重要な意思決定
20038月

組織制度改革を実施(失敗)

背景

バブル崩壊後10年にわたる業績低迷と営業会議の閉塞感が生んだ抜本改革への衝動

1993年の減収決算以降、丸井は10年にわたって業績の回復に苦戦していた。バブル崩壊によって若者の高級品消費が低迷し、無印良品やユニクロに代表される低価格・高品質の業態が台頭するなかで、DCブランドと分割払いを軸とした丸井の事業モデルは転換を迫られていた。しかし社内では「ヤング・ファッション・赤いカード」という1980年代の成功体験への執着が根強く、変化に対する抵抗が大きかった。

業績の打開を図るため、毎週15時から22時まで夕食もとらずに「営業会議」が行われた。3代目社長の青井浩氏(当時取締役)はのちに「いつも同じおじさんたちばかり集まって、延々と意味のない議論をしていること自体が、業績が回復しない最大の原因だった」と振り返っている。5年以上にわたって営業会議を続けても有効な打開策は見出せず、現場の責任者たちは限界に近づいていた。

2003年8月、丸井は10年間の漸進的な対応では業績を立て直せないとの判断から、人事制度・組織構造・基幹システムを同時に刷新する全方位的な組織再編に踏み切った。営業会議での議論が堂々巡りを続けるなか、経営陣は制度そのものを根本から作り替えることで閉塞状況を打破する方針を採った。長期にわたる業績低迷と現場の疲弊が、ドラスティックな改革への決断を後押しした。

決断

希望退職700名・子会社転籍5500名・成果主義導入・ERP刷新100億円を同時推進

組織再編の柱は4つあった。第一に、社員数の5%にあたる700名の希望退職者を募集し、最高2000万円の割増退職金を支給した。第二に、社員数の95%にあたる5500名を子会社へ転籍させた。第三に、実力主義による評価制度を導入し、評価サイクルを半年から3か月に短縮して基本給を削減し成果報酬の比率を高めた。給与が下がる社員に対しては5年間の激変緩和措置を設けた。

システム面では約100億円を投じて人事給与システム(ERP)を刷新した。ベンダーに東芝ソリューションを選定し、グループ各社の人事情報と給与計算を一元管理する基幹システムを再構築した。希望退職・子会社転籍・成果主義・システム刷新の4施策を同時並行で推進する大がかりな改革であり、社員一人ひとりの専門能力を活かして業績改善につなげることが改革の趣旨であった。

しかし4施策を同時に推進した結果、社員にとっては雇用形態・評価制度・給与体系・業務システムのすべてが一度に変更される状況が生じた。個々の施策には合理性があったものの、それらを同時並行で実施したことで現場の負荷は極度に高まった。改革が個々の制度の整合性よりも業績回復への焦燥感に駆動されていた面は否めず、制度設計の緻密さよりも改革の規模と速度を優先した判断が、のちの帰結を規定することになった。

結果

「惨憺たる結果」に終わり従業員との信頼関係が崩壊した組織改革の顛末

改革の結果は青井浩氏自身が「惨憺たる結果」と認めるものであった。成果主義の導入は社員のモチベーションを低下させ、3か月ごとの短期評価は数値目標の達成に偏った行動を助長した。子会社への大量転籍は組織の一体感を損ない、本体と子会社の間に待遇格差が生じたことで社員間の信頼関係にも亀裂が入った。業績低迷の原因が組織や人事制度にあるという改革の前提自体に誤りがあった可能性が高い。

制度が頻繁に変更されたことで「会社と社員の信頼関係はほぼなかった」(青井浩氏)という深刻な組織崩壊が進行した。業績の回復を目的に開始した組織改革が、かえって組織の機能不全を加速させる結果を招いた。丸井は2007年に成果主義を廃止し、組織制度改革を中止するに至った。開始から4年での撤回は、改革が所期の目的を達成できなかったことを経営陣自身が認めた判断であった。

この経験は、2005年に社長に就任した青井浩氏が経営スタイルを根本から見直す契機となった。トップダウンによる制度設計ではなく、現場との対話を重視する経営への転換は、組織改革の挫折から得られた教訓に基づいていた。「同じおじさんたちの営業会議」でも「全方位的な制度改革」でもなく、社員との信頼関係の再構築が業績回復の前提であるという認識が、以後の丸井の経営方針の基盤となった。