小野田セメント:旧士族の授産によるセメント製造会社の創立
1880年〜萩の旧士族が国産セメントに向かうまで
初代社長となる笠井順八氏は、1835年に萩で生まれ、1855年から萩藩の呉服方御用紙方を振出しに藩財政関係の役職を歴任した。廃藩後は山口県の官吏となり、勧業局や出納課など殖産興業と県財政に関わる職についたが、1877年5月に県吏を辞し、従事すべき事業を探す日々を送った。1879年春、セメントの国産を主張していた平岡通義氏が山口へ帰省し、東京の深川で工部省がセメントを製造していると伝えた。話を伝え聞いた笠井氏は知人の荒川佐兵衛氏と手探りの実験を試み、1880年1月には大理石と有帆川尻の泥土を携えて上京した。二人が訪ねた官営深川工作分局では、大技長の宇都宮三郎氏が、小野田には石炭があり石灰石は対岸の恒見にあるという説明に賛意を示し、技術問題を教示した。
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第1章第2節 創立当初の株主と役員
- [1]初代社長の笠井順八氏は1835年5月に萩で有田甚平の三男として生まれた
- [2]笠井順八氏は1855年から萩藩の呉服方御用紙方を振出しに藩財政関係の役職を歴任した
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第1章第2節 「セメント製造会社」の設立
- [3]笠井順八氏は1877年5月に山口県吏を辞した
- [4]1879年春、セメント国産を主張していた平岡通義氏が山口へ帰省し、深川の官営セメント製造の話を伝えた
- [5]笠井順八氏は知人の荒川佐兵衛氏とともに手探りの実験を試みた
- [6]1880年1月、笠井順八氏と荒川佐兵衛氏は大理石と有帆川尻の泥土を持って上京した
- [7]官営深川工作分局でセメント製造を指導していた大技長は宇都宮三郎氏である
- [8]笠井順八氏は小野田に石炭があり石灰石が対岸の恒見にあると説明し、宇都宮三郎氏は賛意を表した
事業資金に乏しかった笠井氏は政府の起業基金の貸付を仰ぐことにし、1880年5月、山口県庁へ就産金拝借願を提出した。願書は創立の動機を二つ挙げている。第1は出資者の生計を確立して"自営力食ノ道ニ就カン"とすることであり、第2はセメントの輸入防遏で、『外国ノ泥土ヲ以テ金貨ニ交換スルハ実ニ国ノ為ニ概嘆スルノミ』(小野田セメント百年史、1981年)と記した。深川工作分局の経験から算出した事業資金の見積は6万1600円だった。山口県令の関口隆吉氏の上申を受け、内務卿の松方正義氏は1880年8月5日、2万5000円の貸下げを認可した。5カ年の無利子据置、以後は年利4%で15カ年賦という当時としてきわめて有利な条件で、貸下金は同年10月30日に笠井氏らの手へ渡った。
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第1章第2節 「セメント製造会社」の設立
- [9]1880年5月、笠井順八氏は山口県庁へ就産金拝借願を提出した
- [10]就産金拝借願にはセメント製造会社創立の動機が2点にわたって述べられている
- [11]創立の動機の第1は出資者の生計確立で、願書は「自営力食ノ道ニ就カン」と記した
- [12]創立の動機の第2はセメントの輸入防遏だった
- [13]就産金拝借願が深川工作分局の経験から算出した事業資金の見積額は6万1600円だった
- [14]山口県令の関口隆吉氏が1880年5月25日に内務卿へ上申した
- [15]1880年8月5日、内務卿の松方正義氏が2万5000円の貸下げを認可した
- [16]貸下げ条件は5カ年の無利子据置、以後は年利4%で15カ年賦だった
- [17]貸下金は1880年10月30日に笠井順八氏らへ渡された
参考文献[1]-[17]
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第1章第2節 創立当初の株主と役員
- [1]初代社長の笠井順八氏は1835年5月に萩で有田甚平の三男として生まれた
- [2]笠井順八氏は1855年から萩藩の呉服方御用紙方を振出しに藩財政関係の役職を歴任した
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第1章第2節 「セメント製造会社」の設立
- [3]笠井順八氏は1877年5月に山口県吏を辞した
- [4]1879年春、セメント国産を主張していた平岡通義氏が山口へ帰省し、深川の官営セメント製造の話を伝えた
- [5]笠井順八氏は知人の荒川佐兵衛氏とともに手探りの実験を試みた
- [6]1880年1月、笠井順八氏と荒川佐兵衛氏は大理石と有帆川尻の泥土を持って上京した
- [7]官営深川工作分局でセメント製造を指導していた大技長は宇都宮三郎氏である
- [8]笠井順八氏は小野田に石炭があり石灰石が対岸の恒見にあると説明し、宇都宮三郎氏は賛意を表した
- [9]1880年5月、笠井順八氏は山口県庁へ就産金拝借願を提出した
- [10]就産金拝借願にはセメント製造会社創立の動機が2点にわたって述べられている
- [11]創立の動機の第1は出資者の生計確立で、願書は「自営力食ノ道ニ就カン」と記した
- [12]創立の動機の第2はセメントの輸入防遏だった
- [13]就産金拝借願が深川工作分局の経験から算出した事業資金の見積額は6万1600円だった
- [14]山口県令の関口隆吉氏が1880年5月25日に内務卿へ上申した
- [15]1880年8月5日、内務卿の松方正義氏が2万5000円の貸下げを認可した
- [16]貸下げ条件は5カ年の無利子据置、以後は年利4%で15カ年賦だった
