パルコ の歴史

創業

1953年

創業者

※増田通二(1969年の業態転換)

創業地

東京都豊島区南池袋

直近売上高(2019/2)

900億円

長期業績と転換点(1991/2〜2020/2)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1969年に東京丸物は百貨店をやめ、テナントに場所を貸す会社へ変わったのか
A 小売業は商品・サービス・建物のどれを直しても、客がその店に抱いた印象までは覆せない。改善すべき変数が多いうえ、最後の一つが自社の手の外にある。再建を託された増田通二氏の診断はそこにあった。直すべきは個々の売場ではなく、稼ぎ方そのものであった。1966年に西武百貨店へ買収された時点で東京丸物は累積赤字18億円を抱え、月々2億円の赤字を出す月もあった。増田氏は商品を仕入れて売る立場を捨て、専門店に場所を貸して賃料を得る立場へ移った。1969年11月に池袋パルコが開店し、翌1970年4月に商号もパルコへ改まった
Q なぜ2011年のパルコは、社長の退任と引き換えに独立を選んだのか
A 議決権で対抗できない以上、相手が矛を収める最小の対価を探すほかなかった。イオンと森トラストは議決権の共同行使で合意し、合算比率は45%強に達している。イオンは事業提携に加えて平野秀一社長の退任、最高経営責任者を含む取締役の派遣、将来的な子会社化を求めた。パルコが差し出したのは、資本でも事業でもなく社長の職であった。社長ひとりを替えれば矛を収めるという線を森トラストが受け入れ、株主提案は総会前に取り下げられる。ただし守られた独立は1年あまりしか続かず、2012年8月にJ.フロント リテイリングが親会社となった
Q なぜJ.フロント傘下入り後のパルコは、広告を打たない「ゼロゲート」を主力の出店形態にしたのか
A 賃料を固定して広告費を負わなければ、テナントの売上変動から切り離された安定収益になる。ゼロゲートは広告や販売促進を原則行わず、パルコは不動産賃貸だけを担う方式であった。1975年度にテナント売上高の3%にあたる約14億円を広告に投じ、その支出で客を動かしてきた収益の作り方とは原理が異なる。連結の経常利益は2013年2月期の103億円から2016年2月期の127億円まで伸び、業績の面ではこの選択が奏功した。ただし空間と情報で付加価値をつけてきたかつての姿からは、稼ぎ方が遠ざかったと推定される。

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1953年〜 池袋の駅前ビルが百貨店を志し、15年かけて行き詰まるまで

  1. 1953年 池袋ステーションビルを設立
  2. 1954年 丸物の資本参加を得て、事業目的をステーションビル運営から百貨店業に変更
  3. 1957年 池袋ステーションビルを東京丸物に商号変更
  4. 1957年 店名「東京丸物」で百貨店業を開始
  5. 1963年 東京丸物が社団法人日本証券業協会大阪地区協会の「登録銘柄」に登録

駅前ビル会社として生まれ、京都の百貨店の資本で業種を変える

1953年2月、国鉄池袋駅東口ビルの改装と運営を目的として[1]、東京都豊島区南池袋に池袋ステーションビル株式会社が設立された[2]。ところが翌1954年10月、京都の百貨店である株式会社丸物の資本参加を受け、事業目的をステーションビルの運営から百貨店業へ変更した[3]。丸物は京都市下京区烏丸通七条下ルに本社を置き、1934年9月に設立された[4]百貨店である。1957年5月には商号を株式会社東京丸物へ改め、同年12月、店名「東京丸物」で池袋での百貨店営業を始めた[5]

  • 証券 1987年39巻3号「新規上場会社紹介 株式会社パルコ」
    • [1]設立目的は池袋駅東口ビルの改装と運営
  • 有価証券報告書
    • [2]1953年2月 東京都豊島区南池袋に池袋ステーションビル株式会社を設立
    • [3]1954年10月 丸物の資本参加を得て事業目的を百貨店業へ変更
    • [5]1957年5月 株式会社東京丸物へ商号変更、同年12月 店名「東京丸物」で百貨店業を開始
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [4]丸物は京都市下京区烏丸通七条下ルに本社を置く百貨店で、1934年9月28日設立

1963年7月25日、東京丸物は社団法人日本証券業協会大阪地区協会の登録銘柄に登録された[6][7]。しかし1960年代に入ると、百貨店業界で続いた売場面積の拡張競争に有効な対抗手段を取れないまま、経営状態は悪化した[8]。池袋は当時ファッションとは縁遠い土地柄[9]で、隣には西武百貨店が構えていた[10]

  • 有価証券報告書
    • [6]1963年7月 東京丸物が日本証券業協会大阪地区協会の登録銘柄に登録
  • 証券 1987年39巻3号「新規上場会社紹介 株式会社パルコ」
    • [7]大阪店頭登録の登録日 昭和38年(1963年)7月25日
    • [8]1960年代に百貨店業界の売場面積拡張競争へ有効な対抗手段を取れず経営状態が悪化
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [9]池袋はファッションと縁遠い土地柄
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
    • [10]西武百貨店が隣接
  • 証券 1987年39巻3号「新規上場会社紹介 株式会社パルコ」
    • [1]設立目的は池袋駅東口ビルの改装と運営
    • [7]大阪店頭登録の登録日 昭和38年(1963年)7月25日
    • [8]1960年代に百貨店業界の売場面積拡張競争へ有効な対抗手段を取れず経営状態が悪化
  • 有価証券報告書
    • [2]1953年2月 東京都豊島区南池袋に池袋ステーションビル株式会社を設立
    • [3]1954年10月 丸物の資本参加を得て事業目的を百貨店業へ変更
    • [5]1957年5月 株式会社東京丸物へ商号変更、同年12月 店名「東京丸物」で百貨店業を開始
    • [6]1963年7月 東京丸物が日本証券業協会大阪地区協会の登録銘柄に登録
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [4]丸物は京都市下京区烏丸通七条下ルに本社を置く百貨店で、1934年9月28日設立
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [9]池袋はファッションと縁遠い土地柄
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
    • [10]西武百貨店が隣接

月々2億円の赤字と、西武百貨店による買収

東京丸物の営業不振は続き、1966年、同社は西武百貨店に買収された[11]。堤清二氏の率いる西武の傘下に入った時点で、東京丸物は累積赤字18億円を抱え、月々2億円の赤字を出す月もあった[12]。再建を託されて送り込まれたのが、西武百貨店の増田通二氏[13]である。1926年に東京・市ヶ谷に生まれた増田氏は、旧制中学で堤氏と隣席になり、東京大学でも学友となった[14]間柄で、1951年に西武鉄道グループの国土計画へ入り、都立高校の社会科教師などを経て1961年に西武百貨店へ移っていた[15]。当時を振り返って増田氏は「その時はもうダメかと思ったな」と語り、東京丸物を完全な「死に体」と呼んだ[16]

  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [11]東京丸物は営業不振を続け、昭和41年(1966年)に西武百貨店へ買収
    • [12]累積赤字18億円、月々2億円の赤字
    • [13]増田通二氏が東京丸物の再建を託されて送り込まれた
    • [16]増田通二氏「その時はもうダメかと思ったな」東京丸物は完全な「死に体」
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
    • [14]増田通二氏は1926年 東京・市ヶ谷生まれ、旧制中学で堤清二氏と隣席、東京大学でも学友
    • [15]増田通二氏は1951年 国土計画へ入社、都立高校教師などを経て1961年 西武百貨店へ入社

