日東電工乾電池・磁気テープ部門のマクセルとしての分離独立と、日立製作所への売却

消費者に届く商品か、顧客の名しか世に出ない材料か——両部門併存に区切りをつけた分離

時期 1961年2月
意思決定者(推定) 日東電気工業 取締役会
論点 事業ポートフォリオと販路の選択
概要
1961年2月、日東電気工業は乾電池・磁気テープなどの消費者向け部門をマクセル電気工業として分離独立させ、かつて自社を傘下に置いた日立製作所へ売却した判断。絶縁材料と粘着テープの専門メーカーへ戻る選択で、翌1962年の豊橋工場の建設と株式上場が続いた。
背景
1950年8月にマクセル乾電池の製造を始め、録音機・録音テープへ広げた結果、絶縁材料とマクセル製品という二つの部門を抱える会社になっていた。1959年に絶縁塗料の吹田工場、1960年にマクセル部門の千里丘工場を相次いで建て、性格の異なる二事業がそれぞれ設備を求めていた。
内容
マクセル部門を分離独立させ、絶縁材料とテープの専門メーカーとしての新しいスタートを切った。分離した会社はマクセル電気工業として発足して日立製作所へ売却され、1964年に日立マクセルへ商号を改める。日東電気工業側はごく一部の資本を残した。
含意
1967年度の販売高はテープ類が68%を占め、業界に占める比率も約50%へ達した。電機業界向けの売上比率は1972年に35%、1973年に28%まで下がり、包装・ステンレス・自動車・住宅・医療といった一般産業資材が7割強を占める会社になった。
筆者の見解

育てた事業を旧親会社へ渡すということ

1950年に始めた乾電池と録音テープは、手放した時点ではまだ伸びる商品であった。分離の理由を当事者が語った記録は残らないが、絶縁塗料の吹田工場とマクセル部門の千里丘工場を1年あまりの間に建て続けた事実と、1967年度にテープ類が販売高の68%を占めた事実を並べると、限られた資金と人をどちらへ置くかという選択だったとみられる。消費者向けの販路を一から築く負担を、産業向け材料の深掘りと引き換えに降ろした判断といえる。

ただ、消費財への関心が絶えたわけではない。分離から11年後の1972年にも、テープを基材にした装飾品や家庭雑貨の開発が語られ、翌年には銀座の商談の場と月商10億円という目標まで挙がっていた。それでも本体の売上構成は戻らず、電機業界向け28%・一般産業資材7割強という姿が残る。手放した部門は日立マクセルとして家庭に名の通るブランドへ育ち、残った側は顧客の社名しか世に出ない材料で数を積む側に回った。同じ粘着技術から二つの道が分かれた分岐点として読むことができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

絶縁材料とマクセル製品という二つの部門

1950年8月、日東電気工業はマクセル乾電池の製造を始め、続いて録音機と録音テープへ製品を広げた。従来の絶縁布管紙・絶縁塗料に絶縁テープ類を加えて絶縁材料の総合メーカーとしての体制を整えた時期にあたり、以後この会社は絶縁材料とマクセル製品という二つの部門を併せ持つ。1951年4月には国内初のビニルテープの開発に成功し、1957年6月にはブラックテープの製造を始めてテープ事業へ本格的に進んだ[1][2]

二つの部門は、それぞれに工場を求めた。1957年7月に新興化学工業へ資本参加して絶縁布管紙を製造させ、同年9月には日東成型工業所を設立して電気機器の注成形加工へ入る。1959年6月には吹田工場を建設して絶縁塗料部門を移し、1960年8月には千里丘工場を建設してマクセル部門を移した。乾電池と録音テープは消費者の手に届く商品で、販路も広告も産業向け材料とは別に築く必要があった[3]

決断

1961年2月の分離独立と、旧親会社への売却

1961年2月、日東電気工業はマクセル部門を分離独立させ、絶縁材料とテープの専門メーカーとして新しいスタートを切った。分離した部門はマクセル電気工業として発足し、日立製作所へ売却された。日立は1937年5月に日東電気工業の株式100%を取得して再建にあたり、1948年7月に資本提携が解消されるまで親会社であった相手にあたる。自社で育てた消費者向け事業を、かつて自社を傘下に置いた会社へ渡す売却であった[4][5]

売却の後も細い糸は残った。土方三郎副社長は1973年10月の講演で日立マクセルについて、乾電池・録音テープ・小型録音機などの部門が分離して日立の資本が入った会社であり、ごく一部の資本を日東電気工業がなお持っていると説明している。分離会社は1964年に日立マクセルへ商号を改め、日立製作所の子会社として家庭に名の通る記録メディアの会社に育った[6][7]

結果

テープと絶縁材料に絞った10年

本体はテープと絶縁材料へ絞った。1962年5月に主力となる豊橋工場を建設してテープ部門を拡充し、同年8月には東京・大阪両証券取引所へ株式を上場する。1967年度の販売高ではテープ類が68%を占め、業界に占める比率も約50%へ達した。1971年6月の講演で示された製品別の売上構成はテープ73%、注・成形品17%、絶縁材料10%であり、分離から10年後の会社はテープの会社になっていた[8][9]

販売先の構成も変わった。かつて主力製品の全量を電機業界へ売っていた会社が、1972年9月の講演では電機業界向けを35%と述べ、1973年10月には28%へ下がって7割強が包装・ステンレス・自動車・住宅・医療などの一般産業資材向けになったと説明している。売上高は1967年3月期の71億円から1973年3月期には262億円へ伸びた。消費者に名の届く商品を持たない代わりに、納入先の裾野は広がった[10][11][12]

消費財への関心はどう残ったか

分離は消費者市場との縁切りには至らなかった。1972年9月の講演で土方三郎副社長は、ベンチャー企業と提携して装飾品・玩具・家庭雑貨用品といったテープを基材にする消費財の開発を進めていると述べている。テープと絶縁材料の専門メーカーに戻ったとはいえ、粘着技術を消費者向けの商品へ載せる案は社内で消えていなかった[13]

1973年10月の講演では、その中身がより具体的に語られた。東京の小規模なベンチャー企業へ出資して共同で消費財を開発し、銀座に商品陳列と商談の場を置く。両面粘着シートを使った害虫捕獲用の商品は月1億円規模になるとみられ、ゴルフクラブは東レと共同で開発していた。土方はこれらの商品グループで月商10億円を目標にすると述べており、消費財は本体の外側で試される領域として残された[14]

出典・参考
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社編、1968年)所収「日東電気工業」の項
  • 証券アナリストジャーナル 1971年 第9巻第7号「日東電気工業の現状と将来」(土方三郎 代表取締役専務 講演要旨)
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第11号「日東電気工業 新製品開発が高成長を支える」(土方三郎 副社長 講演要旨)
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第11号「日東電気工業 材料技術のブレーン」(土方三郎 副社長 講演要旨)
  • 日東電工 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
  • 日東電気工業 会社年鑑(1971年版・1976年版)

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