住友商事25年続いた商社設立禁止の撤回と、不動産会社を母体とした商事部門の開設
職を失う社員を抱えるか、祖訓を守るか——住友が自ら封じた商社をどう解禁したか
- 概要
- 1945年、住友本社の古田俊之助総理事が、1920年以来25年にわたり自ら封じてきた商社設立の禁令を撤回し、不動産会社の住友土地工務に商事部門を置いた経営判断。同社は同年11月に日本建設産業へ改称し、商事会社として新発足した。
- 背景
- 敗戦で軍需が消滅し、財閥解体で住友本社の解散が決まったため、住友系各社の社員が職を失う見通しとなっていた。住友には「浮利を追わず」の家訓があり、戦前は商事会社を手がけない方針が鉄則とされていた。
- 内容
- 新会社を設立せず、既存の住友土地工務の一部門として商事活動を始める形を採った。社長には竹腰健造専務が就き、商事部門を主宰する人選は全住友職員から3人の候補を挙げたうえで、住友金属工業取締役伸銅所副所長の田路舜哉氏に決まった。
- 含意
- 雇用の受け皿という守りの動機から始まった事業が、のちに住友グループ唯一の総合商社となった。ただし発足当初はグループ内で低く見られ、失敗すれば禁令を破ったこと自体が否定されるという緊張が、長く自己規制として残った。
筆者見解
禁令を解いた動機は攻めではなく守りであった。古田俊之助総理事が動いたのは商機を見たからではなく、職を失う社員をどこかに収容しなければならなかったからで、竹腰健造氏が事業転換を願い出た理由にも一人でも多く収容したいという考えが含まれていた。新会社を設立せず既存の不動産会社の一部門として始めた形にも、家訓を正面から破らずに実を取ろうとした加減がうかがえる。25年守った鉄則を、雇用という具体的な必要が上回った。
ただし、この出自は長く重荷でもあった。グループ内では無視同然に扱われ、頭を下げて仕事をもらう時期が続き、失敗すれば商社を作ったこと自体が誤りだったと言われるという緊張が社内に残った。のちに住友商事が長期の大型案件を避ける経営を選び続けた背景には、この時期に刻まれた自己規制が働いていたとみられる。守りから始まった事業が守りの流儀を身につけたことは、強みにも制約にもなった。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
自ら封じた商社という選択肢
住友財閥は1920年、総理事の鈴木馬左也氏が商社設立禁止を宣言し、以後25年にわたり商社事業への参入を自ら封じた[1]。三井が三井物産を、三菱が三菱商事を擁して総合商社の機能を確立するなかで、住友だけが商社を持たない財閥として事業を営んだ。背景には「浮利を追わず」の家訓があり、相場で利を得る商いと距離を置くことが、戦前を通じて鉄則として守られていた[2]。
のちに住友商事となる法人も、出発点は商社ではなく不動産会社である。1919年12月、大阪北港地帯の埋立と港湾修築を目的として資本金3,500万円の大阪北港株式会社が設立され、初代社長には鈴木馬左也氏が就いた。同社は1927年に住友合資の系列下へ入り、1944年11月に住友ビルディングを合併して住友土地工務へ改称、翌12月には長谷部竹腰建築事務所の営業を譲り受けて、土木建築の設計監理まで手がけていた[3][4]。
敗戦と財閥解体が突きつけた雇用
1945年8月の敗戦で状況が変わった。軍需が消滅し、財閥解体によって住友本社の解散が決まると、住友系各社に勤めていた多くの社員が職を失う見通しとなった。復員者と外地からの引揚者も加わる。鉱工業だけでは雇用を吸収しきれず、新たな事業領域を開くことが避けられない課題として本社に突きつけられた[5]。
もう一つの理由は、戦後の日本が立つべき道の見立てにあった。資源を持たない国が敗戦から生きていくには貿易のほかに道がない、という判断が本社幹部にあり、商事会社を持つ必要はここでも裏づけられた。禁令を敷いた側の論理は守りに徹する家訓であり、解く側の論理は雇用と貿易という現実であった[6]。
決断
新会社を作らず、既存の会社に部門を置いた
