北海道電力苫東の600万kW級石油火力構想の取り下げと、石炭火力への電源計画の組み替え

割安な石油か、足元の石炭か——独立系統の供給責任をどの燃料に託すか

時期 1974年
意思決定者(推定) 北海道電力 取締役会
論点 石油危機下の電源構成と燃料選択
概要
1973年10月の第一次石油危機を受け、北海道電力が苫小牧東部(苫東)に構想していた600万kW級の石油火力を取り下げ、同じ地点の電源を石炭火力へ組み替えた経営判断。1980年10月に運転を始めた苫東厚真発電所1号機から、石炭を主力とする電源構成が固まった。
背景
発足以来の電源は水力と国内炭火力が中心で、1970年代には計画の中心が当時より安価な石油火力へ移っていた。本州と結ぶ送電線が細く、60万kWの北本連系設備が動く1979年まで域内で需給を完結させる制約も重なっていた。
内容
苫東に据えるはずだった600万kW級の石油火力を取りやめ、同じ地点に石炭火力を建てる計画へ改めた。燃料はまず道内で産する国内炭を前提とし、安価な海外炭への切り替えは1985年の2号機開発と1号機の燃料転換まで持ち越された。
含意
産炭地の電力会社として国と道の要請を受け入れた結果、割高な国内炭が1970年代末の収益を圧迫した。一方で苫東厚真は海外炭への転換後に主力となり、2018年の全道停電では3基で道内需要の約半分を担う集中の裏面も現れた。
筆者の見解

選べる燃料が一つしかない会社

この組み替えを、石油危機に対する電源多様化の一例として読むと、肝心の部分が抜け落ちる。北海道電力にとって石炭は、価格を比べて選び直した燃料であると同時に、国と道から使うよう求められた燃料でもあった。四ツ柳高茂社長が「燃料はウチだけの判断で、経済合理性で割り切って調達するわけにはいかない」と語ったとおり、産炭地の需要家という役回りを引き受けたうえでの選択であったとみることができる。

もっとも、その役回りの代価は小さくなかった。海外炭へ移る前の1979年、石炭火力40%という燃料構造のもとで業績は9社の最下位に沈み、経常利益は翌期に5億円まで落ちている。それでも苫東厚真は海外炭への転換後に主力となり、2002年の4号機まで投資を呼び込んだ。制約のなかで選んだ燃料が、四半世紀かけて競争力へ変わった一方、一地点への集中が2018年に全道停電として跳ね返ったともいえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

水力と国内炭で始まり、石油へ寄せた電源構成

北海道電力の電源は、発足からしばらく水力と国内炭火力が中心であった。空知の砂川や奈井江など産炭地の近くに火力を置き、道内の炭鉱が掘る石炭をそのまま燃やして戦後の需要増を吸収した。1970年代に入ると計画の中心は当時より安価であった石油火力へ移り、1973年11月には出力25万kWの苫小牧発電所1号機が重原油と天然ガスを燃料に運転を始めた。北海道電力にとって初の石油火力にあたる[1][2]

燃料の選び方が他の8社より重く響く条件もあった。本州と結ぶ送電線が細く、60万kWの北本連系設備が動く1979年まで、北海道は事実上の独立系統として域内で需給を完結させるほかなかった。大型の発電所が一基止まっても他社から融通を受けにくいため、安定して動かせる電源を自前で厚く持つ必要があり、その分だけ燃料価格の変動が経営に直接跳ね返った[3]

苫東に据えるはずだった600万kW級の石油火力

北海道電力は当時、苫小牧東部の苫東地域に600万kW級の石油火力を据える構想を持っていた。1973年11月に動き出した苫小牧発電所1号機の25万kWは、その入り口にあたる規模にすぎない。重油を燃やす大型火力を一つの地点に並べ、道内需要の伸びをまとめて引き受ける絵が描かれており、石油が最も安い燃料であるという前提がこの構想を支えていた[4]

1973年10月、第四次中東戦争を機に第一次石油危機が起きた。原油価格の高騰を受けて国内の電気事業は脱石油へ向かい、石油火力を積み増す前提そのものが崩れた。北海道電力は着工に至っていない600万kW級の構想を抱えたまま、この転換に直面した。石油をさらに積めば、燃料価格の変動を料金と収益で丸ごと負う。しかも1979年には第二次石油危機が続き、脱石油の流れは一度きりの衝撃では終わらなかった[5]

