大丸の始まりは享保2年(1717年)、下村彦右衛門正啓氏が京都伏見に開いた呉服店『大文字屋』にさかのぼる。9年後の享保11年には大阪の心斎橋筋へ進出し、続いて名古屋・京都・江戸大伝馬町に店を構えた[1]。名古屋店では屋号を大丸屋と称し、以後は『大マル』の商標のもとで家業を継いだ。ひとつの家が四つの都市に店を持つ構えは、江戸期の呉服商としては大きな部類にあたる。上方で仕入れて江戸で売るという当時の商いの流れを、大丸は自前の店だけでつないだ。明治維新の後、大丸はこの個人経営を会社組織へ改める[2]。
同業の顔ぶれと並べると、大丸の創業年は江戸期のなかほどにあたる。松坂屋の前身である『いとう呉服店』が慶長16年(1611年)、白木屋が寛文2年(1662年)、三越の前身の越後屋が延宝元年(1673年)、そして高島屋が天保2年(1831年)[3]である。後年の百貨店の主要各社は、いずれも呉服店を前身に持つ。『会社銀行八十年史』はこれを『わが国の百貨店の大きな特徴』[引用元][4]と書いた。大丸が特異だったのではなく、この業種の全体が江戸の呉服商から立ち上がっている。百貨店の歴史を語るとき、創業の古さそのものは各社の差にならない。差がつくのは、呉服店から百貨店へ移る速さと、その移り方だった。
下村彦右衛門正啓氏は、それまでの掛売りをやめて全商品に正札を付けた。掛売りは客の信用を見て値を決める売り方で、客ごとに価格が違う。正札販売はその余地を消す。『会社銀行八十年史』は『当時としては画期的な改正であり義商として知られた』[引用元][5]と記している。値決めを店員の裁量から外すこの一手は、後に百貨店が不特定多数の客をさばく前提にあたる。四つの都市に広げた店のすべてで値を揃えるには、店ごとの判断を許さない仕組みが要る。正札は商いの倫理であると同時に、離れた店を束ねる技術でもあった。同書が大丸を『義商』と呼んだのは、この二面のうち前者を見たからである。
ただし、この時期の大丸について手元の資料が語ることは多くない。1717年から明治維新までのおよそ150年について、『会社銀行八十年史』の大丸項が書いているのは四都への出店と正札販売の2点だけである。江戸期の大元方制度や長崎での糸割符、両替商の兼営といった論点は、自社が編んだ『大丸二百五拾年史』(1967年)の目次に章として立っているものの、本文は未入手にとどまる[6]。この区間の記述が薄いのは資料が無いためであって、出来事が無かったためではない。江戸期の大丸がどう資金を回し、どう離れた店を統べたかは、社史の本文を得てから書き足すべき部分として残る。
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|---|---|---|---|---|
| 1717〜1907年京都伏見の大文字屋から四都に店を構える豪商へ | 下村彦右衛門正啓が京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業 | ★ | ||
| 1907〜1945年株式会社への転換と、東京を畳んで関西に絞った選択 | 株式大丸呉服店を設立 | ★ | ||
| 販売方法を座売式から陳列式へ変更 | ★★ | |||
| 大丸呉服店を設立 | ★ | |||
| 里見純吉の提案により定休日制を導入 | ★ | |||
| 商号を「大丸」に変更 | ★ | |||
| 京都大丸を吸収合併 | ★ | |||
| 空襲により大阪本店の五階以上を焼失 | ★ | |||
| 1945〜1990年東京復帰と小売業日本一、そしてスーパーの台頭 | 総合商社部門を「大丸興業」として分離独立 | ★★ | ||
| 大阪証券取引所に株式を上場(1961年10月に第一部上場) | ★ | |||
| 北沢敬二郎 | 北沢敬二郎氏が社長に就任 | ★ | ||
| 北沢敬二郎 | 人員整理によらない事業の存廃決定と、非百貨店部門の分離独立 1950年4月に大丸の社長へ就いた北沢敬二郎氏が、終戦後に膨らんだ人員を人員整理で処理せず、戦後に手を広げた業態の違う事業の存廃を一つずつ決め、残す事業はそれぞれ別の独立会社として切り出した経営判断。北沢氏は後年これを『人の整理より会社の整理を優先した』と記している。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北沢敬二郎 | 人員整理は行わない方針 | ★ | ||
| 北沢敬二郎 | 「博多大丸」を開店 | ★ | ||
| 北沢敬二郎 | 東京駅八重洲口「民衆駅」への大口賃借と東京店の開設 1951年、大丸の北沢敬二郎社長が東京駅八重洲口の『民衆駅』計画を知り、国鉄総裁に大丸への貸し下げを願い出た経営判断。約2万8,000平方メートルを借り、入居保証金9億3,000万円と敷金5,000万円の計約9億8,000万円を投じて、1954年10月21日に東京店を開いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 北沢敬二郎 | 大丸ピーコック第1号店を枚方市・香里に開店 | ★★ | ||
| 北沢敬二郎 | 華僑資本との合弁で香港大丸を開店 | ★ | ||
| 北沢敬二郎 | 北沢敬二郎氏が社長を退き会長に就任 | ★ | ||
| 日経流通新聞の小売業調査で全国小売業の売上高第1位 | ★ | |||
| ダイエーが3,052億円で三越を抜き小売業首位に立ち、百貨店が小売業の頂点から降りる | ★ | |||
| 「博多大丸」を福岡市・天神へ移転 | ★ | |||
| 神戸・新長田に新長田店を開店 | ★ | |||
| 1982年度決算が梅田店の開業負担で大幅減益となり、八王子大丸を閉鎖 | ★★ | |||
| 大阪・梅田に梅田店を開店 | ★★ | |||
| CISを導入し新企業マークを制定 | ★ | |||
| ホームショッピング部門とクレジット部門を分離独立 | ★ | |||
| 情報処理部門を分離独立 | ★ | |||
| 1990〜2007年奥田改革と、単独で生き残るのをやめる決定 | 奥田務 | 阪神・淡路大震災で被災した神戸店が全体復興 | ★ | |
| 奥田務 | 奥田務氏が社長に就任 | ★ | ||
| 奥田務 | 香港・タイ・フランスの海外百貨店から撤退 | ★★ | ||
| 奥田務 | 売上至上主義から利益第一主義への転換と、海外百貨店からの撤退・売場業務の再設計 1997年3月に大丸社長へ就いた奥田務氏が、2007年までの10年をかけて進めた構造改革。海外百貨店からの撤退と国内3店舗の閉鎖、希望退職746人で身を軽くしたうえで、売場業務の分類と本部一括仕入れ、職務成果給への移行によって百貨店本業を組み替えた。売上高ではなく利益を経営の物差しに据え直した判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 奥田務 | 売上至上主義から利益第一主義へ経営方針を転換 | ★★ | ||
| 山本良一 | 山本良一氏が社長に就任 | ★ | ||
| 山本良一 | 本部一括仕入れへ移行 | ★ | ||
| 山本良一 | 松坂屋HDとの経営統合を取締役会で決議 | ★ | ||
| 山本良一 | 大丸と松坂屋ホールディングスの経営統合と共同持株会社J.フロント リテイリングの設立 2007年3月、百貨店4位の大丸と8位の松坂屋ホールディングスが経営統合の検討で合意し、同年9月3日、株式移転による共同持株会社J.フロント リテイリングを設立した経営判断。両社を傘下にぶら下げ、売上高1兆円超で百貨店業界の首位級に立った。大丸会長兼CEOの奥田務氏が主導した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(大丸)