増田氏はのちに、立て直しの難しさを業種そのものの性質として説明した。「小売業の立て直しというのは難しいんです。これがメーカーなら設備、商社なら資金力という決め手がある。小売業は商品、サービス、建物という具合に分散しているし、仮にそうしたものが改善できても、客の方でその店に悪いイメージを持っていたらどうしようもない」。改善すべき要素が商品・サービス・建物へ分散し、そのすべてを直しても客の印象が残るかぎり効かない、という診断であった。 [17]

  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [17]増田通二氏が小売業の立て直しの難しさを商品・サービス・建物の分散として説明
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [11]東京丸物は営業不振を続け、昭和41年(1966年)に西武百貨店へ買収
    • [12]累積赤字18億円、月々2億円の赤字
    • [13]増田通二氏が東京丸物の再建を託されて送り込まれた
    • [16]増田通二氏「その時はもうダメかと思ったな」東京丸物は完全な「死に体」
    • [17]増田通二氏が小売業の立て直しの難しさを商品・サービス・建物の分散として説明
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
    • [14]増田通二氏は1926年 東京・市ヶ谷生まれ、旧制中学で堤清二氏と隣席、東京大学でも学友
    • [15]増田通二氏は1951年 国土計画へ入社、都立高校教師などを経て1961年 西武百貨店へ入社

1969年〜 小売業をやめて不動産業になる ―― 空間に値をつけた20年

  1. 1969年 「東京丸物」を閉店
  2. 1969年 「パルコ」の開設準備に着手
  3. 1969年 百貨店業からの撤退と、専門店に場所を貸すファッションビル運営への転換 累積赤字18億円の百貨店を、増田通二氏はなぜ「不動産屋」と定義し直したか
  4. 1970年 パルコに商号変更
  5. 1973年 東京パルコが「渋谷パルコ」を開店
  6. 1973年 「パルコ劇場」の運営を開始
  7. 1974年 東京パルコを吸収合併

商品を売る会社から、テナントに場所を貸す会社へ

1969年6月、東京丸物は店を閉じ、「パルコ」の開設準備に入った。同年11月に池袋パルコが開店し、1970年4月には商号も株式会社パルコへ改めた[19]。改めたのは店名だけではなく、小売業から、専門店を集めたファッションビルの開発・運営業への業態転換であった。自ら商品を仕入れて売る立場を捨て、テナントに場所を貸して賃料を得る立場へ移った。増田氏はこれを「全面的、かつ徹底的モデルチェンジ」と呼び、自社を端的に「不動産屋」と規定した[21]。狙ったのは団塊世代の働く女性で、隣接する西武百貨店と同じことをやっても意味がない[22]、というのが本人の判断であった。 [18][20]

  • 有価証券報告書
    • [18]1969年6月 東京丸物を閉店しパルコ開設準備に着手、同年11月 池袋パルコ開店
    • [19]1970年4月 株式会社東京丸物から株式会社パルコへ商号変更
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [20]小売業から専門店を集めたファッションビルの開発・運営業へ転換
    • [21]増田通二氏は転換を「全面的、かつ徹底的モデルチェンジ」と表現し、自社を「不動産屋」と規定
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
    • [22]狙った客層は団塊世代の働く女性/隣接する西武百貨店と同じことをやっても意味がない

増田氏は「何といっても賃料で食ってる不動産屋ですからね。不動産は値打ちの通りしか売れない。駅から遠けりゃ安くなるし、日当たりが悪けりゃ高い家賃はとれない。いくら部屋の中にきれいな花を飾ってみたって付加価値が大きくなるわけじゃない」と述べている。素材にもう一手を加えれば確固たる付加価値が出て商売ができるという思い込みが、立地の不利な場所に商業施設を作らせる落とし穴である[24]、というのが同氏の見立てであった。パルコの出店はまず不動産への厳しい評価から始まり、悪い物件だという認識があればそこから出発した[25][23]

  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [23]増田通二氏がパルコを賃料で食う不動産屋と規定
    • [24]素材への一手で付加価値が出るという思い込みが、立地の不利な場所に施設を作らせる落とし穴
    • [25]出店はまず不動産への厳しい評価から始め、悪い物件との認識があればそこから出発
  • 有価証券報告書
    • [18]1969年6月 東京丸物を閉店しパルコ開設準備に着手、同年11月 池袋パルコ開店
    • [19]1970年4月 株式会社東京丸物から株式会社パルコへ商号変更
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [20]小売業から専門店を集めたファッションビルの開発・運営業へ転換
    • [21]増田通二氏は転換を「全面的、かつ徹底的モデルチェンジ」と表現し、自社を「不動産屋」と規定
    • [23]増田通二氏がパルコを賃料で食う不動産屋と規定
    • [24]素材への一手で付加価値が出るという思い込みが、立地の不利な場所に施設を作らせる落とし穴
    • [25]出店はまず不動産への厳しい評価から始め、悪い物件との認識があればそこから出発
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
    • [22]狙った客層は団塊世代の働く女性/隣接する西武百貨店と同じことをやっても意味がない

駅から900メートルの坂を、歩かせる商品にした渋谷店

1973年6月、株式会社東京パルコが渋谷パルコを開店し、同時にパルコ劇場(当初は西武劇場)の運営を始めた[26]。渋谷は当時、新宿や銀座に一段劣ると見られていた街[27]である。しかも敷地は駅から900メートル離れた坂の上で、商業施設としての成功見通しは絶望的とまで言われた[28]。増田氏は自らカウンターを持って通行人を数え、社員には古代ローマの都市と道の文化史を研究させた[29]。そのうえで劇場を作り、坂を上る行為そのものを「坂道のショッピング」というキャッチフレーズで価値に変えた[30]。店の周りでは電線の地下埋設や歩道の拡張といった公園通りの開発[31]にも踏み込み、「すれちがう人が美しい、渋谷公園通り」の言葉で坂の上へ人を呼び寄せた。翌1974年3月、パルコは東京パルコを吸収合併し、渋谷パルコを承継した[33][32]

  • 有価証券報告書
    • [26]1973年6月 株式会社東京パルコが渋谷パルコを開店、パルコ劇場(旧西武劇場)の運営開始
    • [33]1974年3月 株式会社東京パルコを吸収合併し渋谷パルコを承継
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
    • [27]渋谷は当時 新宿や銀座に比べ一段劣るイメージの街
    • [28]渋谷店は駅から900メートル離れた立地で成功見通しは「絶望的」とされた
    • [32]キャッチコピー「すれちがう人が美しい、渋谷公園通り──」で坂の上へ人を呼び寄せた
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [29]増田通二氏が自らカウンターで通行人を数え、社員に古代ローマの都市と道の文化史を研究させた
    • [30]キャッチフレーズ「坂道のショッピング」で渋谷を歩く若者の流れを変えた
  • 証券 1987年39巻3号「新規上場会社紹介 株式会社パルコ」
    • [31]電線の地下埋設・歩道の拡張など渋谷公園通りの開発

広告費の出どころも賃貸業の論理で決まり、広告宣伝費の予算はテナントの売上高合計の3%と定め、パルコとテナントで2対1の比率で分担した[34]。1975年度にこの専門店の集団が使った広告宣伝費は約14億円にのぼり、日経ビジネスの広告費300社ランキングでも120位前後に入った[35]。目玉となる百貨店やスーパーがあれば客は黙っていても来るが、核を持たない専門店の集合体では広告宣伝の重要性が増し、それで得られる顧客動員力が核そのものになる[36]、というのが増田氏の考え方であった。同氏は「凝り過ぎと言われるぐらいで丁度いいんじゃないかな」[37]と述べている。起用したのは大物タレントではなく、ジャン・ギャバンの吹き替えの声と、本物のスタンドインを務めたアンリ・シャフェールという俳優による徹底したパロディー[38]であった。

