豪州乳業首位・2位を相次ぎ買収し、乳製品市場を制した巨額M&A

成熟する国内酒類の先に、なぜ加藤壹康社長は総額3,800億円を豪州の牛乳に投じたのか

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時期 2008年8月
意思決定者 加藤壹康 社長
論点 国内酒類・飲料事業の成熟と海外への成長軸
概要
2007年11月に豪州の乳業・飲料首位ナショナルフーズを2,980億円で、2008年8月に子会社化した同社を通じて2位デアリーファーマーズを840億円で相次ぎ買収し、キリンホールディングスがオーストラリアの乳製品市場で圧倒的地位を築いた経営判断。加藤壹康社長の主導によるアジア・オセアニア戦略の中核であった。
背景
国内では少子高齢化とビール系飲料の需要減で酒類・飲料事業の頭打ちが続いていた。キリンは長期構想「KV2015」で2015年に売上高3兆円を掲げ、2012年までに総額6,000億円をM&Aに充てる方針を示しており、成長市場であるアジア・オセアニアに活路を求めていた。
内容
ナショナルフーズはフィリピンのサンミゲルから取得し、牛乳・ヨーグルト・ジュースで首位を握る足場とした。続くデアリーファーマーズ買収で牛乳シェアは37%から62.5%へ跳ね上がり、原料調達と流通交渉力を一気に強めた。総投資額は約3,800億円に達した。
含意
効率よりも成長市場での基盤確立を優先した攻めの買収で、加藤壹康社長は「キリンの歴史で最大規模」と位置づけた。だが豪州の乳飲料市場はその後スーパーのPBに価格決定権を握られ、事業は伸び悩む。2021年、キリンは豪州の乳飲料事業を売却して撤退へ向かった。
筆者の見解

制覇と撤退のあいだ

この判断の核心にあったのは、国内で稼いだ資金を成熟市場に留め置くことへの危機感であった。少子高齢化でビールが細っていくなかで、成長するアジア・オセアニアへ資金を振り向け、首位と2位を同時に押さえて市場を一気に制するという発想それ自体は、当時の攻めの機運のなかで理にかなった選択とみることができる。円高という追い風も、日本企業が海外の大型資産を買う好機に映っていた。ただ、市場シェアの高さと事業の稼ぐ力とは別物であり、豪州の乳飲料が置かれた流通構造への読みが十分であったかは、後から問われる点として残った。

その後の展開は、買う判断よりも買った後に束ねる判断のほうが難しいことを示している。首位ブランドを並べても、価格決定権が小売の側にある市場では利益が残りにくく、制覇の果実は思うように実らなかった。約10年をかけて制した市場を約10年で手放した軌跡には、成長を海外に求める戦略の正しさと、個別市場の構造を見極める難しさとが同居しているとみられる。海外M&Aを成長の柱に据えたキリンにとって、この豪州乳業の経験は、後のヘルスサイエンス領域への投資判断を測る一つの物差しになったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

成熟する国内酒類と、海外への活路

キリンの主力である国内の酒類・飲料事業は、少子高齢化とビール系飲料の需要縮小を背景に、伸びしろの乏しい市場になりつつあった。同社は長期経営構想「KV2015」で2015年に売上高3兆円を掲げ、成長の多くを海外に頼る絵を描いていた。その手段として据えたのが海外M&Aで、2012年までに総額6,000億円を投じる方針を対外的に示し、成長著しいアジア・オセアニアへ資金を振り向けようとしていた[1]

買収を進めた2008年12月期の連結売上高は2兆3,035億円、営業利益は1,460億円であった。国内の稼ぎ頭は依然として酒類・飲料であったものの、その市場が縮小に転じるなかで、本業で積み上げた資金をどこへ置くかが経営の焦点になりつつあった。円高で日本企業の購買力が相対的に高まった時期でもあり、海外買収を後押しする追い風になっていた[2]

ナショナルフーズという足場

豪州進出の足場は、2007年11月に決めたナショナルフーズの買収であった。キリンはフィリピンのサンミゲルからこの乳業・飲料首位企業を2,980億円で取得し、加藤壹康社長はこれを「キリンの歴史で最大規模」と位置づけた。ナショナルフーズは牛乳で46%の首位を握り、ヨーグルトやデザート、ジュースでも上位を占める、豪州の食卓に深く入り込んだ企業であった[3]

