九州電力石油危機後の脱石油と、玄海1号機を先頭に置いた電源多角化
燃料費の変動をどこまで自社の設備で吸収するか——原子力・LNG・地熱・揚水を並べた1970年代の電源選択
- 概要
- 第1次石油危機で燃料費が急騰したことを受け、九州電力が1970年代を通じて原子力・LNG・地熱・揚水水力を並行して導入し、石油火力への依存を引き下げた電源構成の転換。1975年10月の玄海原子力発電所1号機の運転開始がその先頭に立った。
- 背景
- 1973年10月の第4次中東戦争に端を発する第1次石油危機で原油価格が急騰し、1974年には13年ぶりの料金改定で九州電力は48.07%の値上げに踏み切った。石油火力に偏った電源構成は、燃料価格の変動をそのまま原価に持ち込んだ。
- 内容
- 1971年3月着工の玄海1号機(55.9万kW)が1975年10月に営業運転を開始し、1973年にLNGの導入を決定して1977年に新小倉1・2号機をLNG専焼へ改造。1975年に大平揚水発電所、1977年に八丁原発電所1号機(地熱)が加わった。並行して1976年7月に緊急経営対策本部、1977年4月に経営効率推進本部を設置した。
- 含意
- 原子力の比率は1980年度の15%から1990年度に33%へ上がり、石油火力は38%から17%へ下がった。1986年から1989年にかけては4度の料金値下げを実施している。電源構成が収益を左右する構造は、その後の再稼働問題まで残った。
1971年3月に着工した1基が、44年後に終わるまで
1970年代の電源多角化を「原子力への転換」とだけ読むと、実際の手当ての幅を取り落とす。九州電力が同じ10年に決めたのは、原子力の2基だけでなく、LNGの導入、当時世界最高揚程の揚水、2か所目の地熱、そして50万ボルトの基幹系統であった。燃料の種類を分け、出力の性格を分け、それらを運ぶ系統を厚くする。石油の値段に賭けない構成をつくるという意味では、どれも同じ判断の別の面にあたる。
ただし、分散して備えた構成は、そのうちの1本が太くなれば別種の集中を生む。原子力が33%に達した1990年度の構成は、その1本が止まったときの振れ幅も同時に抱えていた。1971年3月に着工した玄海1号機は、40年の運転を経て2015年4月に運転を終了し、いま廃炉作業の工程に入っている。危機のさなかに続けると決めた1基は、九州電力の収支を44年間支え、そして九州電力の手で解体されている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
原油価格の急騰が料金に届くまで
1973年10月の第4次中東戦争に端を発する第1次石油危機は、日本経済に「狂乱物価」と呼ばれた物価上昇と不況をもたらした。石油火力に多くを頼っていた九州電力にとって、原油価格の上昇は燃料費を通じてそのまま原価に届いた。1974年、九州電力は1961年以降13年ぶりに電気料金を改定した。改定率は9電力の合計で56.82%、九州電力は48.07%であった。電灯には3段階の料金制度を導入し、第1段階には福祉政策上の配慮から割安な料金を設けている[1][2]。
石油への依存度は、その後の数字にも残っている。1980年度の時点で石油火力は発電電力量の38%を占めていた。原油価格が動けば料金原価が動き、料金改定には規制当局の認可が要る。値上げが認可されるまでの間、燃料費の増加は自社の損益で受け止めるほかない。安定供給と料金の安定という、電気事業が同時に負う二つの責務は、この構成のままでは両立が難しくなっていた[3]。
需要の伸びは鈍り、投資額だけが膨らんだ
石油危機は需要の側も変えた。ニクソンショック後もかなりの伸びを示していた電力需要は、1974年以降、節電意識の浸透もあって伸びが鈍り、1980年度までの7年間の年平均伸び率は5.3%にとどまった。産業別では石炭が1970年度比で3割減となり、鉄鋼は高炉建設で1976年度ごろまで伸びたあと停滞した。一方で業務用は都市化とビルの高層化を受け、この10年間の年平均伸び率が14%に達している[4]。
需要の伸びが鈍っても、電源の建設量は増え、設備投資額の巨額化は避けられなかった。九州電力は資金源の多様化を図り、インパクトローンの導入やスイスフラン建外債の発行を実施している。1979年4月には、増資コストの低減と財務体質の改善を目的に、株主割当とあわせて同社初の時価発行公募増資に踏み切った。電源の中身を入れ替える判断は、その資金をどこから引くかという判断と一体であった[5]。
決断
玄海1号機——8年をかけた最初の1基
