ラウンドワン米国カリフォルニアへの海外第1号店の出店と国内モール業態の移植

衰退する米国郊外モールに、国内で磨いた一施設一括型の複合業態をそのまま移せるか

時期 2010年8月
意思決定者(推定) 杉野公彦 社長
論点 海外進出と業態の移植
概要
2009年4月に米国へ準備会社Round One Entertainment Inc.を設立し、2010年8月、カリフォルニア州のプエンテヒルズ店で海外第1号店をオープンした。ボウリング・アーケードゲーム・スポッチャを一つの建物に併設する国内の複合レジャー業態を、そのまま米国の郊外ショッピングモールへ持ち込む出店であった。杉野公彦社長が主導した。
背景
ラウンドワンの事業は日本市場に集中し、阪神・淡路大震災や東日本大震災で店舗網が広く休業に追い込まれるなど、単一市場のリスクを抱えていた。国内の複合レジャー市場が成熟に向かうなか、杉野公彦社長は日本だけでは経営のリスクを分散できないとして、北米への出店を急ぐ考えを持った。
内容
郊外モールの衰退で生じた空き区画を居抜きで活用し、国内で確立した一施設一括型の複合業態を移植した。1施設ごとにまとまった資本を投じる出店の型を海外でも維持し、初期数年の赤字を織り込んで出店を継続した。2019年には米国店舗数を国内が逆転する120〜130店へ増やす計画を掲げた。
含意
米国事業は2010年代後半に収益化し、コロナ後は反動需要で国内より早く回復した。2025年3月期の米国売上は連結の約4割、営業利益は100億円規模へ育ち、国内とほぼ肩を並べた。日本発の郊外型レジャーが現地の若者に受け入れられ、後の中国出店の先例にもなった。
筆者の見解

本国の外で伸びた業態

この出店を単なる海外進出の成功譚として読むと、判断の芯を取り逃す。杉野公彦社長が選んだのは、現地資本が見放しつつあった衰退する郊外モールへ、国内で標準化した一施設一括型の複合業態をそのまま持ち込むことであった。1施設に大きな資本を投じる国内の型を崩さず、居抜きの空き区画を使って初期費用を抑えたところに、この移植の勘所があったとみられる。日本市場への集中というリスクを分散する動機と、成熟する国内の外へ成長の場を求める狙いが、プエンテヒルズ店の一手に重なっていた。

もっとも、米国が国内と肩を並べる柱に育ったと言えるのは、その後の10年余りの推移を知っているからにすぎない。開業から数年は赤字が続き、コロナ下では杉野社長自身が出店を後悔したと語ることもあった。それでも1施設一括の投資を崩さず出店を重ねたことが、反動需要を受け止める店舗網を残した。本国で成熟した業態を、それを生んだ市場とは別の土地でむしろ大きく伸ばした点に、この判断の後日談が表れているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

国内市場への集中というリスク

ラウンドワンはボウリングを主力に、アーケードゲームやカラオケ、総合スポーツ施設スポッチャを一つの建物へ併設する複合レジャー業態を国内で築いてきた。ただ出店が関西から全国へ広がっても事業は日本市場に集中したままで、災害の影響を受けやすかった。阪神・淡路大震災では店舗網の大半が休業に追い込まれ、東日本大震災の計画停電では約半数の店が営業できなくなった。杉野公彦社長は、日本だけでは経営のリスクを分散できないとして、北米への出店を急ぐ考えを持つに至った[1]

国内で磨いたのは、一つの施設に多くの遊びを詰め込み、一施設あたりの規模で集客と単価を引き上げる出店の型であった。2004年に京都伏見店でスポッチャを重ねてからは、新規出店を基本的にスポッチャ併設型で進め、家族やカップル、友人同士の利用を取り込んでいた。三段階の株式公開で得た資本を1施設ごとにまとめて投じる資金の使い方も定着しており、この一施設一括型の業態が、後に海外へそのまま持ち出す土台となった[2]

決断

米国カリフォルニアへの海外第1号店

米国進出は準備会社の設立から始まった。2009年4月、ラウンドワンは米国にRound One Entertainment Inc.を設立して現地体制を整え、翌2010年8月、ロサンゼルス郊外のプエンテヒルズ店で海外第1号店をオープンした。出店先は、米国で経営難の目立ってきた郊外型ショッピングモールであった。テナントが抜けて生じた空き区画を居抜きで使うことで、大型の施設を比較的低い初期費用で構える形をとった[3][4]

移植したのは業態そのものであった。ボウリング・アーケードゲーム・スポッチャを一つの建物へ束ねる国内の複合形態を米国へ持ち込み、そこに現地の慣習を重ねた。米国ではフードカウンターでビールを飲みピザを食べながらボウリングやゲームを楽しむスタイルが中心になり、1号店は開業当初、売上の9割をボウリングが占めた。国内で標準化した施設の作り方を土台に、現地の遊び方へ寄せていった[5]

数年の赤字を織り込んだ継続

米国事業は開業から数年、赤字が続いた。それでも杉野公彦社長は撤退へ傾かず、国内と同じく1施設あたりに大きな資本を投じる出店を重ねていった。2019年には、当時30店だった米国店舗を2023年までに120〜130店へ増やし、国内の店舗数を逆転させる計画を掲げた。目先の損益ではなく、成熟する国内の外に成長の場を移す長い時間軸のうえに置かれた投資であった[6]

結果

国内を補う収益源へ

コロナ禍では日米の店舗がともに休業を迫られ、杉野公彦社長が2020〜21年の出店を後悔したと語るほど米国事業も痛んだ。だが自粛の反動需要をつかんで米国の回復は国内より早く進み、2022年4〜6月期には全米51店で18億円の営業黒字を確保した。国内の主力業態がなお本格回復に至らないなかで、米国が先に持ち直す構図が現れた[7]

移植から10年余りを経て、米国は国内と並ぶ柱へ育った。2025年3月期の米国売上は731億円と連結売上の約4割を占め、営業利益は100億円規模に達して国内とほぼ肩を並べた。全米の店舗は50店を超え、日本で磨いた郊外型の複合レジャーが現地の高校生や大学生、家族連れをつかんだ。この受容の仕方は、後に「ヤンキー文化の逆輸入」とも評された[8][9]

出典・参考

免責事項およびポリシー