北海道電力道内初の原子力発電所の立地決定と、内陸型から海側・泊村への計画変更
漁業者の同意を待つか、立地点そのものを動かすか——着工までに要した15年
- 概要
- 1969年9月に共和村と泊村の境界付近を道内初の原子力発電所の立地点に定めた北海道電力が、漁業者の同意を得られないまま1978年に計画を変更し、内陸型の立地点を海側の泊村へ移した経営判断。1984年6月の原子炉設置許可と同年8月の着工まで、立地点決定から15年を要した。
- 背景
- 本州と結ぶ送電線が細く域内で需給を完結させる北海道電力は、石炭の比率が他社より際立って高く、天然ガスを受け入れる設備も持たなかった。二度の石油危機を経て、石炭に次ぐベースロード電源として原子力が計画に加わった。
- 内容
- 当初は岩内港に専用岸壁を設け、専用道路で核燃料と廃棄物を運ぶ内陸型の計画で、共和・泊原子力発電所と呼ばれていた。安全上の懸念と用地取得の問題から立地点を海側の泊村へ改め、名称も泊原子力発電所となった。
- 含意
- 立地点を動かした後、反対を続けていた漁協が条件付き賛成に転じ、1981年9月の漁業補償協定で国が求める要件が揃った。ただし道内の世論は別に動き、1988年には約80万人分の署名が知事へ提出されている。
譲れる条件と、譲れない条件
泊の立地を、地元を粘り強く説得した成果として読むと、実際に効いた手が見えなくなる。1969年9月の立地点決定から9年、北海道電力を動かせなかったのは説得の量ではなく、岩内港から専用道路で核燃料と廃棄物を運ぶという計画そのものであった。1978年に立地点を海側の泊村へ移し、この運搬路を消したことで、反対を続けていた漁協が条件付き賛成に転じている。譲る対象を交渉の技術ではなく計画の中身に定めた点が、この判断の芯であるとみることができる。
もっとも、要件が揃うことと理解が広がることは別であった。1981年9月の漁業補償協定で国の求める三点が整った後も、チェルノブイリ事故を経た道内では80万人分の署名が知事へ提出され、その反対を残したまま1989年6月に1号機が動き出している。地元の合意は立地点を動かせば得られたが、道全体の世論は同じ手では動かなかった。原子力の立地が二つの合意を必要としていたことを、この15年は示しているといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
石炭に偏った独立系統
北海道電力は本州と結ぶ送電線をほとんど持たず、60万kWの北本連系設備が動く1979年まで、域内で需給を完結させるほかなかった。電源の内訳も他社と大きく違い、石炭の比率が際立って高い一方、天然ガスを受け入れる設備は道内に存在しない。供給区域は国土の22%を占めながら人口は全国の5%で、1平方キロ当たりの需要は17万kWhと業界平均117万kWhの7分の1にとどまる。薄く広い区域を、燃料の選択肢が狭いまま一社で支えていた[1][2][3]。
1970年代の電源計画は石油危機で書き換えられ、いったんは石炭火力へ戻った。その石炭も、道内炭は割高であった。1979年に示された試算では、1985年度に運用を始めるプラントの発電原価は、国内炭の石炭火力が1kWh当たり18.9円、輸入炭が14.5円、石油火力が13.0円であるのに対し、原子力は10.9円と最も低く見込まれていた。石炭に次ぐ柱を求める理由は、供給の安定と原価の両方にあった[4]。
道内初の立地点として選ばれた内陸
1969年9月、北海道電力は岩内町の隣村である共和村(現共和町)の、泊村との境界付近を道内初の原子力発電所の立地点に定めた。積丹半島の西側に開けた岩宇地域で、共和町と岩内町が岩内郡、泊村と神恵内村が古宇郡にあたる。当時の計画は日本では珍しい内陸型で、二つの村名を並べた共和・泊原子力発電所の名で呼ばれていた。道内の電源が水力と国内炭火力で組まれていた時期にあたり、原子力は北海道電力にとって前例のない技術であった[5][6][7]。