  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [34]広告宣伝費予算は専門店の売上高合計の3%、パルコとテナントが2対1で分担
    • [35]1975年度の広告宣伝費 約14億円、広告費300社ランキング120位前後
    • [36]増田通二氏 核を持たない専門店集団では広告で得る顧客動員力が核そのもの
    • [37]増田通二氏「凝り過ぎと言われるぐらいで丁度いいんじゃないかな」
    • [38]ジャン・ギャバンの吹き替えの声と、そのスタンドインを務めた俳優アンリ・シャフェールを起用したパロディー広告

社会学者の上野千鶴子氏は、この時期のパルコの新しさを「物を売らずに空間を売ったこと」と要約している[39]。テナントがばらばらに物を売っていたところに、パルコというハコをブランド化して空間そのものに付加価値をつけ、賃料を取りながら広告戦略をまとめて引き受け、劇場まで作った。上野氏はこれを「空間ビジネス」と呼んだ。三宅一生氏や高田賢三氏ら新進気鋭のデザイナーを起用し[42]、1973年には渋谷店の劇場開設と同時に出版事業へも手を広げ、雑誌「ビックリハウス」や美術関係の単行本を刊行した[43]。セゾングループのなかでパルコだけは堤氏の支配から独立した治外法権だった[44]、と上野氏は述べている。 [40][41]

  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「INTERVIEW 上野千鶴子 堤さんはパルコに嫉妬していた」
    • [39]上野千鶴子氏が当時のパルコの先進性を「物を売らずに空間を売ったこと」と表現
    • [40]ハコのブランド化と空間への付加価値づけ、広告戦略の一括引き受けと劇場の運営
    • [41]上野千鶴子氏はこれを「空間ビジネス」と呼んだ
    • [44]上野千鶴子氏 セゾングループのなかでパルコだけは堤清二氏の支配から独立した治外法権
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
    • [42]三宅一生氏や高田賢三氏ら新進気鋭のデザイナーを起用
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [43]1973年 渋谷店の劇場開設と同時に出版事業へ進出、雑誌「ビックリハウス」や美術関係の単行本を刊行
  • 有価証券報告書
    • [26]1973年6月 株式会社東京パルコが渋谷パルコを開店、パルコ劇場(旧西武劇場)の運営開始
    • [33]1974年3月 株式会社東京パルコを吸収合併し渋谷パルコを承継
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
    • [27]渋谷は当時 新宿や銀座に比べ一段劣るイメージの街
    • [28]渋谷店は駅から900メートル離れた立地で成功見通しは「絶望的」とされた
    • [32]キャッチコピー「すれちがう人が美しい、渋谷公園通り──」で坂の上へ人を呼び寄せた
    • [42]三宅一生氏や高田賢三氏ら新進気鋭のデザイナーを起用
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [29]増田通二氏が自らカウンターで通行人を数え、社員に古代ローマの都市と道の文化史を研究させた
    • [30]キャッチフレーズ「坂道のショッピング」で渋谷を歩く若者の流れを変えた
    • [34]広告宣伝費予算は専門店の売上高合計の3%、パルコとテナントが2対1で分担
    • [35]1975年度の広告宣伝費 約14億円、広告費300社ランキング120位前後
    • [36]増田通二氏 核を持たない専門店集団では広告で得る顧客動員力が核そのもの
    • [37]増田通二氏「凝り過ぎと言われるぐらいで丁度いいんじゃないかな」
    • [38]ジャン・ギャバンの吹き替えの声と、そのスタンドインを務めた俳優アンリ・シャフェールを起用したパロディー広告
    • [43]1973年 渋谷店の劇場開設と同時に出版事業へ進出、雑誌「ビックリハウス」や美術関係の単行本を刊行
  • 証券 1987年39巻3号「新規上場会社紹介 株式会社パルコ」
    • [31]電線の地下埋設・歩道の拡張など渋谷公園通りの開発
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「INTERVIEW 上野千鶴子 堤さんはパルコに嫉妬していた」
    • [39]上野千鶴子氏が当時のパルコの先進性を「物を売らずに空間を売ったこと」と表現
    • [40]ハコのブランド化と空間への付加価値づけ、広告戦略の一括引き受けと劇場の運営
    • [41]上野千鶴子氏はこれを「空間ビジネス」と呼んだ
    • [44]上野千鶴子氏 セゾングループのなかでパルコだけは堤清二氏の支配から独立した治外法権

13年ぶりの復配と、上場後に表舞台を去った経営者

転換の成否は数字に表れ、営業収入は1972年2月期の約10億円から1976年2月期に40億円を超え、1977年2月期は70億円の見込みであった[45]。テナント総売上高は約700億円、資本金10億円に対し従業員は230人、平均年齢30歳[46]であった。1976年2月期には年5円・10%の配当を再開し、増田氏は「13年ぶりかな。やっとこぎつけた」と述べている。ただし当期利益は1975年2月期を境に減少しており、新店への投資がかさんだためであった[48][47]

  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [45]営業収入 1972年2月期 約10億円 → 1976年2月期 40億円超、1977年2月期は70億円の見込み
    • [46]1977年2月時点でテナント総売上高 約700億円、従業員230人・平均年齢30歳、資本金10億円
    • [47]1976年2月期 年5円・10%の復配、増田通二氏「13年ぶりかな。やっとこぎつけた」
    • [48]当期利益は1975年2月期を境に減少、新店への投資増が要因

賃貸業への転換は財務の形も変え、テナントから預かる保証金は112億7600万円に達し、固定負債総額の70%強を占めた[49]。パルコが差し入れる入居保証金も1974年2月期の9200万円から1975年2月期には49億2900万円へ膨らんだ[50]。長短借入金は1976年2月期に65億4000万円まで増え、金融収支は1975年2月期の2100万円の受け取り超過から2億4800万円の支払い超過へ逆転した[51]。それでも営業収入に対する金利負担率は5.9%にとどまり、無利息で預かる保証金が資金繰りを支えていた[52]

  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [49]テナントから預かる保証金 112億7600万円、固定負債総額の70%強
    • [50]入居保証金 1974年2月期9200万円 → 1975年2月期49億2900万円
    • [51]長短借入金は1976年2月期に65億4000万円へ増加、金融収支は2億4800万円の支払い超過へ逆転
    • [52]営業収入に対する金利負担率 5.9%、無利息の保証金が資金を支えた

出店は続き、1975年8月に札幌、1976年9月に岐阜、同年12月に千葉、1977年7月に津田沼、1980年9月に吉祥寺、1983年6月に新所沢、1984年8月に松本、1986年5月に熊本と各地へ広げた[53][54]。1987年1月23日、増田氏を代表取締役社長として[55]東京証券取引所市場第二部へ上場し、1988年8月には第一部銘柄に指定された[56]。しかしその1988年、当時の専務らによる総会屋への利益供与が発覚した[57]。増田氏は1989年に会長職を退いて表舞台から姿を消し、後任の会長には堤氏が就いた[58]。日本画家を父に持ち芸術にも通じた増田氏は、晩年を美術館の運営など文化活動にあて、2007年に急性心不全のため81歳で死去した[59]

