村田製作所輸出取引の円建てへの統一と、生産設備まで自前で開発する国内生産の維持
円高のたびに工場を海外へ移すか、国内に残すか——為替の振れを誰が負うかをめぐる逆張り
- 概要
- 円高が進むたびに電子部品各社が生産を海外へ移した1990年代前半、村田製作所は輸出取引を円建てに統一したまま国内生産を維持し、原料と生産設備を自前で作ることで原価を下げる道を選んだ経営判断。1993年12月、村田泰隆社長は工法の独自性と組織改革でこの路線を固めた。
- 背景
- 1993年3月期は円高とAV機器の不況で連結売上高2,720億5,400万円・3%の減収、税引き前利益454億200万円・12%の減益に沈んだ。主力のチップ積層セラミックコンデンサーは平均単価1円前後で毎年2〜3%の値下げ要求を受け、京セラなどの参入でシェアも下がっていた。
- 内容
- 円建て統一は1993年の円高で始めたものではなく、第2次石油ショック直後の1979年以来、輸出の96%が円建てであった。連結で国内生産が8割を占め、原価の8割が円で発生する構造を、請求通貨と一致させた。材料はすべて国内で焼き、主要な生産設備も社内で開発した。
- 含意
- 1994年11月に山一証券経済研究所が「1ドル40円でも増益」と試算し、1995年3月期は連結純利益が前期比54%増で過去最高を更新した。材料から設備までを内に抱える形は30年後も続き、2025年3月期の総生産のうち約65%を国内で賄う体制につながった。
買える力ではなく、作る力に賭けた為替戦略
輸出を円建てに統一するとは、為替の振れを顧客の側に負わせることである。それが通ったのは、セラミックフィルターで世界シェア85%を握り、切り替える先が顧客に無かったからでもあった。ただ村田泰隆氏が語った理由は市場での立場ではなく、工法の独自性であった。機械を買わずに作り、材料から自分で焼く。同業が低賃金の国へ工場を移すなかで国内に残れたのは、原価の発生地と請求の通貨をそろえれば為替が商売の前提から外れるという読みがあったからだとみられる。
もっとも、この型は値下げ圧力を消したわけではない。チップ積層セラミックコンデンサーが毎年2〜3%の値下げ要求を受けた事情は、30年後も1銭をめぐる攻防として続いている。2025年からの中期経営計画では営業利益率の目標を前の中計の20%から18%へ下げ、汎用品の価格競争にも付き合う道を選んだ。工法を囲い込んで得られるのは値段を決める力ではなく、真似されるまでの時間であった。その時間のうちに次の世代を作り続ける反復が、40年以上繰り返されてきたとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
減益のなかで最も浅かった落ち込み
1993年3月期の村田製作所は、連結売上高2,720億5,400万円で3%の減収、税引き前利益454億200万円で12%の減益であった。円高とAV機器の不況が重なり、電子部品各社が大幅な減収減益に沈んだ年であった。モルガン・スタンレー証券の山本高稔氏は、村田を「電子部品業界では最も減益幅が小さかった」と評している。減益であっても、同業のなかでは持ちこたえていた[1]。
持ちこたえた裏で、値下げ圧力は絶えなかった。全売上の3分の1弱を占めるチップ積層セラミックコンデンサーの平均単価は1円前後で、毎年2〜3%の値下げ要求を受けていた。新規参入した京セラなどの攻勢で、市場シェアは5年前に比べ10%近く下がっていた。単価の安い単品部品を積み上げる商売である以上、原価をどこで削るかが収益の生死を分けていた[2]。
同業が生産を海外へ移すなかで
円高とセットメーカーの海外移転に合わせ、部品メーカーは相次いで生産を海外へ移した。村田も1993年2月にムラタ・エレクトロニクス・シンガポールの新工場を完成させ、チップ積層セラミックコンデンサーの増産を始めている。ただし泉谷裕専務は、これを「需要のあるところで生産し販売する」という従来の方針を貫いただけだと説明した。安い労働力を追った移転ではなかった[3]。
実際、売上高の50%が海外である一方、海外生産比率は20%にとどまっていた。海外生産を担当する村田恒夫常務は、高度な技術が要るため「セラミックス部品の原材料は当分海外で生産できない」と言い切り、材料はすべて国内で焼いた。後工程の部品組み立ても自動化されており、生産拠点を海外へ移しても労働コストの安さは享受できない。「かえって国内で生産した方が安上がり」であった[4]。
決断
為替の振れを顧客の側に置く