北海道電力は地元の首長や議会、漁業関係者の同意を得る努力を重ねたが、漁業関係者の理解を得る作業が難航した。内陸に発電所を置く計画では、岩内港に専用の岸壁を設け、そこから専用道路を引いて核燃料や廃棄物を運ぶ必要がある。港と道路を使う側にとっては、日々の漁と生活の場に運搬路が重なる話であった。用地の取得にも問題が指摘されていた[8]。
決断
立地点を内陸から海側へ移す
1978年、北海道電力は原子力発電所計画の変更を発表した。日本では珍しい内陸型であった従来の計画を改め、立地点を海側の泊村へ移す内容である。理由として挙げられたのは、岩内港に専用岸壁を設けて核燃料や廃棄物を専用道路で運ぶ方式に安全上の懸念があること、専用道路の建設にあたって用地取得の問題があることであった。立地点を定めてから9年、着工にも至らないまま計画の骨格を作り直す発表であった[9]。
立地点が海側へ動いたことで、それまで共和・泊原子力発電所と呼ばれていた計画は泊原子力発電所となった。名称の変更は形式にとどまらない。専用道路で燃料を陸送する前提が消え、建設反対を続けてきた漁協は条件付き賛成へ転じた。9年にわたり動かなかった交渉は、説得を重ねてではなく、計画の中身を譲ることで前へ動いた。海側へ移した立地点は、資材と燃料を海から直接運び入れられる場所でもあった[10]。
国が求める三つの要件を揃える
1981年9月、漁業補償協定が結ばれた。これにより用地取得、地元同意、漁業補償の妥結という、国が発電所建設計画に求める三つの要件が揃った。同じ時期に新潟県巻町で進んでいた東北電力の計画がこの三点を揃えられず、最終的に断念へ向かったことと比べると、泊の計画は立地点を動かした後に必要な手続きを一つずつ埋めていった過程にあたる[11]。
三要件が整った後の歩みは速い。公聴会の開催、知事の同意、電源開発基本計画への組み入れと進み、1984年6月14日に原子炉設置許可が下りた。着工は同年8月である。1969年9月の立地点決定から15年、1978年の計画変更からは6年が経っていた。難所は許認可ではなく、その手前の地元との合意にあった[12]。
結果
硬化した世論のなかでの運転開始
着工の2年後、1986年4月のチェルノブイリ原発事故が道内の世論を硬くした。1988年には「泊原発運転開始の可否を問う100万人署名実行委員会」が住民投票を求める署名運動を起こし、およそ80万人分の署名を知事へ提出した。知事はこれを受け入れず、1989年6月に1号機が営業運転に入る。出力57万9千kWの加圧水型で、道内初の原子力発電所であった[13][14]。
1991年4月には2号機が同じ出力で営業運転に入り、2基で北海道全体の電力需要のおよそ3割を担う電源になった。1997年のCOP3を受けて温暖化対策が課題となると、発電時に二酸化炭素を出さない原子力の重みが増し、3号機の増設が決まる。2009年12月、91万2千kWの3号機が営業運転を開始し、泊は3基で207万kWの規模に達した[15][16]。
- 寿楽浩太・大川勇一郎・鈴木達治郎「原子力をめぐる社会意思決定プロセスの検討——巻町と北海道の発電所立地事例研究」(社会技術研究論文集 Vol.3、2005年11月)
- 原子力百科事典ATOMICA「北海道電力泊発電所1号炉、2号炉訴訟の経緯(10-05-02-07)」(日本原子力研究開発機構)
- 北海道電力「泊発電所の概要」
- 北海道電力「泊発電所の立地地域のご紹介」
- 北海道電力における設備形成の経緯等(経済産業省 電力レジリエンスワーキンググループ 資料6、2018年10月25日)
- 日経ビジネス 1979年7月30日号「「北海道電力」噴き出したエネルギー無策のツケ」
- 会社年鑑1986年版(北海道電力・単独業績)