  • 有価証券報告書
    • [53]1975年8月 札幌、1977年7月 津田沼、1980年9月 吉祥寺、1983年6月 新所沢、1984年8月 松本、1986年5月 熊本の各パルコを開店
    • [56]1987年1月 東京証券取引所市場第二部へ上場、1988年8月 第一部銘柄へ指定
  • 証券 1987年39巻3号「新規上場会社紹介 株式会社パルコ」
    • [54]1976年9月 岐阜パルコ店、1976年12月 千葉パルコ店を開店
    • [55]上場年月日 昭和62年(1987年)1月23日、上場時の代表者は取締役社長 増田通二氏、所属部は市場第二部
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
    • [57]1988年 当時の専務らによる総会屋への利益供与が発覚
    • [58]増田通二氏は1989年に会長職を退任、後任の会長に堤清二氏が就任
    • [59]増田通二氏は2007年に急性心不全のため81歳で死去
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [45]営業収入 1972年2月期 約10億円 → 1976年2月期 40億円超、1977年2月期は70億円の見込み
    • [46]1977年2月時点でテナント総売上高 約700億円、従業員230人・平均年齢30歳、資本金10億円
    • [47]1976年2月期 年5円・10%の復配、増田通二氏「13年ぶりかな。やっとこぎつけた」
    • [48]当期利益は1975年2月期を境に減少、新店への投資増が要因
    • [49]テナントから預かる保証金 112億7600万円、固定負債総額の70%強
    • [50]入居保証金 1974年2月期9200万円 → 1975年2月期49億2900万円
    • [51]長短借入金は1976年2月期に65億4000万円へ増加、金融収支は2億4800万円の支払い超過へ逆転
    • [52]営業収入に対する金利負担率 5.9%、無利息の保証金が資金を支えた
  • 有価証券報告書
    • [53]1975年8月 札幌、1977年7月 津田沼、1980年9月 吉祥寺、1983年6月 新所沢、1984年8月 松本、1986年5月 熊本の各パルコを開店
    • [56]1987年1月 東京証券取引所市場第二部へ上場、1988年8月 第一部銘柄へ指定
  • 証券 1987年39巻3号「新規上場会社紹介 株式会社パルコ」
    • [54]1976年9月 岐阜パルコ店、1976年12月 千葉パルコ店を開店
    • [55]上場年月日 昭和62年(1987年)1月23日、上場時の代表者は取締役社長 増田通二氏、所属部は市場第二部
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
    • [57]1988年 当時の専務らによる総会屋への利益供与が発覚
    • [58]増田通二氏は1989年に会長職を退任、後任の会長に堤清二氏が就任
    • [59]増田通二氏は2007年に急性心不全のため81歳で死去

1989年〜 後ろ盾を失った20年 ―― セゾン解体と「第二創業」の模索

パルコの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1989年 ハウスカード「PECカード」の発行開始
  2. 1989年 「名古屋パルコ」を開店
  3. 1991年 PARCO (SINGAPORE) PTE LTD設立
  4. 1993年 「ひばりが丘パルコ」を開店
  5. 1994年 「広島パルコ」を開店
  6. 1997年 「宇都宮パルコ」を開店
  7. 2000年 パルコ・シティを設立

出店で伸ばした売上と、薄れていった独自性

増田氏の退任後も出店は途切れず、1989年5月に調布、6月に名古屋、1993年10月にひばりが丘、1994年4月に広島、1997年3月に宇都宮パルコを開いた[60]。1989年4月にはハウスカード「PECカード」の発行を始め、1991年11月にはPARCO (SINGAPORE) PTE LTDを設立[61]して海外へも出た。1994年3月には池袋にP'PARCOを開き、1998年11月には名古屋パルコ南館を加えるなど、既存店の増床でも面積を伸ばした[62]。テナントの入れ替えも続き、等身大の服が受けた1990年代の平成カジュアルブームに先駆けて、「ナイスクラップ」などの新ブランドが渋谷パルコへ誘致された[63]

  • 有価証券報告書
    • [60]1989年5月 調布、6月 名古屋、1993年10月 ひばりが丘、1994年4月 広島、1997年3月 宇都宮の各パルコを開店
    • [61]1989年4月 ハウスカード「PECカード」の発行を開始、1991年11月 PARCO (SINGAPORE) PTE LTD を設立
    • [62]1994年3月 池袋にP'PARCOを開店、1998年11月 名古屋パルコ南館を増床
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「黒子の奥義 パルコ 時代に翻弄されるパルコ文化」
    • [63]1990年代の平成カジュアルブームに先駆け「ナイスクラップ」などの新ブランドを渋谷パルコへ誘致

業態としての希少性が薄れたことを、上野氏は後年、賞味期限の問題として説明している。駅ビルやデパートが追随してパルコ化し、これだけ普及すればパルコに差別化も付加価値もない、というのがその見立てであった。1980年代後半に西武百貨店を中核として日本一の流通グループへのし上がったセゾングループのなかで、パルコは自ら流行を作り出す「パルコ文化」の担い手であり、イメージ戦略の中心に置かれていた[65][64]

  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「INTERVIEW 上野千鶴子 堤さんはパルコに嫉妬していた」
    • [64]上野千鶴子氏は駅ビルやデパートの追随でパルコ化が普及し差別化と付加価値が失われたと述べた
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「黒子の奥義 パルコ 時代に翻弄されるパルコ文化」
    • [65]セゾングループは1980年代後半に西武百貨店を中核とする日本一の流通グループとなり、パルコはそのイメージ戦略の中心で「パルコ文化」を担った
  • 有価証券報告書
    • [60]1989年5月 調布、6月 名古屋、1993年10月 ひばりが丘、1994年4月 広島、1997年3月 宇都宮の各パルコを開店
    • [61]1989年4月 ハウスカード「PECカード」の発行を開始、1991年11月 PARCO (SINGAPORE) PTE LTD を設立
    • [62]1994年3月 池袋にP'PARCOを開店、1998年11月 名古屋パルコ南館を増床
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「黒子の奥義 パルコ 時代に翻弄されるパルコ文化」
    • [63]1990年代の平成カジュアルブームに先駆け「ナイスクラップ」などの新ブランドを渋谷パルコへ誘致
    • [65]セゾングループは1980年代後半に西武百貨店を中核とする日本一の流通グループとなり、パルコはそのイメージ戦略の中心で「パルコ文化」を担った
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「INTERVIEW 上野千鶴子 堤さんはパルコに嫉妬していた」
    • [64]上野千鶴子氏は駅ビルやデパートの追随でパルコ化が普及し差別化と付加価値が失われたと述べた

2000年の社長交代と、コンサル事業という第二の柱

2000年3月、12年にわたり社長・会長を務めた山田昌義氏が相談役に退き、伊東勇氏が社長に就任した[66]。1944年に川崎市で生まれた伊東氏は1969年に西武百貨店へ入り、1976年にパルコへ移って吉祥寺店長・札幌店長などを務めた[67]人物であった。当時のパルコは3期連続の減収で、伊東氏は全国19店舗の商圏と顧客ニーズを検証し直し[68]、改装で各市場に合う店へ作り替える方針を掲げた。同時に、店作りの決定に時間がかかって優良テナントを取り逃がす例があったとして、店長へ大幅に権限を委譲した[69]

