丸井 の歴史

更新: Author:

創業 1931年
創業者 青井忠治
創業地 東京都中野区
創業
1931年2月、青井忠治氏(当時27歳、富山県出身)が勤め先の月賦販売商・丸二商会から中野店を譲り受けて独立した。当時の月賦業界は愛媛県出身者が主流で、青井氏は外様の立場から始めている。中央線沿線の近い場所へ店を集めて集金人の巡回効率を上げる配置を取り、1937年3月に資本金5万円で株式会社丸井を設立した。商品を並べる小売店でありながら、毎月の集金を台帳で管理する金融の実務を、創業の初日から抱えていた。
決断
売ってきたのは商品ではなく、支払いを分ける仕組みである。1952年に渡米した青井忠治氏は米国のカード決済に触れ、1960年に呼称を『月賦』から『クレジット』へ改めて店舗専用カードを初年度5万枚発行した。1966年にコンピューターを導入し、1974年にオンライン信用照会、1975年に店頭での即時発行と、与信の判定を機械へ移していく。1980年には品ぞろえを若者向けファッションへ替え、DCブランドの高額品を分割払いで買える売場を作った。2003年には10年を超える小売低迷の原因を制度に求めて希望退職・成果主義・システム刷新を同時に断行したが、社員の信頼を損ない4年で撤回している。
現況
利益の8割強は、小売ではなく金融から出ている。2025年3月期のセグメント利益はフィンテック事業440億円に対し小売事業86億円で、売上収益でもフィンテックが1,788億円と全体の7割を占めた。分かれ目は2006年で、最高裁がグレーゾーン金利を違法と認め改正貸金業法が施行されると、貸付残高2,500億円を抱えた丸井は汎用カードのエポスカードへ金融事業を作り替えた。2021年3月期までの15年間で累計1,247億円の利息返還引当金を処理しながら、収益を加盟店手数料と分割・リボ手数料へ移した。小売事業の売上収益755億円のうち、商品を仕入れて売る売上高は19億円にとどまり、残りは賃料と手数料が占める。
競合
カードの発行元でありながら、会員を集める場所を自分で持っている。エポスカードは丸井の店頭で即日発行でき、売場そのものが会員の入り口として働く。同じ流通系でも、国際ブランドのカードを自社で発行して加盟店を広げたクレディセゾンは西武百貨店の外へ加盟店と提携先を広げ、店舗を持たない側から発行枚数を積んだ。丸井は2015年に消化仕入れをやめて定期借家中心の売場へ移り、売場を賃料の出どころと会員の入り口の二役へ絞り込んでいる。百貨店が売場面積で順位を争ってきたのに対し、丸井の順位は加盟店手数料と会員数が決めるようになった。
丸井:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年1月期2026年3月期

創業ストーリー 月賦販売店からカード決済の都心型百貨店への業態転換 (1931年〜)

愛媛勢の月賦業界に飛び込んだ富山出身の外様

1931年2月、青井忠治氏[1](当時27歳・富山県出身[2])は勤務先であった月賦販売商・丸二商会の中野店を買い取る形で独立した[3]。当時の月賦業界は愛媛県出身者が主流で、富山出身の青井氏は業界内で外様の立場にあった。大卒初任給が60円だった時代に1.1万円(現在換算で約3600万円)の貯金を蓄えていた事実は月賦業の高収益性を示し、青井氏は業界の利益構造を熟知したうえで独立に踏み切った経営者だった。青井氏は独立当時を『全然言葉も通じんくらいで、異端視され、非常に悲しくて・・・、大見得を切って出ては来たんですが、死んでしまおう、といって自分の故郷へ手紙をやりました』[引用元]と回想している[4]。中央線沿線の近接店舗に集約して集金人の巡回効率を最大化する独自の出店モデルを築き、1937年3月30日に資本金5万円で株式会社丸井を設立[5]した。

  • 丸井グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1931年2月 青井忠治が丸二商会からのれん分けを受け中野で割賦販売業を創業
    • [2]創業者は青井忠治・富山県出身
    • [3]独立元は月賦販売商・丸二商会(中野店)
    • [5]1937年3月30日 資本金5万円で株式会社丸井を設立
  • 野田経済(1963年7月)
    • [4]青井氏の独立当時の回想(野田経済 1963/07 掲載の引用)

