パンツ型紙おむつ「ムーニーマン」とスピード開発体制
価格競争に挑まず、ユニ・チャームは紙おむつ首位をどう守り抜こうとしたか
更新:
- 概要
- 1992年に投入したパンツ型紙おむつ「ムーニーマン」を軸に、ユニ・チャームが使用者観察・製造マシンの内製化・工程の日次管理からなるスピード開発体制を整え、価格競争に挑まず製品力で紙おむつ首位を守り抜こうとした経営判断。
- 背景
- 紙おむつ市場は購買層が約30カ月で入れ替わるため首位が目まぐるしく交代する激戦で、1977年参入のP&G、1983年参入の花王と、ユニ・チャームの間で1980年代を通じてトップが入れ替わっていた。価格を崩せば体力に勝る巨人にかなわないという読みがあった。
- 内容
- 家庭訪問でおむつを換える光景を観察して生まれたパンツ型「ムーニーマン」を1992年に発売。約100人の開発者・調査員をネットワークで結んで遅れ工程を日々つぶし、1994年に香川県へテクニカルセンターを開設した。過去の情報流出を教訓に、コスト増を覚悟して製造マシンの内製化にも踏み切った。
- 含意
- 1994〜95年に同社は紙おむつシェアで独走し、2位以下を20ポイント以上引き離した。ただ品質で上回る製品が出れば座を奪われる市場で、開発競争に終わりはなく、真似されるまでの時間を買い続ける走りが常態となった。
価格でなく時間を買う競争
ユニ・チャームがとった構えは、価格ではなく製品で戦うという一点に貫かれていた。首位が30カ月で入れ替わる市場で、値下げの誘惑を断ち、使用者の暮らしを直接観察して次の一手を先に打つ——この地道さが、規模で勝る花王・P&Gに差をつけた源泉であったとみることができる。立ったまま換えられるという発想が、実験室ではなく家庭の観察から出てきた点に、この会社の開発の性格がよく表れている。
製造マシンの内製化は、その象徴であった。真似される速さを前提に、真似されるまでの時間そのものを買うという判断は、模倣がすぐ追いつく市場での競争のかたちをよく示している。一度の勝ちが続かないと分かったうえで走り続ける開発体制は、後年に高原豪久社長が掲げる「形あるものは真似される」という発想の原型とも重なってみえる。首位を守るとは、この市場では立ち止まらないことと同義であったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
首位が入れ替わる激戦市場
紙おむつ市場は、首位が目まぐるしく入れ替わる激戦であった。戦いの火ぶたが切られたのは1977年で、P&Gが日本市場へ本格参入して一気に9割のシェアを握った。1981年にユニ・チャームが参入して1983年にトップを奪い、同年に花王が参入して1987年にトップへ立つ。以降も首位はP&Gとユニ・チャームの間で入れ替わった。購買層がほぼ30カ月で入れ替わるため、首位がいつ代わっても不思議はないと業界では言われていた[1]。
そのなかでユニ・チャームは、売上規模で花王の5分の1ながら紙おむつ首位を保っていた。1994年のシェアは43.9%で、2位のP&Gに26ポイント、3位の花王に29ポイントの差をつけていた。価格競争には挑まず製品力で勝負するのが同社の戦略であった。「価格を下げるほど販売額は見込めるが、価格競争に巻き込まれたら、体力のある花王やP&Gにはかなわない」と、マーケティング本部長の岡部高明常務は語っていた[2]。
決断
使用者観察から生まれたパンツ型
1992年、同社は新型のパンツ型紙おむつ「ムーニーマン」を投入した。着想は、開発担当者が家庭訪問でおむつを換える光景を観察したことから生まれた。満1歳前後から赤ちゃんは立ち始め、眠っている時以外はなかなか横になろうとしない。仰向けでしか換えられない従来型に対し、立ったままでも換えられるパンツ型を作るという発想が、そのままヒットにつながった。近所の赤ちゃんを招く100室ほどの「ファームルーム」での使用者観察を、同社はアイデアにたどり着くための最短の方法と位置づけた[3]。
開発のスピードを上げるため、約100人の研究・開発者と消費者調査員がネットワークで結ばれ、遅れの出た工程を日々チェックして致命的な遅れになる前に手を打った。1994年4月には香川県にテクニカルセンターを開設。さらに、コストアップを覚悟で製造マシンの内製化にも踏み切った。1987年発売の「ウルトラムーニー」で立体裁断のマシン情報が流出し優位が続かなかった教訓から、ライバルが追いつく時間を引き延ばす狙いであった。ムーニーマンでは、製造しにくい形だけにマシンを完成させるまで4万枚以上の図面を描いた[4]。
結果
成果主義が支えた開発の速さ
スピード開発を人事の面から支えたのが、徹底した成果主義であった。同社は社員にストックオプションを付与し、課長以上の賞与には最大3倍もの格差をつけて、成果を上げた者に報いる仕組みを敷いていた。市場が値崩れに向かうなかでも価格に頼らず、全社を挙げて売り場を回り、製品と販促で押し返す——1997年に「非常事態宣言」を出して防戦に回ったときも、営業も間接部門も一体で動いた背景には、この報酬制度に裏打ちされた現場の動員力があった。単品に集中する会社が価格ではなく製品で戦う以上、開発と営業の双方で人を全力で走らせる報酬の設計が要った[5]。
独走と、続く開発競争
こうしたスピード開発は数字に表れた。1995年5月のシェアは、ユニ・チャームが46.2%、花王が17.1%、P&Gが13.8%で、同社が独走した。過去2回の首位転落では、いずれも半年かからず新製品を投入してキャッチアップしていた。「新製品を出してもすぐに追いついてくる。開発スピードはうちの倍はあるのでは」と、追う花王の担当者が舌を巻いたと伝えられた。首位を守るのは価格ではなく、次の一手を先に出し続ける開発の速さであった[6]。
ただ、首位は安泰ではなかった。花王は数カ月以内により柔軟な開発・生産体制へ切り替えるとされ、首位奪還へ戦略を練り直していた。「もし油断したら、首位の座は簡単に奪われる」と、第1商品開発部長の伊賀上隆光氏は気を引き締めた。品質面で上回る製品が出れば座を奪われる市場で、開発競争に終わりはない。真似されるまでの時間そのものを引き延ばす走りを、同社は続けざるを得なかった[7]。
- 日経ビジネス 1995年7月17日号「花王しのぐスピード開発。ユニ・チャーム、紙おむつを科学する」
- 週刊東洋経済 1998年4月4日号「強い会社・伸びる会社 ユニ・チャーム 最高益下の非常事態宣言」