日本メーカー初の北米四輪現地生産

HAM設立

日米貿易摩擦が強まるなか、河島喜好社長はなぜ完成車を「輸出」ではなく「現地で作る」道を選んだか

更新:

時期 1978年3月
意思決定者 河島喜好 社長
論点 北米市場への現地生産と貿易摩擦への対応
概要
1978年、本田技研工業が日本の自動車メーカーとして初めて米国オハイオ州メアリズビルに四輪車の現地生産拠点ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)を設ける計画を正式発表し、1982年11月に四輪の現地生産を始めた経営判断。日米貿易摩擦の高まりに対し、輸出ではなく現地生産で応えた先行例であった。
背景
1970年代後半、日本製乗用車の対米輸出が史上最高を更新して米国の輸入車上位を日本勢が占め、現地生産を求める政治的な圧力が実務上の限界に達していた。四輪では後発で輸出偏重だったホンダにとって、摩擦の回避と市場への定着を同時に果たす手立てが要る状況にあった。
内容
オハイオ州メアリズビルにまず1979年に二輪の現地生産を立ち上げ、1982年11月に四輪へと広げた。「米国で売るクルマは米国で作る」という方針を、品質・労務・為替の不確実性を抱えたまま、日本の自動車メーカーとして最初に実行に移した。
含意
摩擦回避のための防御策が、結果として最大市場である北米への深い定着をもたらし、トヨタや日産を含む他社の現地生産を促す先行例となった。一方で北米依存を深め、のちの欧州撤退・国内再編と表裏をなす拡張の始まりでもあった。
筆者の見解

「作る場所」を市場に合わせるという選択

この判断の芯にあるのは、輸出で稼ぐという戦後日本の自動車産業の型を、最大市場のただ中で崩してみせた点にある。摩擦を政治で受け止めるのではなく、生産の配置を市場に合わせて組み替える——防御のための一手が、結果として北米という土壌への深い定着を生んだ。他社が様子を見るなかで単独で先んじ、後発の四輪メーカーが業界の常道を先取りしてみせた判断であったとみることができる。

もっとも、その後の展開は、外へ広げる強みがそのまま次の重石にもなりうることを示している。北米が収益を支える柱になるほど、そこへの依存も深まった。2010年代には欧州の慢性赤字や国内工場の集約が課題として重くのしかかり、拡張の論理は引き算の論理へと反転していく。1978年にメアリズビルで始めた外向きの一歩は、40年後にホンダが生産の配置を問い直す場面へと、静かにつながっているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

対米輸出の膨張と現地生産への圧力

1970年代後半、日本製乗用車の対米輸出は毎年のように最高を更新し、米国の輸入車上位を日本勢が占める事態となっていた。1977年3月の読売新聞は、日本メーカーが米国内での現地生産を「真剣に考えざるを得ない立場に追い込まれている」と伝えている。摩擦は関税や数量の交渉にとどまらず、現地に雇用と生産を持ち込むかどうかという次元へと移りつつあった。輸出の伸びがそのまま政治的な負荷に転じる構図のなかで、日本の各社は決断を先送りしていた[1]

この圧力に最初に応えたのがホンダであった。1977年9月の日経新聞は「本田技研・米オハイオで現地生産」と一面で報じ、日本メーカーの北米生産がいよいよ具体化する段階に入ったことを示した。ホンダはすでに北米の二輪市場で長く商売を続けており、現地の販売網と土地勘を持っていた。完成車を海の向こうで作るという当時としては非常識な選択に、二輪で培った現地事業の経験が下支えとなっていたとみられる[2]

四輪後発ゆえの弱さ

ホンダが四輪車に本格参入したのは1963年で、乗用車では後発の部類にあった。国内のシェアは上位勢に及ばず、収益の多くを輸出に頼っていた。輸出偏重は成長の原動力である一方で、貿易摩擦がそのまま経営の急所を突く弱さでもあった。関税や輸入規制が強まれば、稼ぎ頭の対米輸出が細りかねない。摩擦を避けつつ最大の市場に根を張るには、現地で作って現地で売る体制へ踏み込むほかに道は乏しかった[3]

決断

日本メーカー初の四輪現地生産へ

1978年、ホンダは日本の自動車メーカーとして初めて、米国オハイオ州メアリズビルに四輪車の現地生産工場を建設する計画を正式に発表した。同地ではまず1979年に二輪の生産を立ち上げ、1982年11月に四輪へと生産を広げていく段取りが敷かれた。完成車は品質の要求水準が高く、労務も為替も日本とは異なる。海外での量産に踏み切ることは、輸出であれば負わずに済む不確実性を丸ごと引き受ける選択でもあった。ホンダはその重さを承知のうえで先陣を切った[4]

判断の核にあったのは、「米国で売るクルマは米国で作る」という考え方であった。輸出で稼ぐという戦後日本の自動車産業の常識に対し、市場のただ中に生産を置いて摩擦の火種そのものを消すという発想を、ホンダは最初に形にした。二輪の現地生産を足がかりに四輪へ段階を踏む慎重さを保ちながらも、他社が様子見に回るなかで単独で先んじた点に、この決断の性格があらわれている[5]

摩擦回避という読み

1980年1月の日経新聞は、ホンダの米国進出について「現地の日本車批判を和らげ日米貿易摩擦の回避につながると期待される」と書き、この一手が業界全体へ波及すると見通した。現地に雇用を生み、部品を現地で調達すれば、輸入への反発は和らぐ。摩擦を政治交渉で受け止めるのではなく、生産の配置そのものを変えて避けるという読みであった。単独メーカーの先行判断が、やがて日本の自動車産業全体の北米生産へと連なっていくことになる[6]

結果

追随を促し、北米に根づく

メアリズビルでのアコード生産は年を追って立ち上がり、現地生産台数は1983年2月期の約5万台から1990年2月期には33万台へ拡大した。1986年から加わったシビックと合わせて年産40万台規模の北米拠点が育ち、輸出に頼らずに最大市場へ供給する体制が現実のものとなった。ホンダの先行はトヨタや日産の北米現地生産を促し、「現地で作る」ことは日本の自動車産業全体の常道へと変わっていった[7]

現地生産を軸とする北米事業はホンダの成長を牽引した。1987年12月の日経ビジネスは、一介の町工場として出発したホンダが40年でGM・フォード・クライスラーに次ぐ第4位の座を固め、さらに年販100万台を狙うと伝えている。ホンダは1986年に高級ブランド「アキュラ」を北米で立ち上げ、1987年には北米統轄会社を設けて現地の統括機能を厚くした。米国で作るという判断は、単なる摩擦対策を超えて事業を支える大きな柱へと育っていった[8][9]

出典・参考
  • 読売新聞 1977年3月5日
  • 日経新聞 1977年9月27日
  • 日経新聞 1980年1月11日
  • 日経ビジネス 1987年12月21日号「進化の研究。本田技研工業」
  • 本田技研工業 有価証券報告書【沿革】
  • 本田技研工業 会社年鑑(単体業績)