  • 週刊東洋経済 2000年7月1日号「[トップの履歴書]パルコ社長 伊東勇」
    • [66]2000年3月 山田昌義氏が相談役へ、伊東勇氏が代表取締役社長に就任
    • [67]伊東勇氏は1944年 川崎市生まれ、1969年 西武百貨店入社、1976年 パルコへ移り吉祥寺店長・札幌店長を歴任
    • [68]就任時のパルコは3期連続の減収、全国19店舗の商圏と顧客ニーズを再検証
    • [69]店作りの決定の遅れで優良テナントを取り逃がす例があり、店長へ大幅に権限を委譲

伊東氏は2000年を「第二創業期」と呼び、本業の立て直しと並行して新しい収益の柱にコンサル事業を据えた[70]。デベロッパーとして蓄えた知見で他社の店作りを支援するもので、同年9月にJR九州の長崎駅ビルが第一号として開業[71]した。2003年までに営業利益の10%をコンサル事業で確保する目標を掲げた[72]。あわせて能力・成果主義の人事制度を入れ、少数精鋭という持ち味が薄れたとして若手の登用も進めた[73]

  • 週刊東洋経済 2000年7月1日号「[トップの履歴書]パルコ社長 伊東勇」
    • [70]伊東勇氏は2000年を第二創業期と位置づけ、コンサル事業を新たな収益柱に据えた
    • [71]2000年9月 JR九州の長崎駅ビルがコンサル事業第一号として開業
    • [72]2003年までに営業利益の10%をコンサル事業で確保する目標
    • [73]能力・成果主義の人事制度を導入し若手を登用

組織面でも手が入り、2000年3月に株式会社パルコ・シティを設立し、同年9月には株式会社西電工と株式会社パルコプロモーションを合併して株式会社パルコスペースシステムズとした[74]。2001年6月には株式会社ヌーヴ・エイが営業を始め、2003年5月には委員会等設置会社へ移行し、指名・報酬・監査の各委員会を置く統治形態を採った[75]。常務執行役の泉水隆氏はのちに、パルコが上場企業にありがちな大企業病にかかり、保守的で以前ほどリスクを取らなくなった[76]と述べている。

  • 有価証券報告書
    • [74]2000年3月 株式会社パルコ・シティを設立、2000年9月 西電工とパルコプロモーションを合併しパルコスペースシステムズへ
    • [75]2001年6月 株式会社ヌーヴ・エイが営業開始、2003年5月 委員会等設置会社へ移行
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「黒子の奥義 パルコ 時代に翻弄されるパルコ文化」
    • [76]泉水隆氏は上場企業にありがちな大企業病にかかり保守的で以前ほどリスクを取らなくなったと述べた
  • 週刊東洋経済 2000年7月1日号「[トップの履歴書]パルコ社長 伊東勇」
    • [66]2000年3月 山田昌義氏が相談役へ、伊東勇氏が代表取締役社長に就任
    • [67]伊東勇氏は1944年 川崎市生まれ、1969年 西武百貨店入社、1976年 パルコへ移り吉祥寺店長・札幌店長を歴任
    • [68]就任時のパルコは3期連続の減収、全国19店舗の商圏と顧客ニーズを再検証
    • [69]店作りの決定の遅れで優良テナントを取り逃がす例があり、店長へ大幅に権限を委譲
    • [70]伊東勇氏は2000年を第二創業期と位置づけ、コンサル事業を新たな収益柱に据えた
    • [71]2000年9月 JR九州の長崎駅ビルがコンサル事業第一号として開業
    • [72]2003年までに営業利益の10%をコンサル事業で確保する目標
    • [73]能力・成果主義の人事制度を導入し若手を登用
  • 有価証券報告書
    • [74]2000年3月 株式会社パルコ・シティを設立、2000年9月 西電工とパルコプロモーションを合併しパルコスペースシステムズへ
    • [75]2001年6月 株式会社ヌーヴ・エイが営業開始、2003年5月 委員会等設置会社へ移行
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「黒子の奥義 パルコ 時代に翻弄されるパルコ文化」
    • [76]泉水隆氏は上場企業にありがちな大企業病にかかり保守的で以前ほどリスクを取らなくなったと述べた

セゾン解体で移った株式と、伸びない売上高

2000年代に入ると資本の側で地殻変動が起き、バブル期の過剰な不動産投資が響いてセゾングループは解体へ向かった[77]。2001年、西武百貨店などが保有していたパルコ株式は森トラストへ渡り、出資比率は約20%となった[78]。パルコは同年に社債が満期を迎えて借り換えができず、森トラストが頼まれて増資に応じたのが両社の関係の始まりであった[79]と、森章社長は語っている。森トラストはその後33%強まで買い増し、パルコを持分法適用会社とした[80]

  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「黒子の奥義 パルコ 時代に翻弄されるパルコ文化」
    • [77]バブル期の過剰な不動産投資により2000年代にセゾングループが解体
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「Jフロント傘下入り後は事業拡大を積極化」
    • [78]2001年 セゾングループ解体で西武百貨店などが保有していたパルコ株式が森トラストへ渡り、出資比率は約20%
  • 週刊東洋経済 2011年5月28日号「TOP INTERVIEW 森トラスト社長 森 章」
    • [79]森章氏は2001年にパルコの社債の借り換えができず増資に応じたのが関係の始まりと述べた
    • [80]森トラストはその後33%強まで買い増しパルコを持分法適用会社化

本業は停滞し、連結売上高は2002年2月期の3106億円から2005年2月期に2576億円まで減り、2008年2月期に2868億円へ戻したのち、2010年2月期は2611億円であった[81]。この間、2005年2月にPedi汐留を開き、2005年6月に株式会社ジャパン・リテール・アドバイザーズを設立したうえ、静岡(2007年3月)、浦和(2007年10月)、仙台(2008年8月)と出店を続けた[82]。経常利益は2002年2月期の71億円から2008年2月期の100億円まで伸び、売上の減少と利益の改善が同時に進んだ[83]

  • 有価証券報告書
    • [81]連結売上高 2002年2月期3106億円、2005年2月期2576億円、2008年2月期2868億円、2010年2月期2611億円
    • [82]2005年2月 Pedi汐留を開店、2005年6月 株式会社ジャパン・リテール・アドバイザーズを設立、2007年3月 静岡、2007年10月 浦和、2008年8月 仙台の各パルコを開店
    • [83]経常利益 2002年2月期71億円 → 2008年2月期100億円
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「黒子の奥義 パルコ 時代に翻弄されるパルコ文化」
    • [77]バブル期の過剰な不動産投資により2000年代にセゾングループが解体
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「Jフロント傘下入り後は事業拡大を積極化」
    • [78]2001年 セゾングループ解体で西武百貨店などが保有していたパルコ株式が森トラストへ渡り、出資比率は約20%
  • 週刊東洋経済 2011年5月28日号「TOP INTERVIEW 森トラスト社長 森 章」
    • [79]森章氏は2001年にパルコの社債の借り換えができず増資に応じたのが関係の始まりと述べた
    • [80]森トラストはその後33%強まで買い増しパルコを持分法適用会社化
  • 有価証券報告書
    • [81]連結売上高 2002年2月期3106億円、2005年2月期2576億円、2008年2月期2868億円、2010年2月期2611億円
    • [82]2005年2月 Pedi汐留を開店、2005年6月 株式会社ジャパン・リテール・アドバイザーズを設立、2007年3月 静岡、2007年10月 浦和、2008年8月 仙台の各パルコを開店
    • [83]経常利益 2002年2月期71億円 → 2008年2月期100億円