戦後は中野本店の不法占拠問題に直面しながらも事業を再開し、1952年の渡米で米国のクレジットカード文化に触発[6]された青井氏は、1960年に独自の店舗専用クレジットカードの発行[7]に踏み切る。発行初年度に5万枚のカードを発行する規模に達し[8]、月賦販売の台帳管理をカードという新形態へ移す試みを社内で始めた。月賦販売という労働集約的な事業形態から、情報システムを中核とする事業形態へと転換した瞬間で、戦前からの事業モデルを内側から変革する意志の表明でもあった。この実務経験が、のちのオンライン信用照会システムや店舗即時発行へとつながる丸井のカード事業の原点となる。

  • 丸井グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1952年 青井忠治が渡米しクレジットカード文化に触発された
    • [7]1960年 店舗専用クレジットカードの発行を開始
    • [8]発行初年度に5万枚のカードを発行
  • 丸井グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1931年2月 青井忠治が丸二商会からのれん分けを受け中野で割賦販売業を創業
    • [2]創業者は青井忠治・富山県出身
    • [3]独立元は月賦販売商・丸二商会(中野店)
    • [5]1937年3月30日 資本金5万円で株式会社丸井を設立
    • [6]1952年 青井忠治が渡米しクレジットカード文化に触発された
    • [7]1960年 店舗専用クレジットカードの発行を開始
    • [8]発行初年度に5万枚のカードを発行
  • 野田経済(1963年7月)
    • [4]青井氏の独立当時の回想(野田経済 1963/07 掲載の引用)

資本金3.6億円に4億円を投じた新宿店の賭け

1960年代に入り、丸井は中央線沿線の小規模月賦専門店の連合体から脱却し、都心部の主要駅前の店舗に出店する方針へ経営の軸足を転換した。1962年の新宿店開業は、当時の資本金3.6億円に対して4億円を投じる、資本金を上回る集中投資だった。地方拠点を束ねる従来型の出店戦略とは質的に異なる判断で、創業者にとっても会社全体にとっても退路を断つ決断である。創業者の青井忠治氏は『今後の当社の命運を決するもの』[引用元]という言葉で社内に宣言し、月賦払いという独自の決済手段を差別化の武器として、三越や伊勢丹など老舗百貨店が支配する都心部の商圏へ参入した。

百貨店が現金もしくはクレジットの一括払いを主流とした時代に、丸井の月賦払いは一括で高額商品を買えない若年層の需要を取り込んだ。1966年から1971年にかけて小規模の10店舗を閉鎖して経営資源を主要店に集中させ、1970年には競合の緑屋を抜いて月賦百貨店の売上高首位を確保する。丸井は都心店舗で総合月賦百貨店化を図り、中央線沿線を密度高く押さえたのに対し、緑屋は関東一円に小型店を分散するナショナルチェーン路線[9]を採り、店舗戦略の違いが業績差となって表れた(Decide 1987)。戦前から業界の主流だった愛媛出身者の勢力を一代で上回る形で、資本金を上回る新宿への集中投資が8年後の首位奪取という具体的な形に結びついた。

    • [9]競合の緑屋は関東一円に小型店を分散するナショナルチェーン路線を採った(Decide 1987 出所)
    • [9]競合の緑屋は関東一円に小型店を分散するナショナルチェーン路線を採った(Decide 1987 出所)

店舗即時発行とDCブランドが作った26期連続増収増益

1966年に業界に先駆けてコンピューターを社内に導入[10]した丸井は、1974年にオンライン信用照会システムを稼働させ[11]、1975年にはクレジットカードの店舗即時発行を開始した[12]。来店した若者がその場でカードを手にできる仕組みは既存の百貨店カードとの差別化要因として働き、都心部の店舗がそのままカード会員の獲得チャネルとして働くという独特の構造を業界に先駆けて作り出す。カードの即時発行は他社が追随するまでに長い時間を要した先進的な仕組みで、情報システムへの継続投資を経営の中心に据えた丸井の差別化戦略として、以後の26期連続増収増益を支える基盤となった。創業者の青井忠治氏は経営方針を『細く長くという私の経営理念に照らすと、あまり持ち上げられるのは嬉しいことじゃない』[引用元]と語り[13]、好調時ほど手綱を引き締める構えを示した。

  • 丸井グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1966年に業界に先駆けてコンピューターを社内に導入
    • [11]1974年にオンライン信用照会システムを稼働
    • [12]1975年にクレジットカードの店舗即時発行を開始
  • 日経ビジネス(1974年10月14日)
    • [13]青井忠治の経営方針発言「細く長くという私の経営理念に照らすと、あまり持ち上げられるのは嬉しいことじゃない」(日経ビジネス 1974/10/14)

