1953年〜 池袋の駅前ビルが百貨店を志し、十五年かけて行き詰まるまで
- 1953年東京都豊島区南池袋に池袋ステーションビル株式会社を設立。
- 1954年株式会社丸物の資本参加を得て、事業目的をステーションビル運営から百貨店業に変更。
- 1957年店名「東京丸物」で百貨店業を開始。
- 1957年池袋ステーションビル株式会社を株式会社東京丸物に商号変更。
- 1963年株式会社東京丸物が社団法人日本証券業協会大阪地区協会の「登録銘柄」に登録。
パルコの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
駅前ビル会社として生まれ、京都の百貨店の資本で業種を変える
1953年2月、東京都豊島区南池袋に池袋ステーションビル株式会社が設立された。国鉄池袋駅前のターミナルビルを運営する会社である。ところが翌1954年10月、京都の百貨店である株式会社丸物の資本参加を受け、事業目的をステーションビルの運営から百貨店業へ変更した。丸物は京都市下京区烏丸通七条下ルに本社を置き、1934年9月に設立された百貨店である。1957年5月には商号を株式会社東京丸物へ改め、同年12月、店名「東京丸物」で百貨店の営業を始めた。設立からわずか4年で、駅前の不動産会社が小売業者へ姿を変えている。のちにパルコが不動産賃貸業へ戻るまでの15年は、この最初の転換の帰結であった。 [1][2][3][4]
- 有価証券報告書
- [1]1953年2月に東京都豊島区南池袋で池袋ステーションビル株式会社が設立された
- [2]1954年10月に株式会社丸物の資本参加を得て事業目的を百貨店業へ変更した
- [3]1957年5月に株式会社東京丸物へ商号変更し、同年12月に店名「東京丸物」で百貨店業を開始した
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [4]丸物は京都市下京区烏丸通七条下ルに本社を置く百貨店で、1934年9月28日設立
資本を出した丸物の側から見れば、京都の百貨店が東京に足場を得る話であった。1963年7月、東京丸物は社団法人日本証券業協会大阪地区協会の登録銘柄に登録される。表向きは順調な拡大に見える。しかし池袋という土地は当時ファッションとは縁の薄い商店街で、隣には西武百貨店が構えていた。日本の一流専門店を集めた広場を作ると唱えても、東京丸物という社名と池袋という立地の組み合わせは、客の側にすでにできあがった印象を覆せない。百貨店は品揃えと売場で競う商売であり、隣に同じ形の店がある以上、後から来た側は規模でも歴史でも先行者を追う位置に置かれた。 [5][6]
- 有価証券報告書
- [5]1963年7月に東京丸物が日本証券業協会大阪地区協会の登録銘柄に登録された
- 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
- [6]池袋という土地柄は当時ファッションとは縁遠いイメージがあり、隣接して西武百貨店があった
- 有価証券報告書
- [1]1953年2月に東京都豊島区南池袋で池袋ステーションビル株式会社が設立された
- [2]1954年10月に株式会社丸物の資本参加を得て事業目的を百貨店業へ変更した
- [3]1957年5月に株式会社東京丸物へ商号変更し、同年12月に店名「東京丸物」で百貨店業を開始した
- [5]1963年7月に東京丸物が日本証券業協会大阪地区協会の登録銘柄に登録された
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [4]丸物は京都市下京区烏丸通七条下ルに本社を置く百貨店で、1934年9月28日設立
- 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
- [6]池袋という土地柄は当時ファッションとは縁遠いイメージがあり、隣接して西武百貨店があった
月々2億円の赤字と、西武百貨店による買収
東京丸物の営業不振は続いた。1966年、同社は西武百貨店に買収される。堤清二氏の率いる西武の傘下に入った時点で、東京丸物は累積赤字18億円を抱え、月々2億円の赤字を出す月もあった。再建を託されて送り込まれたのが、西武百貨店の増田通二氏である。1926年に東京・市ヶ谷に生まれた増田氏は、旧制中学で堤氏と隣席になり、東京大学でも学友となった間柄で、1951年に西武鉄道グループの国土計画へ入り、都立高校の社会科教師などを経て1961年に西武百貨店へ移っていた。当時を振り返って増田氏は「その時はもうダメかと思ったな」と語っている。同氏の表現によれば、東京丸物は完全な「死に体」であった。 [7][8][9][10]
- 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
- [7]東京丸物は営業不振を続け、昭和41年(1966年)に西武百貨店に買収された
- [8]累積赤字18億円を抱え、月々2億円の赤字を出したこともあった
- [9]増田通二氏が東京丸物の再建を託されて送り込まれた
- 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
- [10]増田通二氏は1926年に東京・市ヶ谷に生まれ、旧制中学で堤清二氏と隣席になり東京大学でも学友となった。1951年に国土計画へ入社し、都立高校の社会科教師などを経て1961年に西武百貨店へ入社した
なぜ立て直せなかったのか。増田氏はのちに、業種そのものの難しさとして説明している。「小売業の立て直しというのは難しいんです。これがメーカーなら設備、商社なら資金力という決め手がある。小売業は商品、サービス、建物という具合に分散しているし、仮にそうしたものが改善できても、客の方でその店に悪いイメージを持っていたらどうしようもない」。改善すべき変数が多く、そのすべてを直しても客の印象が残るなら効かない。東京丸物の15年は、百貨店として競うかぎり池袋では西武に勝てないという事実を、赤字の額で示していた。 [11]
- 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
- [11]増田通二氏が小売業の立て直しの難しさを商品・サービス・建物の分散として説明した
- 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
- [7]東京丸物は営業不振を続け、昭和41年(1966年)に西武百貨店に買収された
- [8]累積赤字18億円を抱え、月々2億円の赤字を出したこともあった
- [9]増田通二氏が東京丸物の再建を託されて送り込まれた
- [11]増田通二氏が小売業の立て直しの難しさを商品・サービス・建物の分散として説明した
- 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
- [10]増田通二氏は1926年に東京・市ヶ谷に生まれ、旧制中学で堤清二氏と隣席になり東京大学でも学友となった。1951年に国土計画へ入社し、都立高校の社会科教師などを経て1961年に西武百貨店へ入社した