2010年〜 二年におよぶ資本の攻防と、完全子会社化による上場廃止

パルコの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2010年 森トラストの増資提案の見送りと、日本政策投資銀行への新株予約権付社債150億円の発行 筆頭株主に持ち株比率を委ねるか、独立を保つか——賃料で稼ぐ会社が選んだ資本の相手
  2. 2011年 イオン・森トラスト連合による経営支配要求の拒否と、平野秀一社長の退任 経営陣の刷新を迫る45%の連合に、パルコはなぜ社長ひとりの職で応じたか
  3. 2012年 J.フロント リテイリングが親会社に
  4. 2013年 「心斎橋ゼロゲート」、「道頓堀ゼロゲート」を開店
  5. 2019年 建替えのため2016年8月に休業していた「渋谷パルコ」を、複合施設として開業
  6. 2020年 J.フロント リテイリングの完全子会社となり、東京証券取引所市場第一部を上場廃止

増資提案の拒絶から、イオン参戦までの一年

事の起こりは2010年1月、森トラストがパルコに対し、第三者割当増資で持株比率を49%まで引き上げる案を正式に申し込んだ[84]ことであった。パルコ首脳は当初理解を示したものの、7月になって取締役会で決まらなかったと回答してきた[85]、と同社の吉田武副社長は語っている。翌8月、パルコは日本政策投資銀行と資本業務提携を結び、約150億円の新株予約権付社債を発行した[86]。33%強を持つ筆頭株主にとって、これは事前に知らされない希薄化[87]であった。森章社長は「あのような形で勝手に希薄化させる行為はありえない」[88]と述べている。

  • 週刊東洋経済 2011年3月5日号「パルコ大株主に急浮上 イオンが狙う“漁夫の利”」
    • [84]2010年1月 森トラストが第三者割当増資で持株比率を49%まで引き上げる案を申し込み
    • [85]森トラストの吉田武副社長 パルコ首脳は当初理解を示したが7月に取締役会で決まらなかったと回答
    • [86]2010年8月 パルコが日本政策投資銀行と資本業務提携を結び約150億円の新株予約権付社債を発行
  • 週刊東洋経済 2011年5月28日号「TOP INTERVIEW 森トラスト社長 森 章」
    • [87]森トラストの持株は33%強、事前説明のない希薄化
    • [88]森章氏は事前説明のない希薄化はありえないと述べた

この間隙に入ったのがイオンで、2011年2月22日、同社はパルコ株12.31%を外資系ファンドなどから取得し、33.2%を保有する森トラストに次ぐ第2位株主となった[89]。当初は良好な協力関係の早期構築を掲げていたが、3月24日の森トラストとのトップ会談を境に態度を変え、事業提携に加えて平野秀一社長の退任、最高経営責任者を含む取締役の派遣、将来的な子会社化を求めた[90]。森トラストはこれに同調して経営陣刷新の株主提案を出し、両社の議決権を共同行使することで合意した。合算比率は45%強に達した。 [91]

  • 週刊東洋経済 2011年3月5日号「パルコ大株主に急浮上 イオンが狙う“漁夫の利”」
    • [89]2011年2月22日 イオンがパルコ株12.31%を取得し、33.2%を保有する森トラストに次ぐ第2位株主となった
  • 週刊東洋経済 2011年4月16日号「イオンが経営支配へ着々 追い込まれるパルコ」
    • [90]イオンは3月24日の森トラストとのトップ会談後に態度を変え、平野秀一社長の退任やCEOを含む取締役派遣、将来的な子会社化を提案
    • [91]森トラストが経営陣刷新の株主提案で同調し議決権の共同行使に合意、両社合算の議決権比率は45%強

パルコは徹底抗戦の構えを見せ、平野秀一社長はイオンの都市型業態が成功しているとは聞かないとし、統合すれば経営効率が下がり、地方都市への大量出店はブランド価値を希薄化させると反論した[92]。世界的な金融危機後の環境悪化とJR東日本の駅ビル「ルミネ」などとの競合で業績は停滞し、海外進出も2010年春のシンガポール出店にとどまっていた[93]。結局、平野秀一社長の退任と引き換えに森トラストが株主提案を取り下げる形で、2011年5月の攻防はいったん収まり[94]、後任には牧山浩三氏が就いた[95]

  • 週刊東洋経済 2011年4月16日号「イオンが経営支配へ着々 追い込まれるパルコ」
    • [92]平野秀一氏はイオンの都市型業態との統合は経営効率を下げ、地方都市への大量出店はブランド価値を希薄化させると反論
    • [93]金融危機後の環境悪化とルミネなどとの競合で業績は停滞、海外進出も2010年春のシンガポール出店にとどまった
  • 週刊東洋経済 2011年5月28日号「TOP INTERVIEW 森トラスト社長 森 章」
    • [94]森トラストは平野秀一社長の退任と引き換えに株主提案を取り下げた
  • 有価証券報告書(2019年2月期)
    • [95]2011年5月 牧山浩三氏が代表執行役社長に就任
  • 週刊東洋経済 2011年3月5日号「パルコ大株主に急浮上 イオンが狙う“漁夫の利”」
    • [84]2010年1月 森トラストが第三者割当増資で持株比率を49%まで引き上げる案を申し込み
    • [85]森トラストの吉田武副社長 パルコ首脳は当初理解を示したが7月に取締役会で決まらなかったと回答
    • [86]2010年8月 パルコが日本政策投資銀行と資本業務提携を結び約150億円の新株予約権付社債を発行
    • [89]2011年2月22日 イオンがパルコ株12.31%を取得し、33.2%を保有する森トラストに次ぐ第2位株主となった
  • 週刊東洋経済 2011年5月28日号「TOP INTERVIEW 森トラスト社長 森 章」
    • [87]森トラストの持株は33%強、事前説明のない希薄化
    • [88]森章氏は事前説明のない希薄化はありえないと述べた
    • [94]森トラストは平野秀一社長の退任と引き換えに株主提案を取り下げた
  • 週刊東洋経済 2011年4月16日号「イオンが経営支配へ着々 追い込まれるパルコ」
    • [90]イオンは3月24日の森トラストとのトップ会談後に態度を変え、平野秀一社長の退任やCEOを含む取締役派遣、将来的な子会社化を提案
    • [91]森トラストが経営陣刷新の株主提案で同調し議決権の共同行使に合意、両社合算の議決権比率は45%強
    • [92]平野秀一氏はイオンの都市型業態との統合は経営効率を下げ、地方都市への大量出店はブランド価値を希薄化させると反論
    • [93]金融危機後の環境悪化とルミネなどとの競合で業績は停滞、海外進出も2010年春のシンガポール出店にとどまった
  • 有価証券報告書(2019年2月期)
    • [95]2011年5月 牧山浩三氏が代表執行役社長に就任

イオンの撤退と、J.フロント リテイリング傘下入り

決着は意外な形で訪れ、イオンは2012年1月、森トラストからパルコ株21%を買い取ることで内々に合意し、2月1日の経営委員会で決議する予定であった[96]。ところが前日にパルコへ打診したところ、経営陣だけでなくテナント企業からも反対が噴出し、買い増しを断念した[97]。半年ほど月1回続けた業務提携の協議も具体的な成果に乏しく、先に手を引いたのはイオンの側であった[98]

