大丸 の歴史

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創業 1717年
創業者 下村彦右衛門
創業地 京都伏見
創業
享保2年(1717年)、下村彦右衛門正啓氏が京都伏見に呉服店『大文字屋』を創業した。9年後の享保11年には大阪の心斎橋筋へ進出し、続いて名古屋・京都・江戸大伝馬町に店を構える。名古屋店では屋号を大丸屋と称し、以後は『大マル』の商標で家業を継いだ。客ごとに値の違う掛売りをやめて全商品へ正札を付けたのも、この初代の代である。1908年1月には資本金50万円の株式合資会社大丸呉服店を設立して東京を本店に置いたが、2年後の1910年10月に東京本店と名古屋支店を閉鎖し、本店を京都へ移して関西へ主力を絞った。同時に座売式から陳列式へ改めている。ただし陳列販売への転換は高島屋が1888年、三越が1900年で、業態を先に変えたのは他社だった。
決断
人が余ったとき、最初は事業のほうを整理し、48年後には人を整理した。終戦で外地勤務者の帰国と応召者の復員が重なって中堅層が厚くなると、1950年4月に社長へ就任した北沢敬二郎氏は人員整理によらず事業の存廃を決め、非百貨店部門を分離独立させた。それでも過剰は解けず、1951年に東京駅八重洲口の民衆駅計画を知った同氏は約2万8,000平方メートルを大口で賃借し、入居保証金9億3,000万円を投じて1954年10月に東京店を開設する。1997年3月に社長へ就任した奥田務氏は逆の順序を取り、1998年に香港・タイ・フランスの海外百貨店から撤退して約140億円の損失を計上し、同年12月30日には746人が希望退職に応じた。事業を整理した1950年の判断が東京への復帰を生み、人を整理した1998年の判断が統合相手に選ばれる財務を作った。
現況
統合を決めた時点の大丸は、業績が悪くて相手を求めたのではない。最後の本決算となった2007年2月期の連結売上高は8,370億円、経常利益は334億円で、経常利益は2003年2月期の172億円から4年で1.9倍になった。連結従業員は2002年2月期の8,722人から6,201人へ減っている。セグメントは百貨店業が売上5,942億円・利益274億円、スーパーマーケット業が989億円・18億円、卸売業が878億円・28億円で、利益の8割は百貨店業から出ていた。売上高ではなく利益を経営指標に置き換えたことで作った収益体質のうえで、奥田務氏は市場そのものが縮むことを理由に、単独での存続をやめる決定へ移った。
競合
全国では4位でも、京都と神戸では売上の6割を占めていた。1951年1月から7月までの百貨店売上高は三越88億9,823万円、高島屋77億余、松坂屋70億4,480万円に対し、大丸は57億7,065万円だった。ところが1954年度の都市別シェアは京都57%・神戸60%・大阪23%で、東京だけが8.1%だった。地盤の濃さと全国順位が食い違うこの形は、1968年度に小売業売上高日本一を達成したあとも変わらない。1972年度にはダイエーが3,052億円で三越を抜き、1974年度には業態別シェアでもスーパー12.7%が百貨店11.0%を上回った。2007年に共同持株会社J.フロント リテイリングを設立する相手として名古屋の松坂屋を選んだのは、300年かけて薄いままだった東京と名古屋を、他社の店で埋めるためだった。
大丸:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1978年2月期2007年2月期

創業ストーリー 京都伏見の大文字屋から四都に店を構える豪商へ (1717年〜)

享保二年の大文字屋と、四都への出店

大丸の始まりは享保2年(1717年)、下村彦右衛門正啓氏が京都伏見に開いた呉服店『大文字屋』にさかのぼる。9年後の享保11年には大阪の心斎橋筋へ進出し、続いて名古屋・京都・江戸大伝馬町に店を構えた[1]。名古屋店では屋号を大丸屋と称し、以後は『大マル』の商標のもとで家業を継いだ。ひとつの家が四つの都市に店を持つ構えは、江戸期の呉服商としては大きな部類にあたる。上方で仕入れて江戸で売るという当時の商いの流れを、大丸は自前の店だけでつないだ。明治維新の後、大丸はこの個人経営を会社組織へ改める[2]

同業の顔ぶれと並べると、大丸の創業年は江戸期のなかほどにあたる。松坂屋の前身である『いとう呉服店』が慶長16年(1611年)、白木屋が寛文2年(1662年)、三越の前身の越後屋が延宝元年(1673年)、そして高島屋が天保2年(1831年)[3]である。後年の百貨店の主要各社は、いずれも呉服店を前身に持つ。『会社銀行八十年史』はこれを『わが国の百貨店の大きな特徴』[引用元][4]と書いた。大丸が特異だったのではなく、この業種の全体が江戸の呉服商から立ち上がっている。百貨店の歴史を語るとき、創業の古さそのものは各社の差にならない。差がつくのは、呉服店から百貨店へ移る速さと、その移り方だった。

