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海外調達50%への構造転換と円高危機からの再建

1989年実施

4期連続営業赤字の「赤字肯定体質」を、渡辺英二社長はどう作り替えたか

時期 1989年4月
意思決定者 渡辺英二(社長)
論点 円高への構造対応と海外調達改革
概要
1985年のプラザ合意後の円高で4期連続の営業赤字に陥り、社内に「赤字受注もやむを得ない」という空気が広がった日揮が、1988年6月に就任した渡辺英二社長のもとで海外調達比率を10〜20%から50%へ引き上げ、円高を逆手に取る構造へ組み替えた経営判断。
背景
売上の6〜7割を海外で稼ぎ、代金の多くをドルで受け取る日揮は、プラザ合意後の円高で1986年3月期から4期連続の営業赤字に転落した。資材調達が国内に偏り、円高では海外案件の建設費が膨らむ構造で、社内には赤字受注を当然とする空気まで広がった。
内容
国際事業本部長を務めた渡辺英二社長は、海外調達を円高乗り切りや赤字案件からの足抜け策から、国際競争力を高める手段へ切り替えた。海外調達比率50%を目標に、製造経験の浅い企業や安価なメーカーの発掘、技術供与、調達先データベースの構築、海外拠点の拡充を並行して進めた。
含意
円高という外部環境を為替予約で受け流すのではなく、調達と拠点の構造そのものを組み替えて受け止めた点に特徴がある。1989年度の受注高は前年比2.8倍の6,010億円、1991年3月期に5期ぶりの営業黒字、1993年3月期には売上高が初の4,000億円台に達し、千代田化工建設・東洋エンジニアリングとの差を広げた。
筆者の見解

カネ・モノ・ヒトで受け止めた円高

この決断の核心は、円高という外部環境を為替予約で受け流すのではなく、調達と拠点の構造そのものを組み替えて受け止めた点にある。代金をドルで受け取り、そのドルで外国企業から機材を買えば、為替差損は生じない。渡辺英二社長は、カネ(為替)だけでなくモノ(機材調達)、さらにヒト(設計の海外移管)まで円高対策の対象を広げ、円で発生するコストのドル換算額が膨らむ弱点を内側から削った。赤字受注を当然とする空気を、方針の号令ではなく、80億円から340億円へという実績とノウハウの積み上げで裏返した点に、この改革の性格がうかがえる。

もっとも、海外調達で「作るコスト」を下げても、「どこから受注するか」というリスクは残った。1998年、日揮はアジア通貨危機で受注が急減し、再び2期連続の最終赤字に転落する。受注先の地域分散という課題は、調達戦略とは別の次元で経営に残された。それでも、外部環境に業績を委ねきらない自力を組織へ植えつけた点で、1980年代後半の構造転換は、円高という一社では動かせない条件を、内部の設計変更で受け止めようとした事例として読むことができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

プラザ合意後の円高が直撃した輸出型ビジネス

日揮は、売上高の6〜7割を海外で稼ぐ輸出依存型の企業である。石油化学や石油精製プラントを資源保有国から受注し、代金の多くをドルで受け取る。1985年のプラザ合意以後、ドルの価値は1987年までに半減し、ドル建てで受注した案件では大幅な為替差損が生じた。第2次石油ショックの反動で世界的に石油がだぶつき、新規の石油関連プロジェクトも激減した[1]

この結果、日揮は1986年3月期から4期連続で営業赤字に陥った。資材の調達が国内に偏っていたため、円高では海外案件の建設費が膨らむ構造だったからである。為替予約だけでは急激な円高を切り抜けられず、「どの時点で為替予約を入れて損を確定すればよいのかさえ分からなかった」と、ある社員は当時を振り返っている[2]

社内に広がった「赤字肯定」の空気

長引く赤字は、社内の意識まで蝕んだ。営業担当者は「仕事を確保するには赤字受注でも仕方がない」と考え、調達や建設の担当者も「赤字受注した案件は赤字で完工して当然」と平然としていた、とある幹部は明かす。受注を取ること自体が目的になり、採算を問わない空気が根を張っていた[3]