  • 週刊東洋経済 2012年3月10日号「J.フロントがグループ化 “暴れ馬”パルコの行方」
    • [96]イオンは2012年1月に森トラストからパルコ株21%を買い取ることで内々に合意し、2月1日の経営委員会で決議する予定であった
    • [97]パルコ経営陣とテナント企業の反対でイオンは買い増しを断念
    • [98]半年ほど月1回続けた業務提携の協議は具体的な成果に乏しく、イオンが先に手を引いた

代わって現れたのが、大丸と松坂屋を運営するJ.フロント リテイリング[99]であった。同社は2012年3月下旬に森トラストの持つ33%強を譲り受けて持分法適用会社とし[100]、同年8月には公開買付けによってパルコの親会社となった[101]。J.フロントにとってパルコは、渋谷や池袋など駅前の好立地に19店舗を持ち、若者向け店舗運営の知見を備え、毎期90億円前後の営業利益を安定して稼ぐ[102]相手であった。同社は関西と名古屋を地盤として40代以上の客層に強く、パルコとは地域でも客層でも重なりが少なかった[103]。パルコとJ.フロントは共同販促を行うなど、以前から関係が良好でもあった[104]

  • 週刊東洋経済 2012年3月10日号「J.フロントがグループ化 “暴れ馬”パルコの行方」
    • [99]J.フロント リテイリングは大丸と松坂屋を運営する百貨店大手
    • [100]2012年3月下旬 J.フロントが森トラストから33%強を譲り受け持分法適用会社化
    • [102]パルコは駅近の好立地に19店舗を持ち毎期90億円前後の営業利益を稼いでいた
    • [103]J.フロントは関西と名古屋を地盤に40代以上へ強く、パルコとは地域も客層も重なりが少ない
    • [104]パルコとJ.フロントは共同販促を行うなど以前から関係が良好
  • 有価証券報告書
    • [101]2012年8月 J.フロント リテイリング株式会社が公開買付けによりパルコ株式を取得し親会社となった

森章社長は退任会見でのパルコ側の発言を受け、事実上自分たちの会社を売ったのと同じでありながら独立を守ったと言っている、と批判した[105]。他方で泉水氏は、資本が移り変わって新しいことに挑みにくい面もあったと述べている[106]。森トラストが繰り返し求めたのは合従連衡に備えた資本の増強であり、人口減少とIFRSへの移行で賃料しか売上に計上できなくなる業態の先行きを見た提案でもあった[107]

  • 週刊東洋経済 2011年5月28日号「TOP INTERVIEW 森トラスト社長 森 章」
    • [105]森章氏はパルコが事実上自社を売ったに等しいのに独立を守ったと述べていると批判した
    • [107]森章氏は人口減少とIFRS移行でパルコのような業態は賃料しか売上に計上できなくなるとして増資を持ちかけた
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「黒子の奥義 パルコ 時代に翻弄されるパルコ文化」
    • [106]泉水隆氏は資本が移り変わり新しいことにチャレンジしづらい面もあったと述べた
  • 週刊東洋経済 2012年3月10日号「J.フロントがグループ化 “暴れ馬”パルコの行方」
    • [96]イオンは2012年1月に森トラストからパルコ株21%を買い取ることで内々に合意し、2月1日の経営委員会で決議する予定であった
    • [97]パルコ経営陣とテナント企業の反対でイオンは買い増しを断念
    • [98]半年ほど月1回続けた業務提携の協議は具体的な成果に乏しく、イオンが先に手を引いた
    • [99]J.フロント リテイリングは大丸と松坂屋を運営する百貨店大手
    • [100]2012年3月下旬 J.フロントが森トラストから33%強を譲り受け持分法適用会社化
    • [102]パルコは駅近の好立地に19店舗を持ち毎期90億円前後の営業利益を稼いでいた
    • [103]J.フロントは関西と名古屋を地盤に40代以上へ強く、パルコとは地域も客層も重なりが少ない
    • [104]パルコとJ.フロントは共同販促を行うなど以前から関係が良好
  • 有価証券報告書
    • [101]2012年8月 J.フロント リテイリング株式会社が公開買付けによりパルコ株式を取得し親会社となった
  • 週刊東洋経済 2011年5月28日号「TOP INTERVIEW 森トラスト社長 森 章」
    • [105]森章氏はパルコが事実上自社を売ったに等しいのに独立を守ったと述べていると批判した
    • [107]森章氏は人口減少とIFRS移行でパルコのような業態は賃料しか売上に計上できなくなるとして増資を持ちかけた
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「黒子の奥義 パルコ 時代に翻弄されるパルコ文化」
    • [106]泉水隆氏は資本が移り変わり新しいことにチャレンジしづらい面もあったと述べた

収益モデルの組み替えと、57年で終わった株式市場との関係

資本問題が片づくと、パルコは中小型商業施設「ゼロゲート」の出店と既存店の増床で事業を広げた[108]。2013年4月に心斎橋と道頓堀、10月に広島、2014年10月に名古屋、2016年2月に札幌、2017年11月に京都のゼロゲートを開き、同月には上野広小路のパルコヤも開店した[109]。ただしゼロゲートはパルコが広告や販売促進を原則行わず、賃料も固定する方式で、不動産賃貸だけを手掛けるものであった[110]。1975年度にテナント売上高の3%にあたる約14億円を広告に投じ[111]、その支出で客を動かした収益の作り方とは原理が異なる。連結の経常利益は2013年2月期の103億円から2016年2月期の127億円まで伸びた[112]

  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「Jフロント傘下入り後は事業拡大を積極化」
    • [108]資本問題の決着後、中小型商業施設「ゼロゲート」の積極出店と既存パルコの増床で事業を拡大
    • [110]ゼロゲートはパルコが広告や販売促進を原則行わず賃料も固定する方式で、不動産賃貸のみを担う
  • 有価証券報告書
    • [109]2013年4月 心斎橋・道頓堀、10月 広島、2014年10月 名古屋、2016年2月 札幌、2017年11月 京都のゼロゲートを開業、2017年11月 パルコヤ上野を開店
    • [112]連結経常利益 2013年2月期103億円 → 2016年2月期127億円
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [111]1975年度に専門店集団が使った広告宣伝費は約14億円で、予算はテナント売上高合計の3%

会計基準の変更は、この構造の変化を数字の上でも示し、パルコは2018年2月期から国際会計基準を適用して、テナント売上を総額で売上高に計上する方式から、賃料等を営業収益として純額で計上する方式へ移った[113]。連結売上高2764億円(2016年2月期)[114]に対し、営業収益は938億円(2017年2月期)、916億円(2018年2月期)、900億円(2019年2月期)であった[115]。同じ期間のパルコテナント取扱高は2648億円、2495億円、2466億円であり、店頭の売上そのものは緩やかに減っていた[116]。2016年8月から休業していた渋谷パルコは、建替えを経て2019年11月に複合施設として開業した[117]

  • 有価証券報告書(2019年2月期)
    • [113]パルコは第79期(2018年2月期)から国際会計基準を適用し、テナント売上の総額計上から賃料等の純額計上へ移行
    • [115]営業収益 2017年2月期938億円、2018年2月期916億円、2019年2月期900億円
    • [116]パルコテナント取扱高 2017年2月期2648億円、2018年2月期2495億円、2019年2月期2466億円
  • 有価証券報告書
    • [114]連結売上高 2016年2月期 2764億円
  • 会社公式サイト(沿革)
    • [117]2016年8月に休業した渋谷パルコが建替えを経て2019年11月に開業