決断

石油から石炭へ戻す計画変更

北海道電力は苫東に据えるはずだった石油火力の構想を取り下げ、同じ苫小牧東部の地点に石炭火力を建てる計画へ改めた。この計画が苫東厚真発電所で、1980年10月に運転を始めた1号機の出力は35万kW、燃料は石炭であった。当初構想した600万kW級とは桁の違う規模から始まり、以後の増設も石炭を燃料とする前提で同じ地点に重ねられた。1970年代の石油火力は苫小牧と伊達にとどまり、その後の大型電源は石炭が担った[6][7]

組み替えた先の燃料には、まず道内で掘れる国内炭が据えられた。苫東厚真1号機は国内炭を燃やす火力として開発され、資源が限られ割高な国内炭から安価な海外炭へ移す作業は、1985年の2号機開発と1号機の燃料転換まで持ち越された。建設中の1号機について北海道電力は、国内炭が前提であり、輸入炭を使うのは国内炭の供給が追い付かなくなってからだと説明していた。海外炭は、国内炭が尽きるまで待つ順序に置かれていた[8][9]

国と道の要請という制約

燃料の選択は、経済合理性だけで決められる問題ではなかった。四ツ柳高茂社長は1979年に、石炭火力を維持してきた理由を「産炭地なので優先的に石炭を使って欲しいという要請が国や道からあって、石炭火力を維持してきた」と説明し、そのために「石油火力に手をつけるのも他より遅れた」と述べている。石油危機の前から、燃料の自由度は狭かった[10]

石炭を使う側の負担も小さくなかった。北海道電力は年間372万トンの石炭を燃やし、国の石炭2000万トン体制を支える需要家に組み込まれていた。本来なら1.5カ月分の50万トンで足りる貯炭も、山元や道の求めで150万トンまで積み増していた。四ツ柳社長は「燃料はウチだけの判断で、経済合理性で割り切って調達するわけにはいかない」と語っている[11][12]

結果

石炭火力の主力化と、割高な国内炭の代償

1980年10月、苫東厚真発電所1号機が石炭を燃料に運転を開始した。1985年10月には出力60万kWの2号機が続き、こちらは安価な海外炭を前提に開発され、あわせて1号機の燃料も海外炭へ移された。合計95万kWの石炭火力が苫東厚真の一地点に並んだ。石油火力を並べる構想を捨てた判断は、この二基の稼働でようやくかたちを得た[13][14]

海外炭へ移るまでの十年ほど、割高な国内炭は経営を削った。1979年の時点で石炭火力の比率は40%と9社で最も高く、石炭40%・石油30%・水力30%という燃料構造のもとで業績は業界の最下位に沈んでいた。四ツ柳社長は「仮に石炭を石油にしていれば、燃料費は80億円ほど安く済んでいた計算になる」と述べている。円高で石油が値下がりした分の恩恵が届かなかった[15][16]

数字にも跡が残る。1979年3月期の経常利益は117億円で前の期から60億円あまり減り、第二次石油危機を挟んだ1980年3月期には5億円まで落ち込んだ。売上高は2,221億円から2,487億円へ伸びており、収益の落ち込みは需要ではなく燃料と設備の費用から来ていた。石炭へ組み替えた電源が本格的に動き出す前に、燃料構造の重さが先に表面化した[17][18]

一地点に集めた石炭火力の長い帰結

苫東厚真にはその後も石炭火力が積み増された。1998年に着工した4号機は超超臨界圧を採り、70万kWへ規模を上げて2002年6月に運転を開始した。同じ地点が選ばれたのは、石炭を受け入れる港湾設備と増設用地がすでにあり、低コストかつ短期間で建てられたからである。石油火力の構想を石炭へ振り替えた判断が、四半世紀後の投資先までかたちづくった[19]

集中の代償は2018年に表れた。9月6日未明の北海道胆振東部地震で、震源に近い苫東厚真の1・2・4号機(出力計165万kW)が停止し、北海道全域が停電した。この3基で道内需要のおよそ半分を賄っていたとみられている。停電は約295万戸に及び、被災地以外がほぼ復旧するまで2日を要した。安い燃料を一つの地点で大量に燃やす形は、平時の低コストと非常時の脆さを同じ設計のなかに抱えていた[20]

出典・参考

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