掛売りを廃し全商品に正札を付けた売り方

下村彦右衛門正啓氏は、それまでの掛売りをやめて全商品に正札を付けた。掛売りは客の信用を見て値を決める売り方で、客ごとに価格が違う。正札販売はその余地を消す。『会社銀行八十年史』は『当時としては画期的な改正であり義商として知られた』[引用元][5]と記している。値決めを店員の裁量から外すこの一手は、後に百貨店が不特定多数の客をさばく前提にあたる。四つの都市に広げた店のすべてで値を揃えるには、店ごとの判断を許さない仕組みが要る。正札は商いの倫理であると同時に、離れた店を束ねる技術でもあった。同書が大丸を『義商』と呼んだのは、この二面のうち前者を見たからである。

ただし、この時期の大丸について手元の資料が語ることは多くない。1717年から明治維新までのおよそ150年について、『会社銀行八十年史』の大丸項が書いているのは四都への出店と正札販売の2点だけである。江戸期の大元方制度や長崎での糸割符、両替商の兼営といった論点は、自社が編んだ『大丸二百五拾年史』(1967年)の目次に章として立っているものの、本文は未入手にとどまる[6]。この区間の記述が薄いのは資料が無いためであって、出来事が無かったためではない。江戸期の大丸がどう資金を回し、どう離れた店を統べたかは、社史の本文を得てから書き足すべき部分として残る。

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大丸の沿革1717〜2007年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1717〜1907年京都伏見の大文字屋から四都に店を構える豪商へ下村彦右衛門正啓が京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業
1907〜1945年株式会社への転換と、東京を畳んで関西に絞った選択株式大丸呉服店を設立
販売方法を座売式から陳列式へ変更★★
大丸呉服店を設立
里見純吉の提案により定休日制を導入
商号を「大丸」に変更
京都大丸を吸収合併
空襲により大阪本店の五階以上を焼失
1945〜1990年東京復帰と小売業日本一、そしてスーパーの台頭総合商社部門を「大丸興業」として分離独立★★
大阪証券取引所に株式を上場(1961年10月に第一部上場)
北沢敬二郎北沢敬二郎氏が社長に就任
北沢敬二郎人員整理によらない事業の存廃決定と、非百貨店部門の分離独立

1950年4月に大丸の社長へ就いた北沢敬二郎氏が、終戦後に膨らんだ人員を人員整理で処理せず、戦後に手を広げた業態の違う事業の存廃を一つずつ決め、残す事業はそれぞれ別の独立会社として切り出した経営判断。北沢氏は後年これを『人の整理より会社の整理を優先した』と記している。

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★★★
北沢敬二郎人員整理は行わない方針
北沢敬二郎「博多大丸」を開店
北沢敬二郎東京駅八重洲口「民衆駅」への大口賃借と東京店の開設

1951年、大丸の北沢敬二郎社長が東京駅八重洲口の『民衆駅』計画を知り、国鉄総裁に大丸への貸し下げを願い出た経営判断。約2万8,000平方メートルを借り、入居保証金9億3,000万円と敷金5,000万円の計約9億8,000万円を投じて、1954年10月21日に東京店を開いた。

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★★★
北沢敬二郎大丸ピーコック第1号店を枚方市・香里に開店★★
北沢敬二郎華僑資本との合弁で香港大丸を開店
北沢敬二郎北沢敬二郎氏が社長を退き会長に就任
日経流通新聞の小売業調査で全国小売業の売上高第1位
ダイエーが3,052億円で三越を抜き小売業首位に立ち、百貨店が小売業の頂点から降りる
「博多大丸」を福岡市・天神へ移転
神戸・新長田に新長田店を開店
1982年度決算が梅田店の開業負担で大幅減益となり、八王子大丸を閉鎖★★
大阪・梅田に梅田店を開店★★
CISを導入し新企業マークを制定
ホームショッピング部門とクレジット部門を分離独立
情報処理部門を分離独立
1990〜2007年奥田改革と、単独で生き残るのをやめる決定奥田務阪神・淡路大震災で被災した神戸店が全体復興
奥田務奥田務氏が社長に就任
奥田務香港・タイ・フランスの海外百貨店から撤退★★
奥田務売上至上主義から利益第一主義への転換と、海外百貨店からの撤退・売場業務の再設計

1997年3月に大丸社長へ就いた奥田務氏が、2007年までの10年をかけて進めた構造改革。海外百貨店からの撤退と国内3店舗の閉鎖、希望退職746人で身を軽くしたうえで、売場業務の分類と本部一括仕入れ、職務成果給への移行によって百貨店本業を組み替えた。売上高ではなく利益を経営の物差しに据え直した判断である。

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★★★
奥田務売上至上主義から利益第一主義へ経営方針を転換★★
山本良一山本良一氏が社長に就任
山本良一本部一括仕入れへ移行
山本良一松坂屋HDとの経営統合を取締役会で決議
山本良一大丸と松坂屋ホールディングスの経営統合と共同持株会社J.フロント リテイリングの設立

2007年3月、百貨店4位の大丸と8位の松坂屋ホールディングスが経営統合の検討で合意し、同年9月3日、株式移転による共同持株会社J.フロント リテイリングを設立した経営判断。両社を傘下にぶら下げ、売上高1兆円超で百貨店業界の首位級に立った。大丸会長兼CEOの奥田務氏が主導した。

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★★★
出典・参考

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