となった[2]

対米輸出から築いた海外の足場

村田の海外展開は1961年の対米輸出に始まる。1963年にニューヨーク駐在員事務所を置き、1965年に米国の販売会社へ改めた。米国では将来性を見込んで自動車用に的を絞ったが、GMのデルコ部門はバイアメリカン政策をとり、採用まで5年を要した。GMが日本製電子部品の本格購入に転じると、カーステレオ用セラミックフィルターの99%を村田が納めるに至った。買収を検討した時点で、海外売上高比率は約4割に達していた[3]

決断

売りに出たエリー社を、まるごと買う

買収は昭社長が自ら動いて決めた。ETPは昭氏が1957年頃から付き合う米国の有力電子部品メーカーで、1977年頃に売りに出ているとの噂を聞いた昭氏は、翌年夏に現地へ赴き工場を一つ譲ってほしいと持ちかけた。だが先約があり、この時は断られる。その後ETPの社長とマネジャーがオーナーから会社を買い取り、1979年5月に昭氏が再び交渉に臨むと、それならいっそ全部買ってくれ、と話がまとまった[4]

村田はまずETP株式の3分の2を取得し、5年以内に完全子会社にする段取りで進めた。ETPは資本金約51万ドル、年間売上高約5,000万ドルの中堅で、米国・カナダ・西独・メキシコに生産・販売拠点を持つ多国籍企業だった。この買収で村田グループは米国・シンガポール・香港・台湾・西独の拠点に中南米市場を加え、北米・欧州の販路を広げる。ETPの主力は産業用・軍事用で、村田の民生用部品とほとんど競合しなかった[5]

低賃金ではなく相性を選ぶ

昭氏が重んじたのは相手との相性だった。産業用の多品種少量生産は輸出できめ細かな対応が難しく、現地生産を欠かせない。その現地生産で難しいのは品質観の違いで、昭氏はETPを、我々の考えをよく理解してくれる会社と見ていた。円高や人件費を避けて低賃金の国へ生産を移す同業とは違い、競合せず考えの通じる相手を選んだ買収だった[6]

結果

掲げた目標と規模の拡大

買収は1980年9月に成立し、村田はETPの米国・カナダ・西独・メキシコの工場と、フランス・イタリアの販売会社を傘下に収めた。1961年の対米輸出から数えて約20年、対米輸出だけに頼らない多極的な生産・販売網が整った。昭社長は買収の前に、1981年3月末までに海外売上高比率を40%から50%へ引き上げ、1983年度に連結売上高1,000億円をめざすと掲げていた[7]

目標に掲げた規模は現実になった。単体売上高は1980年3月期の550億円から、1985年3月期には1,573億円へ伸び、5年で3倍近くに達した。1984年1月の誌面は、家電各社の値引き要求を受けながらセラミックコンデンサー1本1円60銭で高収益をあげる村田を伝え、1984年3月期に売上高1,077億円・経常利益115億円を見込むと記した。海外拠点の拡張と部品専業の徹底が、拡大と高収益を両立させた[8]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1980年3月10日号「買収軸に大胆な“多国籍化”総仕上げ」
  • 日経ビジネス 1984年1月9日号「村田製作所 部品一筋、1個1円60銭で稼ぎまくる」
  • 村田製作所 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
  • 会社年鑑(各年版)