1980年代にはDCブランド(デザイナーズ・キャラクターズブランド)のブームが到来し、丸井はこの潮流を早期に捉えて高額ファッションの取扱を増やした。DCブランドの単価は数万円から10万円以上という高額帯で、丸井のクレジットカードの分割払いと組み合わせることで、若年層の顧客が購入できる消費体験を都心部の店舗で提供する構造ができあがる。カードと都心の旗艦店舗とDCブランドという三つの要素が相互に補強し合う事業モデルは、当時の流通業界のなかでも独自性が高かった。DCブランドの売上高は1984年度の310億円から1987年度には1066億円へ3年間で3倍超に拡大し、1987年に26期連続増収増益を達成、1988年にはカード会員数1000万人を突破する水準へ到達した。

  • 丸井グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1966年に業界に先駆けてコンピューターを社内に導入
    • [11]1974年にオンライン信用照会システムを稼働
    • [12]1975年にクレジットカードの店舗即時発行を開始
  • 日経ビジネス(1974年10月14日)
    • [13]青井忠治の経営方針発言「細く長くという私の経営理念に照らすと、あまり持ち上げられるのは嬉しいことじゃない」(日経ビジネス 1974/10/14)

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

丸井の沿革1937〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1931〜1980年月賦販売店からカード決済の都心型百貨店への業態転換丸井を設立
中国人が中野店を不法占拠
店舗専用のクレジットカードを発行★★
小規模店舗を閉鎖
都心部に大型店を出店★★
東京証券取引所第2部に株式上場
青井忠雄氏が社長に就任
新宿三丁目・日活帝都座跡地を買収
クレジットカードの店舗即時発行を開始
若者向けファッションへの品ぞろえ転換とDCブランドの取り込み

1980年前後、丸井は品ぞろえを紳士服・家具中心から若者向けファッションへ移し、DC(デザイナーズ・キャラクターズ)ブランドの高額衣料を都心の旗艦店で拡販した。自社カードの分割払いと組み合わせ、月賦百貨店を若者向けの高収益な都市型小売へ作り替えた業態転換。

詳細を読む
★★★
1981〜2005年キャッシング依存の高収益とグレーゾーン金利が招いた経営危機の深化キャッシングに新規参入★★
減収決算により連続増収増益がストップ。業績低迷へ
丸井の組織制度改革——希望退職・成果主義・システム刷新の同時断行と撤回

2003年8月、丸井は希望退職700名の募集、社員5500名の子会社転籍、成果主義の導入、約100億円のシステム刷新を同時並行で断行した。10年を超える小売低迷の原因を組織と制度の硬直に求めた組織改革だが、社員との信頼を損ない、青井浩社長のもとで4年後に撤回された。

詳細を読む
★★★
eコマースに本格参入
青井浩青井浩氏が代表取締役社長に就任
2006〜2023年エポスカード転換と対話型経営による経営再建青井浩グレーゾーン金利依存からの脱却とエポスカードによる金融業態転換

2005年3月にVISAのスペシャルライセンシーを取得した丸井が、翌2006年に汎用カード『エポスカード』の発行を始め、店舗専用ハウスカードとグレーゾーン金利のキャッシングに依存した金融事業を、加盟店手数料やリボ・分割といったリカーリング収益へ作り替えた経営判断。

詳細を読む
★★★
青井浩改正貸金業法により財務体質が悪化★★
青井浩不採算店舗の整理・最終赤字に転落★★
青井浩大規模異動を実施・カード事業を強化★★
青井浩消化仕入れから定期借家への小売業態転換と「売らない店」への転換

2015年3月期から2019年3月期にかけて、丸井グループは青井浩社長のもとで、商品を仕入れて売る消化仕入れ中心の百貨店型から、定期借家契約で家賃収入を得るショッピングセンター型へ小売事業を作り替えた。

詳細を読む
★★★
青井浩ベンチャー企業への出資・協業を本格化
青井浩11年連続増益を達成
青井浩D2C&Co.を設立★★
青井浩プライム市場に移行
青井浩マルイユナイトを設立
出典・参考
  • 丸井グループ 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス(1974年10月14日)
  • 野田経済(1963年7月)
  • Decide(1987年4月)

免責事項およびポリシー