買収の相手はフィリピンの食品最大手サンミゲルで、ナショナルフーズは豪州・ニュージーランドのほかマレーシアやインドネシアにも24の生産拠点を持っていた。牛乳で46%、ジュースで27%という首位ブランド群を一挙に手にした点に、この一手の狙いがあった。ただ発表の時点で買収額の全容は公表されず、原料高が同社の足元の収益を圧迫し始めていた[4]

決断

デアリーファーマーズ買収と乳製品市場の制覇

2008年8月25日、キリンは子会社ナショナルフーズを通じて、豪州乳業2位のデアリーファーマーズを買収すると発表した。取得額は有利子負債約199億円を含む約840億円(8.84億豪ドル)で、首位と2位が一つになることで牛乳シェアは37%から62.5%へと跳ね上がる計算であった。ヨーグルトなど主要製品でも過半を握り、豪州の乳製品市場で圧倒的な地位を築く構図が描かれた[5]

二つの買収を合わせた投資額は総額約3,800億円に達した。目先の採算だけを見れば重い金額で、原料である生乳の高騰が響き、ナショナルフーズの今期の営業利益貢献は当初計画の29億円から一転して12億円のマイナスへ沈んでいた。それでも首位と2位を押さえて市場を制すれば、原料調達は有利になり流通への発言力も増すとみて、キリンは基盤固めを優先した[6]

アジア・オセアニアという成長軸への賭け

一連の買収の背後には、国内酒類の頭打ちを海外で埋めるという明確な意図があった。加藤壹康社長にとって豪州の乳製品は、アジア・オセアニアで事業を育てる足掛かりであり、既に資本参加していた同国ビール2位のライオンネイサンと合わせて、酒類・飲料・乳製品を束ねる拠点を築く構想であった。3社間でのシナジー創出が、豪州事業の次の課題として意識されていた[7]

キリンは買収後の統合も見据え、グループの海外幹部を集めた研修や役員への英語研修を進めるなど、人材の融合に手を打ち始めていた。もっとも、短期の利益を追う欧米流の経営と、長期の視点で投資する日本流との間には隔たりがあり、その溝をどう埋めるかが問われていた。買った後にどう束ねるかという難しさが、巨額買収の裏側に横たわっていた[8]

結果

ライオン統合と豪州事業の一体化

豪州での基盤づくりは、買収の翌年にさらに一歩進んだ。キリンは2009年10月、資本参加していたライオンネイサンの残る株式を取得して完全子会社化し、同社とナショナルフーズを持株会社の傘下で統合した。統合会社はライオンネイサン・ナショナルフーズと名を改め、後にライオンとして酒類・飲料・乳製品を一体で担う、豪州最大級の食品飲料グループへとまとまっていった[9]

しかし乳飲料事業の収益は、当初の思惑どおりには伸びなかった。豪州では大手スーパーのプライベートブランドが乳飲料市場の価格決定権を握り、値下げ圧力が続いた。ライオンは2010年度に飲料事業でのれん代388億円を減損処理し、2017年度の飲料事業は売上高1,534億円に対して営業利益がわずか54億円にとどまるなど、酒類事業との差は開いていった[10]

乳飲料事業の売却と撤退

伸び悩む乳飲料事業を、キリンは2018年に売却の検討対象とした。2019年には中国の乳業大手・蒙牛への売却で合意したものの、豪中関係の悪化を背景に豪州の外資審査当局が承認に難色を示し、2020年8月にこの契約は白紙へ戻った。相手を探し直したキリンは同年11月、豪州の乳業大手ベガチーズへ乳飲料事業を売却する契約を結び、2021年1月に譲渡を完了させた[11]

2007年から2008年にかけて約3,800億円を投じて制した豪州の乳製品市場は、およそ10年を経て手放す事業となった。想定していた飲料の統合戦略が現地の流通構造の前に狂い、乳業は成長どころか収益の重荷へ転じていた。制覇という言葉で語られた買収が、撤退という結末で締めくくられた点に、この判断の帰結が表れている[12]

出典・参考

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