- [17]貸下金は1880年10月30日に笠井順八氏らへ渡された
1881年〜金禄公債を抵当とした「無類ノ変体」の出資形態
セメント製造会社規則と同じ頃、各地にできた国立銀行では、公債を出資に充てた株主はその所有権を銀行へ手放しており、現物出資に類する形をとっていた。全8条60節から成る同規則は、第2条第1節で資本を額面8万8000円の金禄公債証書と置いた。一方で第2条第3節は、所有権を株主の側にとどめ、抵当に充てる運用の権限だけを会社に委ねる形とした。とはいえ営業でつまずいて損失が出れば、預かった公債をもって償却すると第8条第2節が定めていた。性格としては現物出資とほとんど変わらなかった。この社則は、後年の笠井氏の目にも今から見れば類のない変則と映るものだった。
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第1章第2節 「セメント製造会社」の設立
- [18]国立銀行では株主が公債で出資すると所有権が銀行へ移り、一種の現物出資の形態をとった
- [19]セメント製造会社規則は全文8条60節からなる長文の規則で、現在の定款にあたる内容を持っていた
- [20]規則第2条第1節は資本を金禄公債証書七朱利付の額面8万8000円と定めた
- [21]規則第2条第3節は公債の所有権を株主に残し、会社へは抵当に差し入れる権限のみを委任すると定めた
- [22]規則第8条第2節は営業上の蹉跌による損失を株主から預かった公債で償却すると定めた
- [23]笠井順八氏は後年この出資形態を回想し、社史は「妙知機無類ノ変体」と表記している
笠井氏は山口へ帰って出資者を募集し、荒川氏や自身を含む39名の賛同を得た。1881年3月24日、発起人総代として山口県令の原保太郎氏へ設立願書を提出し、同年5月3日に認可の示達を受けた。この日が創立日とされ、わが国最初の民営セメント製造会社が生まれた。株主の裾野は広く、1884年1月の株主名簿では株主総数147名のうち10株以下の中小株主が126名を数え、株主総数の85.7%を占めた。20株以上の株主は6名にとどまり、80株を持つ笠井氏が筆頭株主だった。規則は会社の閉鎖や社長・取締の選任を株主の協議と投票にゆだねた一方、株主総会と議決権に関する規定を欠いていた。
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第1章第2節 「セメント製造会社」の設立
- [24]笠井順八氏は荒川佐兵衛氏や自身を含む39名の賛同者を得た
- [25]1881年3月24日、笠井順八氏が発起人総代として設立願書を提出した
- [26]設立願書の宛先は山口県令の原保太郎氏だった
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第1章第2節 創立当初の株主と役員
- [27]1881年5月3日、山口県令が認可書を示達した
- [28]セメント製造会社の設立はわが国最初の民営セメント製造会社の誕生だった
- [29]1884年1月の株主名簿では株主総数が147名だった
- [30]10株以下の中小株主は126名で株主総数の85.7%を占めた
- [31]20株以上の株主は6名にすぎなかった
- [32]笠井順八氏は80株を持つ筆頭株主だった
- [33]規則は会社の閉鎖や社長・取締の選任を株主の協議・投票に委ねる一方、株主総会や議決権の規定を欠いていた
参考文献[18]-[33]
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第1章第2節 「セメント製造会社」の設立
- [18]国立銀行では株主が公債で出資すると所有権が銀行へ移り、一種の現物出資の形態をとった
- [19]セメント製造会社規則は全文8条60節からなる長文の規則で、現在の定款にあたる内容を持っていた
- [20]規則第2条第1節は資本を金禄公債証書七朱利付の額面8万8000円と定めた
- [21]規則第2条第3節は公債の所有権を株主に残し、会社へは抵当に差し入れる権限のみを委任すると定めた
- [22]規則第8条第2節は営業上の蹉跌による損失を株主から預かった公債で償却すると定めた
- [23]笠井順八氏は後年この出資形態を回想し、社史は「妙知機無類ノ変体」と表記している
- [24]笠井順八氏は荒川佐兵衛氏や自身を含む39名の賛同者を得た
- [25]1881年3月24日、笠井順八氏が発起人総代として設立願書を提出した
- [26]設立願書の宛先は山口県令の原保太郎氏だった
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第1章第2節 創立当初の株主と役員
- [27]1881年5月3日、山口県令が認可書を示達した
- [28]セメント製造会社の設立はわが国最初の民営セメント製造会社の誕生だった
- [29]1884年1月の株主名簿では株主総数が147名だった
- [30]10株以下の中小株主は126名で株主総数の85.7%を占めた
- [31]20株以上の株主は6名にすぎなかった
- [32]笠井順八氏は80株を持つ筆頭株主だった
- [33]規則は会社の閉鎖や社長・取締の選任を株主の協議・投票に委ねる一方、株主総会や議決権の規定を欠いていた
出典・参考
2件
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第1章第2節 創立当初の株主と役員
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第1章第2節 「セメント製造会社」の設立