決断

渡辺英二社長の就任と「赤字肯定体質」への着手

1988年6月、国際事業本部長を務めた渡辺英二氏が社長に就任した。就任時、日揮は4期連続の赤字のさなかにあった。渡辺英二社長が初仕事に選んだのは、半ば「赤字肯定」とも言える体質の作り替えである。国際事業本部長の時代に「為替予約だけでは円高を切り抜けられない」と痛感していた渡辺英二社長は、それまで円高乗り切りや赤字案件からの足抜けの手段でしかなかった海外調達を、国際競争力を高める手段へ切り替えようと考えた[4]

海外調達50%という目標と、猛反発

渡辺英二社長が掲げたのは、海外プロジェクト関連の海外調達比率を、それまでの10〜20%から50%へ引き上げる目標だった。カネだけでなくモノでもリスクを避ける狙いである。だが調達部門はこの方針に猛反発した。交渉も書類もすべて英語で、日揮の知名度は低く、一見の客には外国メーカーも好条件を出さない。納期遅れと品質不良の恐れもつきまとう。渡辺英二社長自身が「最も不愉快な経験」と呼ぶほど、社内の抵抗は強かった[5]

実際に外国企業と取引を始めると、トラブルが続発した。1986年に台湾から受注した重油直接脱硫装置の案件では、機材を発注した米国企業が不況で破産宣告を受け、工場が閉鎖された。製造中の機材が資産保全命令の対象になり、担当者は弁護士を雇って日揮の資産だと主張し、どうにか運び出して代わりの工場で納期に間に合わせた。それでも日揮は、赤字案件をこなしながら成功体験を積み、1989年からは入札に勝つため、製造経験の浅い企業や安く調達できるメーカーを発掘し、技術供与で価格交渉力を高める調達へと踏み込んだ[6][7]

結果

大型連続受注と、5期ぶりの黒字

改革を支えたのは、実績の積み上がりだった。1985年度に80億円だった海外調達額は1988年度には340億円へ拡大し、「やればできる」という自信とノウハウが社内に生まれた。海外拠点の整備も矢継ぎ早に進み、1989年にフィリピン、1990年にオランダの欧州統括子会社(オランダのドルチェ・エンジニアリングを買収)、1992年にシンガポール法人の設立と英ケロッグへの資本参加が続いた。営業赤字の時期にも削らなかった情報通信システムへの投資が、海外メーカーの情報や価格交渉の記録を蓄える基盤になった[8][9]

国際化のさなか、大型の海外案件が相次いだ。1989年4月にはイタリア企業と組んでイランから総額1,850億円の石油精製プラントを、10月には三井物産や英フォスター・ウィーラーと組んでインドネシア向けの石油精製プラントを18億ドルで受注した。1989年度の受注高は前年度比2.8倍の6,010億円に達し、受注残も7,851億円へ倍増した。新しい調達方針は、これらの遂行で十分に生かされた。そして1991年3月期、日揮は5期ぶりに営業黒字へ転換した[10][11]

「海外調達のうまさ」が開いた競合との差

構造の作り替えは、数字に表れた。1993年3月期の売上高は前期比15.8%増えて初の4,000億円台に乗り、経常利益は約3倍の174億7,000万円に達した。同じ円高の逆風を受けた千代田化工建設や東洋エンジニアリングが減益を見込むなかでの結果である。1993年3月期に日揮が外国企業から調達した機材は約700億円で、海外向け総調達額の65%に達し、55%の千代田化工建設、50%台の東洋エンジニアリングを引き離した。ある総合商社のプラント事業責任者は「日揮の強さは海外調達のうまさにある。ノウハウは大手商社をしのぐ」という[12][13]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1993年7月19日号「日揮 海外からの機材調達拡大 情報通信網も威力発揮」
  • 日揮ホールディングス 有価証券報告書(連結財務諸表)