原子力への着手は石油危機より早い。玄海原子力発電所の現地調査は1967年7月に始まり、1号機の原子炉設置許可は1970年12月に下り、着工は1971年3月であった。営業運転の開始は1975年10月で、出力は55.9万kW、加圧水型軽水炉として九州で最初の原子力発電所となった。石油危機が起きたのは、その建設のちょうど中ほどにあたる。危機が到来したときに九州電力の手元にあったのは、着工済みの1基と、その先を続けるかどうかの判断であった[6][7]。
九州電力は続けることを選んだ。2号機の着工は1976年6月、営業運転の開始は1981年3月で、出力は1号機と同じ55.9万kWであった。この2基について、九州電力自身は「脱石油の推進と経営収支の安定に大きく貢献した」と記している。1974年5月に社長へ就いた永倉三郎氏は、管財課長の時代に電源立地の地元住民との交渉を担い、「永倉がいったんこれで最後と言ったら、トコトン変えない」と交渉相手に評された人物であった。用地交渉を実務で知る社長のもとで、立地の長期戦が続いた[8][9]。
原子力だけに寄せなかった電源多角化
石油代替の手当ては原子力に限らなかった。九州電力は1973年にLNGの導入を決定し、1977年に新小倉発電所1・2号機をLNG専焼へ改造したうえ、3・4号機(各60万kW)を1978年から1979年にかけて運転開始させた。水力では1975年に、当時世界最高揚程の大型揚水であった大平発電所1・2号機(各25万kW)が動き出した。1977年には九州電力にとって2か所目の地熱発電所となる八丁原発電所1号機が運転を開始している。燃料の種類を分けることが、価格変動に対する備えとなった[10]。
電源を増やせば、それを運ぶ設備も要る。九州電力で初の50万ボルト送電線となる佐賀幹線は1973年に完成し、当初は22万ボルトで運用された。1980年、広域電源である松島火力発電所の運転開始に合わせて50万ボルトの中央・西九州変電所を新設し、佐賀幹線を昇圧している。同時に関門連系線と北九州変電所の運用が始まり、九州から中国・関西までが50万ボルトで結ばれた。発電所の建設に先立って、1973年12月には豊前発電所の建設計画で初の環境影響評価を実施している[11][12]。
結果
設備を替えながら、人と組織を削った
電源の入れ替えと並行して、社内の効率化が進められた。九州電力は1972年4月の社達「経営能率刷新のより一層の推進について」にもとづき、要員の2割程度の合理化を目標に組織機構の改正と業務処理の見直しに着手した。1973年7月には支店の中間管理機能を見直し、執行業務を現業機関へ移している。石油危機以降、工事資金の巨額化で経営が厳しさを増したため、1976年7月に緊急経営対策本部、1977年4月に経営効率推進本部を設置し、設備投資と組織制度の効率化にあたった[13]。
人員の数字がその結果を示している。従業員数は創立時の1万9,121人から1980年度末には1万4,238人となり、約30年で4,883人が減った。業務の機械化は1955年の統計会計機の導入に始まり、1965年の電子計算機導入でバッチ処理へ広がった。1970年代半ばには、電気使用の申し込みから検針・集金までを対象とする営業オンラインシステムの開発に着手している。設備で燃料費を抑え、事務で人手を抑えるという二正面の圧縮が同時に走った[14][15]。
15%から33%へ、そして4度の値下げ
1980年代に入ると、電源構成の入れ替えが数字に表れた。原子力の割合は1980年度の15%から1990年度には33%へ上がり、石油火力は38%から17%へ下がった。この間、川内原子力発電所1号機(89万kW)が1984年、2号機(89万kW)が1985年に運転を開始し、天山発電所1・2号機(各30万kW)、新大分発電所1号系列(69万kW)、八丁原発電所2号機(5万5,000kW)が加わった。50万ボルト送電線は1980年度の73kmから1990年度末に441kmへ延びている[16]。
燃料費の低下は料金にも及んだ。九州電力は1986年6月に6.5%の暫定値下げ、1987年1月に10%の値下げ、1988年1月に15.15%の本格的な料金改定、1989年4月に消費税導入に合わせた3.02%の値下げを実施している。1974年に48.07%の値上げを受け入れた需要家は、10年あまりを経て逆向きの改定を受け取った。石油危機の直後に着工と建設を続けた判断は、この時期の料金水準として回収された[17]。
- 九州電力「1970年代のあゆみ」
- 九州電力「1980年代のあゆみ」
- 九州電力「玄海原子力発電所のあゆみ」
- 九州電力公式 原子力発電所の概要
- 日経ビジネス 1974年10月28日号「ねばりと待ちの姿勢が身上」(新社長登場・永倉三郎氏 九州電力)
- 九州電力 会社年鑑(1976年版)