古田俊之助の商社禁令撤回(1945年・住友商事の決断)更新:2026/08/0325年続いた不動産会社を母体とした商事部門の開設1945年、住友本社の古田俊之助総理事が、1920年以来25年にわたり自ら封じてきた商社設立の禁令を撤回し、不動産会社の住友土地工務に商事部門を置いた経営判断。同社は同年11月に日本建設産業へ改称し、商事会社として新発足した。何をなぜ決めたか:25年続いた不動産会社を母体とした商事部門の開設概要1945年、住友本社の古田俊之助総理事が、1920年以来25年にわたり自ら封じてきた商社設立の禁令を撤回し、不動産会社の住友土地工務に商事部門を置いた経営判断。同社は同年11月に日本建設産業へ改称し、商事会社として新発足した。背景住友には"浮利を追わず"という家訓があり、戦前は商事会社を営まないという暗黙の決まりが保たれていた。ところが敗戦で軍需が消え、財閥解体により住友本社も解散が決まった。住友系各社の社員は、このままでは職を失いかねない状況に置かれた。内容新会社を設立せず、既存の住友土地工務の一部門として商事活動を始める方式を採った。社長には竹腰健造専務が就任し、商事部門を主宰する人選は全住友職員から3人の候補を挙げたうえで、住友金属工業取締役伸銅所副所長の田路舜哉氏に決まった。含意雇用の受け入れ先という守りの動機から始まった事業が、のちに住友グループ唯一の総合商社となった。ただし発足当初はグループ内で低く見られ、失敗すれば禁令を破ったこと自体が否定されるという緊張が、長く自己規制として残った。いつ何が起きたか7件筆者考察考察考察:雇用の必要が家訓を上回る禁令を解いた動機は攻めではなく守りであった。古田俊之助総理事が動いたのは商機を見たからではなく、職を失う社員をどこかに収容しなければならなかったからで、竹腰健造氏が事業転換を願い出た理由にも一人でも多く収容したいという考えが含まれていた。新会社を設立せず既存の不動産会社の一部門として始めた形にも、家訓を正面から破らずに実を取ろうとした加減がうかがえる。25年守った鉄則を、雇用という具体的な必要が上回った。ただし、この出自は長く重荷でもあった。グループ内では無視同然に扱われ、頭を下げて仕事をもらう時期が続き、失敗すれば商社を作ったこと自体が誤りだったと言われるという緊張が社内に残った。のちに住友商事が長期の大型案件を避ける経営を選び続けた背景には、この時期に刻まれた自己規制が働いていたのだろう。守りから始まった事業が守りの流儀を身につけたことは、強みにも制約にもなった。Yutaka Sugiura, 2026年8月概況参考文献参考文献参考私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「住友商事」の項植村光雄「住友商事の現状と将来」(証券アナリストジャーナル 1969年 第7巻第6号)日経ビジネス 1981年11月16日号住友商事 有価証券報告書【沿革】住友商事社史次に読む決断同じ問い:雇用の維持1957年UBEUBE石炭からセメント・化学への転身祖業から撤退したうえでの約7,000名の他部門への配置転換1957年1971年コニカコニカU-Bixで事務機参入電子複写機の投入に合わせた八王子工場のカメラからの転換1971年1976年パソナグループパソナグループテンポラリーセンター創業家事代行から事務派遣へ展開した人材サービスの立ち上げ1976年1945年ミズノミズノ闇取引の全面禁止軍需資材の転用による公定価格での事業再開1945年1945年南満洲鉄道南満洲鉄道ソ連軍管理の受け入れ終戦後の全社員の職場確守と全事業財産の管理・使用権の引渡し1945年住友商事の意思決定1981年住友商事住友商事10年超の案件を避ける原則10年以上の長期プロジェクトを手がけない原則の明示と、体力に見合った経営の徹底1981年1991年住友商事住友商事事業投資への転換「総合事業会社構想」——トレーディング依存から1991年×出所