輸出取引を円建てに統一したのは、1993年の円高に対処するためではなかった。村田泰隆社長は「円建ては、今回の円高のために手を打ったのではありません。15年ほど前の石油ショックの時代に、円建て、ドル建てに分かれていた取引形態を円建てに統一しました」と述べている。第2次石油ショック直後の1979年以来、輸出の96%が円建てで、為替の振れは顧客の側に置かれていた[5][6]。
狙いは二つあった。為替で収益が大きく変動しないようにすることと、営業の第一線まで円でのコスト意識を伝えることである。連結でみれば国内生産が8割、海外生産が2割で、原価の実質8割は円で発生していた。原価の通貨と請求の通貨をそろえれば、為替の読みは商売の前提から外れる。工程ごと、子会社ごとに独立採算を徹底してきた発想が、円建て取引にもつながっていた[7][8]。
機械を買わずに、作る
もう一つの柱は、生産設備を自分で作ることであった。村田の生産設備はほとんどが社内で開発した独自の機械で、ごく一部だけを外部に発注していた。機密の管理は厳密で、外部メーカーに発注した機械が完成してトラックが工場に着いたとき、村田は外部の社員が工場内へ入るのを嫌い、自社のトラックを高速道路のサービスエリアへ向かわせ、そこで機械を受け取ったと伝えられている[9]。
泰隆社長は、その理由を製品の寿命から説いた。新製品を開発して特許をとっても、2〜3年もたてば似たような商品が出てくる。外見や機能がほぼ同じでもコストが違うのは、商品の工法に違いがあるからである。新商品と工法の独自性が両輪でそろって初めて、為替の変動を受けない企業になれるという見方であった。1993年5月には滋賀県野洲に55億円を投じ、外部調達だったガリウムひ素半導体の内製に踏み込んだ[10][11]。
結果
「1ドル40円でも増益」という評判
1994年11月、山一証券経済研究所が「1ドル40円でも増益」と試算し、新聞や雑誌がこれを取り上げた。泰隆社長は「あくまで1つの試算」と留保したが、円高で本当に困る企業が多いなかで評判は広がった。1995年3月期の実績は売上高2,609億円で10.9%増、経常利益307億円で20.6%増、連結純利益は前期比54%増となり、3年ぶりに過去最高を更新した[12][13]。
顧客の側から見ると、村田の原価は測れなかった。NECの西原寿之モバイルコミュニケーション事業部長は、何度も工場を訪ねて生産ラインを見たうえで「村田さんの場合、素材を作る工程から社内でやっているので、いくらコストがかかっているのか、まったく分からない。極端な話、原料に混ぜる水にノウハウがあるのかもしれない」と語った。売上高材料費比率は30%以下で、他の製造業に比べて際立って低かった[14]。
30年後も続いた垂直統合
材料から設備までを内に抱える形は、30年後も変わっていない。中島規巨社長は「垂直統合のモデルこそが、技術的なリードを保てる最大の理由だ」と述べる。福井村田製作所の武生事業所では、積層シートを切る機械から焼成後の個体に銅を塗る装置まで、工程の構成がほぼすべて自社製で、制御プログラムまで内製している。焼成の工程については「たとえ社員でも、見られる人は限られる」と説明された[15]。
国内で作る比率も保たれた。中島社長は2025年に、総生産の約65%を国内で賄い、雇用の面でも重要な位置にあると述べている。MLCCの世界シェアは約4割で、2025年3月期の連結売上収益は1兆7,433億円、営業利益は2,797億円であった。ただし単価はおおむね1個1円以下で、営業の経験者は「商談はつねに1銭をめぐる攻防だった」と振り返る。値下げ圧力そのものは消えていない[16][17]。
- 日経ビジネス 1993年12月6日号「村田製作所 ニーズ先取りの国内生産 競争力テコに円建て輸出」
- 日経ビジネス 1995年6月12日号「編集長インタビュー 村田泰隆氏[村田製作所社長]商品だけでなく工法にも独創『ブラックボックス化』で勝つ」
- 日経ビジネス 1995年10月2日号「独自技術こそ企業の命 村田製作所、生産設備まで自前開発」
- 日経ビジネス 1998年5月11日号「危機を糧にする 村田製作所 1個1円以下を積み重ね高収益」
- 週刊東洋経済 2025年7月19日号「技術経営×村田製作所 独自ノウハウは徹底『ブラックボックス化』 電子部品の王者、独走MLCC生む『超垂直統合』の神髄」
- 週刊東洋経済 2025年7月19日号「Special Interview 村田製作所社長、JEITA電子部品部会長 中島規巨」
- 会社年鑑(各年版)