決断
人が余ったとき、最初は事業のほうを整理し、48年後には人を整理した。終戦で外地勤務者の帰国と応召者の復員が重なって中堅層が厚くなると、1950年4月に社長へ就任した北沢敬二郎氏は人員整理によらず事業の存廃を決め、非百貨店部門を分離独立させた。それでも過剰は解けず、1951年に東京駅八重洲口の民衆駅計画を知った同氏は約2万8,000平方メートルを大口で賃借し、入居保証金9億3,000万円を投じて1954年10月に東京店を開設する。1997年3月に社長へ就任した奥田務氏は逆の順序を取り、1998年に香港・タイ・フランスの海外百貨店から撤退して約140億円の損失を計上し、同年12月30日には746人が希望退職に応じた。事業を整理した1950年の判断が東京への復帰を生み、人を整理した1998年の判断が統合相手に選ばれる財務を作った。
1997年 利益第一主義への転換
1954年 東京駅八重洲へ出店
東京駅八重洲へ出店事業整理では解消しなかった中堅層の過剰を、東京に大規模な事業場を新設して吸収するための出店。国鉄が民間資金に頼る民衆駅の制度と、大口契約者を求める国鉄側の事情が噛み合った同じ経営論点に直面した企業 | 経営計画・中期戦略業績の推移1953 1954 1959 売上高(億円) 136 165 333 営業利益率(%) 2.2 2.4 2.7 1950年4月 非百貨店部門の分離独立