アルジェリア大赤字とコスト・プラス・フィー方式への転換
1972年実施約50億円の失敗を、篠田治男社長はどう海外プラント事業のリスク哲学へ変えたか
- 概要
- 1972年ごろ、約250億円で受注したアルジェリア製油所の建設で約50億円の赤字を計上し、減配と賞与カットに追い込まれた日本揮発油(現・日揮ホールディングス)が、この失敗を教訓に一括請負のランプサム契約からコスト・プラス・フィー方式へ契約のかたちを移し、カントリーリスクの分散を経営の指針に据えた経営判断。
- 背景
- 国内製油所建設の特需が一巡し、成長の場を海外に求めた日本揮発油は、約250億円のランプサム契約でアルジェリア製油所を受注した。現地の洪水、工期中に3倍へ跳ね上がった賃金、機材輸送の事故が重なり、約50億円の赤字を計上した。
- 内容
- 篠田治男社長は、失敗の主因を、増えたコストを吸収できないランプサム契約にあったと分析した。以後、実費に報酬を加算するコスト・プラス・フィー方式を積極的に採り入れ、「同じ国に仕事を集中するな、分散しろ」とカントリーリスクの分散を指示した。
- 含意
- 財務の傷そのものより、その傷から契約の型とリスクの分散という再現可能な方法論を引き出した点に特徴がある。教訓は、1976年アルジェリアのガスプラント1,450億円、1981年クウェート製油所10億ドル、1982年オーストラリア天然ガス液化工場約5,000億円という大型連続受注に生かされた。
失敗を「方法論」に変える
この決断の核心は、約50億円という財務の傷そのものではなく、その傷から契約の型とリスクの分散という再現可能な方法論を引き出した点にある。天災や賃金の高騰は事前に読み切れない。ゆえに、変動を一身に負うランプサム一辺倒をやめて実費精算を組み合わせ、一国への集中を避けて受注先を分散する——制御できない不運を、契約と配分の設計で受け止めようとした。好調な受注を追うより先に、失敗の構造を分解して次の受注戦略へ織り込んだ点に、この判断の性格がうかがえる。
もっとも、コスト・プラス・フィー方式は手間がかかり利幅は薄く、物価が落ち着く時期にはランプサムに分がある。篠田治男社長自身、リスクを取らなければ利益は生まれないと語っており、この転換はリスクを消す試みではなく、抱えるリスクを見極めて価格へ織り込む試みだった。約半世紀後、日揮は再び大型の一括請負案件で巨額の損失を計上し、同じ問いに直面する。1972年のアルジェリアは、リスクをどの契約の型で引き受けるかという問いが、最初に経営へ突きつけられた事例として読むことができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
国内特需の一巡と海外への傾斜
日本揮発油は、1928年に東京で設立された石油精製プラントの草分けである。戦後は国内の製油所建設需要を取り込んで伸びたが、1960年代後半に国内建設が一巡すると、成長の場は海外に限られていった。1968年ごろからアルジェリア・ブルネイ・シンガポールで200億円台の案件を相次いで受注し、成長の主軸を国内から海外へ移した[1]。
海外プラントは、当時の日本にとって自動車などの主力輸出に次ぐ有望市場だった。だが、石油ショックを乗り切るテコとなった産油国からの引き合いは急激に減り、非産油の発展途上国の需要も伸び悩んで、欧米勢や千代田化工建設・東洋エンジニアリングといった国内勢との競争は激しさを増していた。海外に活路を求める以上、日本揮発油は政情や為替のリスクを負ったまま国際入札で競う必要があった[2]。
アルジェリアで払った「高い授業料」
海外への傾斜は、まもなく手痛い代償をもたらした。1972年ごろ、約250億円で受注したアルジェリア製油所の建設で、日本揮発油は約50億円の赤字を計上し、減配と賞与カットに追い込まれた。設計と資材の調達までは収支トントンで進めていたが、現地の洪水に見舞われ、現地労働者の質を高く評価しすぎたうえに、工期中に賃金が3倍へ跳ね上がった。機材輸送の事故で1,000人の労働者を1カ月あそばせる事態も起きた[3]。
痛手の本質は、天災や事故そのものより、増えたコストを発注者に転嫁できない契約のかたちにあった。約250億円は一括請負のランプサム契約で、工期や資材費が想定を超えても、その超過分は受注者がかぶる。設計と資材調達の段階までは収支が均衡していただけに、現場で膨らんだ費用がそのまま赤字へ直結した[4]。
決断
コスト・プラス・フィー方式への転換
篠田治男社長は、この失敗を単なる不運では片づけなかった。赤字の主因を、追加コストを吸収できないランプサム契約にあったと分析し、以後は実費に報酬を加算するコスト・プラス・フィー(実費・報酬加算)方式を積極的に採り入れた。工期や資材費が動いても、その実費を発注者と分かち合う契約の型に変えることで、現場の変動が受注者だけの損失に直結する構造を避けようとした[5]。
この方式は万能ではなかった。コスト・プラス・フィーは「物すごい手間がかかると同時に安全第一でうまみがない」代わりに、物価が落ち着く時期にはランプサムのほうが有利になる。日本揮発油が選んだのは、どちらか一方に寄せることではなく、案件ごとに両者を組み合わせ、契約を多国通貨建てにして為替をヘッジするといった、リスクの型を使い分ける実務だった[6]。
「焼けた柱には抱き付くな」——カントリーリスクの分散
契約の型と並んで篠田治男社長が徹底したのが、案件を一国に集中させないカントリーリスクの分散だった。「同じ国に仕事を集中するな、分散しろ」と指示し、これまで金城湯池としてきた東南アジアから中近東へと受注先を広げた。プラント事業で最大のリスクは、戦争の勃発や発注者の支払い不能といった、企業努力では動かせないカントリーリスクにあるとみたためである[7]。
一連の考え方を、篠田治男社長は「焼けた火箸を握ってもいいが、焼けた柱には抱き付くな。命を落とすからな」という言葉で表した。リスクを覚悟しなければ利益は望めないが、抱え込めば致命傷になるものには近づかない——アルジェリアでの手痛い経験が、この線引きを経営の指針へと変えた[8]。
結果
教訓が生んだ大型連続受注
失敗を教訓に変えた日本揮発油は、海外受注をやめるどころか規模を広げた。1976年には赤字を出したのと同じアルジェリアで、ガスプラント「モジュールⅠ・Ⅱ」を受注総額1,450億円で獲得し、専任のアルジェリア事業本部を新設して臨んだ。同じ年には、実態からかけ離れた社名を「日本揮発油」から「日揮」へ改めている[9]。
1981年12月にはクウェートから製油所近代化工事を10億ドル規模で特命受注し、1982年6月には米ケロッグや現地レイモンド・エンジニアーズとのコンソーシアムで、オーストラリアの天然ガス処理・液化工場を約5,000億円で獲得した。世界景気の低迷でプラント需要が細るなかでの大型連続受注であり、アルジェリアで払った「高い授業料」が市場開拓の底力になった[10]。
- 日経ビジネス 1982年8月23日号「日揮 花形企業の“利益なき繁忙”いつまで」
- 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】