開業の4か月後、2020年3月にパルコはJ.フロント リテイリングの完全子会社となり、東京証券取引所市場第一部の上場を廃止した[118]。1987年の東証二部上場から33年、1963年の登録銘柄登録から数えれば57年[119]で、株式市場との関係が終わった。同年9月には株式会社大丸松坂屋百貨店の不動産事業を承継し、2023年3月にはデベロッパー事業の一部をJ.フロント都市開発株式会社へ移した[120]。渋谷パルコの2024年度のテナント取扱高は前期比22%増の439億円と過去最高になり、うち訪日客による取扱高が全体の41%を占めた[121]。訪日客消費を牽引したのはポケモン、任天堂、カプコンなどの公式ストアが集まる6階で、旅行中の客に向けた販促とグーグルマップの口コミ対策に力を入れている[122]

  • 会社公式サイト(沿革)
    • [118]2020年3月 J.フロント リテイリングの完全子会社となり東京証券取引所市場第一部の上場を廃止
    • [120]2020年9月 株式会社大丸松坂屋百貨店の不動産事業を承継、2023年3月 デベロッパー事業の一部をJ.フロント都市開発株式会社へ承継
  • 有価証券報告書
    • [119]1987年1月 東証二部上場、1963年7月 登録銘柄登録
  • 週刊東洋経済 2025年8月30日号「「渋谷パルコ」訪日客が売り上げ4割超の衝撃」
    • [121]渋谷パルコの2024年度(2025年2月期)テナント取扱高は過去最高の439億円で前期比22%増、うちインバウンドが全体の41%
    • [122]訪日客消費を牽引する6階にポケモン、任天堂、カプコンなどの公式ストアが集積し、旅ナカのプロモーションとグーグルマップの口コミ施策に注力
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「Jフロント傘下入り後は事業拡大を積極化」
    • [108]資本問題の決着後、中小型商業施設「ゼロゲート」の積極出店と既存パルコの増床で事業を拡大
    • [110]ゼロゲートはパルコが広告や販売促進を原則行わず賃料も固定する方式で、不動産賃貸のみを担う
  • 有価証券報告書
    • [109]2013年4月 心斎橋・道頓堀、10月 広島、2014年10月 名古屋、2016年2月 札幌、2017年11月 京都のゼロゲートを開業、2017年11月 パルコヤ上野を開店
    • [112]連結経常利益 2013年2月期103億円 → 2016年2月期127億円
    • [114]連結売上高 2016年2月期 2764億円
    • [119]1987年1月 東証二部上場、1963年7月 登録銘柄登録
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
    • [111]1975年度に専門店集団が使った広告宣伝費は約14億円で、予算はテナント売上高合計の3%
  • 有価証券報告書(2019年2月期)
    • [113]パルコは第79期(2018年2月期)から国際会計基準を適用し、テナント売上の総額計上から賃料等の純額計上へ移行
    • [115]営業収益 2017年2月期938億円、2018年2月期916億円、2019年2月期900億円
    • [116]パルコテナント取扱高 2017年2月期2648億円、2018年2月期2495億円、2019年2月期2466億円
  • 会社公式サイト(沿革)
    • [117]2016年8月に休業した渋谷パルコが建替えを経て2019年11月に開業
    • [118]2020年3月 J.フロント リテイリングの完全子会社となり東京証券取引所市場第一部の上場を廃止
    • [120]2020年9月 株式会社大丸松坂屋百貨店の不動産事業を承継、2023年3月 デベロッパー事業の一部をJ.フロント都市開発株式会社へ承継
  • 週刊東洋経済 2025年8月30日号「「渋谷パルコ」訪日客が売り上げ4割超の衝撃」
    • [121]渋谷パルコの2024年度(2025年2月期)テナント取扱高は過去最高の439億円で前期比22%増、うちインバウンドが全体の41%
    • [122]訪日客消費を牽引する6階にポケモン、任天堂、カプコンなどの公式ストアが集積し、旅ナカのプロモーションとグーグルマップの口コミ施策に注力

パルコの沿革1953〜2023年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
池袋ステーションビルを設立
丸物の資本参加を得て、事業目的をステーションビル運営から百貨店業に変更★★
池袋ステーションビルを東京丸物に商号変更
店名「東京丸物」で百貨店業を開始
東京丸物が社団法人日本証券業協会大阪地区協会の「登録銘柄」に登録
「東京丸物」を閉店★★
「パルコ」の開設準備に着手★★
百貨店業からの撤退と、専門店に場所を貸すファッションビル運営への転換累積赤字18億円の百貨店を、増田通二氏はなぜ「不動産屋」と定義し直したか 詳細を読む★★★
パルコに商号変更
東京パルコが「渋谷パルコ」を開店★★
「パルコ劇場」の運営を開始
東京パルコを吸収合併
「札幌パルコ」を開店
「吉祥寺パルコ」を開店
東京証券取引所市場第二部に株式上場
パルコプロモーション設立
ハウスカード「PECカード」の発行開始
「名古屋パルコ」を開店
PARCO (SINGAPORE) PTE LTD設立
「ひばりが丘パルコ」を開店
「広島パルコ」を開店
「宇都宮パルコ」を開店
パルコ・シティを設立
ヌーヴ・エイ営業開始
伊東勇「委員会等設置会社」に移行
伊東勇「Pedi(ペディ)汐留」を開店。(東京汐留ビルディング内)
伊東勇「静岡パルコ」を開店
平野秀一森トラストの増資提案の見送りと、日本政策投資銀行への新株予約権付社債150億円の発行筆頭株主に持ち株比率を委ねるか、独立を保つか——賃料で稼ぐ会社が選んだ資本の相手 詳細を読む★★★
牧山浩三イオン・森トラスト連合による経営支配要求の拒否と、平野秀一社長の退任経営陣の刷新を迫る45%の連合に、パルコはなぜ社長ひとりの職で応じたか 詳細を読む★★★
牧山浩三J.フロント リテイリングが親会社に★★
牧山浩三「心斎橋ゼロゲート」、「道頓堀ゼロゲート」を開店
牧山浩三建替えのため2016年8月に休業していた「渋谷パルコ」を、複合施設として開業
牧山浩三J.フロント リテイリングの完全子会社となり、東京証券取引所市場第一部を上場廃止★★
牧山浩三デベロッパー事業(一部を除く)をJ.フロント都市開発に承継★★
出典・参考
  • 証券 1987年39巻3号「新規上場会社紹介 株式会社パルコ」
  • 有価証券報告書
  • 会社銀行八十年史(1955年)
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「INTERVIEW 上野千鶴子 堤さんはパルコに嫉妬していた」
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「黒子の奥義 パルコ 時代に翻弄されるパルコ文化」
  • 週刊東洋経済 2000年7月1日号「[トップの履歴書]パルコ社長 伊東勇」
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「Jフロント傘下入り後は事業拡大を積極化」
  • 週刊東洋経済 2011年5月28日号「TOP INTERVIEW 森トラスト社長 森 章」
  • 週刊東洋経済 2011年3月5日号「パルコ大株主に急浮上 イオンが狙う“漁夫の利”」
  • 週刊東洋経済 2011年4月16日号「イオンが経営支配へ着々 追い込まれるパルコ」
  • 有価証券報告書(2019年2月期)
  • 週刊東洋経済 2012年3月10日号「J.フロントがグループ化 “暴れ馬”パルコの行方」
  • 会社公式サイト(沿革)
  • 週刊東洋経済 2025年8月30日号「「渋谷パルコ」訪日客が売り上げ4割超の衝撃」

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