重要な意思決定
1962

小規模店舗を閉鎖し、都心部に大型店を出店

背景

中央線沿線の小規模月賦店から都心部の大型百貨店への業態転換構想

1960年代に入り、丸井は中央線沿線に点在する小規模な月賦専門店の業態を脱し、東京都心部の主要駅前に大型店舗を出店する方針に転換した。百貨店に業態を近づけることで「月賦業界の三越」を目指す構想であり、月賦販売というビジネスモデルを維持しつつ、店舗の外観と品揃えにおいて百貨店と同等の格を備えることが狙いであった。この方針に基づき1966年から1971年にかけて小規模10店舗を閉鎖し、大型店の出店にスクラップアンドビルドで経営資源を集中させた。

大型化の象徴となったのが新宿への進出であった。当時の丸井の資本金3.6億円に対して4億円を投資し、新宿店(のちの新宿店ヤング館)を開業した。それまでの最大店舗であった吉祥寺店の2倍の面積を擁する店舗であり、創業者・青井忠治は「今後の当社の命運を決するもの」と語った。資本金を上回る投資を一店舗に集中する判断は月賦専門店としては異例であり、丸井が都心型百貨店へ脱皮するための賭けであった。

決断

月賦払いを差別化手段として百貨店が支配する都心部の駅前立地に参入

新宿という集客力の高い立地に旗艦店を構えたことは、三越や伊勢丹といった既存百貨店との直接競合を意味した。しかし丸井は月賦払いという決済手段の差別化によって、一括では高額商品を購入できない若年層の需要を取り込んだ。百貨店では現金またはクレジットの一括払いが主流であった時代に、丸井の月賦払いは購買力の拡大手段として若者に支持された。都心部の駅前で若者を集客し、月賦によって客単価を引き上げるモデルが丸井の大型店戦略の骨格であった。

新宿店の開業を起点に、丸井は池袋・渋谷などの主要ターミナル駅前への出店を加速した。中央線沿線の小規模店舗で家具や紳士服を割賦販売していた業態から、都心部の大型店で若者にファッションを月賦で販売する業態へと丸井の事業構造は根本的に変化した。月賦払いという決済手段を軸に百貨店が支配する都心部の商圏に参入したことが、丸井独自のポジションを確立する分岐点であった。

結果

1970年に緑屋を抜いて月賦百貨店の売上高首位を確保

1960年代まで月賦百貨店の売上高首位は緑屋(現クレディセゾン)であった。丸井が都心部の大型店出店を推進する一方で、緑屋は郊外型店舗を主力とする戦略を維持しており、両社の出店方針は次第に乖離した。都心部の駅前立地で若年層を集客する丸井のモデルが奏功し、1970年に丸井は緑屋の売上高を凌駕して月賦百貨店における業界首位の座を確保した。資本金を超える投資で新宿に旗艦店を構えた判断が、8年後の首位奪取という形で結実した。

丸井にとって都心部への大型店出店は、中央線沿線の小規模月賦店から都心型百貨店への業態転換を象徴する分岐点であった。月賦払いという決済手段の差別化が既存百貨店との競合において集客の武器となり、以後の丸井は都心部の駅前立地を基本方針とした出店を継続した。この大型化戦略は1980年代のDCブランドブームにおいて若者の消費を取り込む基盤となり、店舗とクレジットカードを組み合わせた丸井独自の事業モデルの出発点となった。