古田俊之助総理事は、25年続いた禁令の撤回を決断した。ただしその方法は新会社の設立ではなかった。住友土地工務という既存の不動産会社の一部門として商事活動を始める形を採り、1945年11月、同社は社名を日本建設産業へ改めて商事会社として新発足した。定款の事業目的には土木建築用資材その他各種製品の販売が加えられ、住友本社が解体にあたって各社へ返した販売権の受け皿となった[7][8]。
社長の交代も同時に決まった。社長を兼務していた住友本社常務理事の北澤敬二郎氏が辞任し、後任には竹腰健造専務が就いた。竹腰氏は住友ビルディングの建設で資材の買い付けから輸送までを一人で担った経験を持ち、事業転換にあたって土木建築用資材の売買を手がけたいと本社へ願い出ていた。職を失う人びとを一人でも多く収容したいという考えも併せ持っていた[9][10]。
商事部門を託す人選
商事の経験を持たない組織で、誰に部門を託すかが次の課題となった。人選は住友本社の経理部と人事部が協議し、全住友職員のなかから3人の候補を選んで意見を添え、常務理事会へ諮る手順を踏んだ。決まったのは住友金属工業取締役で伸銅所副所長の田路舜哉氏で、1945年12月11日に日本建設産業の常務取締役へ就任した[11]。
田路氏は就任から3週間後の1946年1月1日付で営業部を開設できるよう、組織と機構と人事を整えた。本店は大阪に置き、支店と出張所は閉鎖される旧業務所の場所を含めて全国に配した。1932年から6年間、住友上海洋行の支配人を務めた経験を持ち、役員のなかで唯一の商事活動経験者であった。常務時代から営業部員に「熱心な素人は玄人に勝る」と説いていた[12][13]。
結果
素人集団としての船出
人は集まった。1945年末の在籍人員は270名だったが、1948年末までに住友本社と連系各社から復員・引揚者を含む350名が転入し、合計720名となった。転入者の内訳は住友本社159人、住友金属工業106人、住友電気工業32人が上位を占める。人材の離散を防ぐという第一の目的はひとまず達したものの、商事活動については全員が未経験で、何から手をつければよいか見当もつかない状態であった[14][15]。
営業部が最初に手がけたのは、爆撃で埋没した住友金属工業伸銅所のアルミニウム板やジュラルミン板、枕崎台風の高潮で水没した住友電気工業の電線類を掘り出し、洗浄と手直しを施して売る仕事だった。物資が極端に不足していたため、こうした品はすぐに売れた。世評は厳しく、浮利を追わぬ社訓で育てられた住友の人間に商売ができるはずがない、そのうち潰れる、と冗談まじりに言われることもたびたびであった[16][17]。
グループ内の低い評価と、残った自己規制
住友グループ内での立場も低かった。住友銀行頭取などを務めた津田久氏は、住友系メーカーから無視同然の扱いを受け、頭を下げて仕事をもらわねばならなかったと振り返っている。禁令を破って生まれた部門であるという意識は社内にも強く、住友が300年かけて築いた社会的信用を傷つければ許されないという空気が、第一線の職員にも感じ取られていた[18][19]。
この緊張は自己規制として長く残った。暴走して失敗すれば商社を作ったこと自体が誤りだったと言われる、そうなってはならないと自らを戒め続けた、と津田氏は語っている。組織の形は早く整い、1947年1月の公職追放で竹腰社長ら3名が退任すると、3月27日の取締役会で田路氏が第2代社長に選ばれた。1949年8月に大阪・東京の両証券取引所へ上場し、1952年6月に社名を住友商事へ改めている[20][21][22]。
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「住友商事」の項
- 植村光雄「住友商事の現状と将来」(証券アナリストジャーナル 1969年 第7巻第6号)
- 日経ビジネス 1981年11月16日号「ケーススタディ 住友商事 「堅実か!冒険か!」矛盾をバネに快進撃」
- 住友商事 有価証券報告書【沿革】
- 住友商事社史