住友商事10年以上の長期プロジェクトを手がけない原則の明示と、体力に見合った経営の徹底
売上競争に加わるか、体力の範囲に留まるか——後発商社が選んだ規模の抑制
- 概要
- 1981年に社長へ就いた植村光雄氏が、10年以上の長期プロジェクトには手を出さないことを原則として掲げ、投融資の可否を体力の範囲で償却できるかどうかで判断する方針を明示した経営判断。三菱商事や三井物産が大型の海外開発案件を抱えるなかで、住友商事は参画を見送り続けた。
- 背景
- 財閥解体後に発足した後発商社として、住友商事は資本の蓄積と海外の商権で先発2社に劣位を抱えていた。グループ内でも長く低く見られ、失敗すれば商社を作ったこと自体が否定されるという自己規制が働いていた。
- 内容
- 植村氏は決済の判断基準を、調査が十分か、筋が通っているか、採算がとれるか、採算がとれなくても体力の範囲内で償却できるかの4点に置いた。経営者は自分が在任中に結果の分かる事業以外を手がけるべきではない、という考えを長期案件回避の理由に据えた。
- 含意
- この規律のもとで1981年3月期は経常利益率で業界1位となり、有利子負債も5社中最小に収まった。一方で投資残高は三井物産の約3分の1、粗利益率は上位5社中最低に沈み、規模の抑制が収益基盤の薄さと表裏であることも示した。
筆者見解
植村光雄氏が長期案件を避ける理由に挙げたのは、市場の見通しでも資金繰りでもなく、経営者が在任中に結果を見届けられるかどうかであった。責任の取れる範囲に事業の時間軸を合わせるという考え方で、審査部を長く率いた人物らしい規律といえる。後発として商権も資本も薄いという条件のもとでは、これは弱者が選びうる数少ない合理的な構えであった。実際に1981年3月期の経常利益率は業界1位、有利子負債は5社中最小に収まっている。
ただし、同じ期の粗利益率は上位5社で最低に沈み、投資残高は三井物産の3分の1にとどまった。伊藤正副社長が体力作りと並行して大きな山に挑む時期だと述べたのは、この薄さを見てのことだとみられる。規律が守ったのは財務であって、収益基盤の厚みではなかった。2005年にアンバトビーへ踏み込んだ判断は、この積み残しに答えようとしたものと読めるが、そこで問われたのは原則を破ることの是非ではなく、破った先で同じ水準の審査を保てるかであった。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
後発商社が抱えた蓄積の薄さ
住友商事は財閥解体で職を失う社員の受け皿として発足した後発の商社であり、先進国市場では先発商社がすでに強固な商権を確保していた。後から入って商いができるのは中東や共産圏など、リスクの多い市場が中心となる。戦時下のイラクに対してグループ外のトヨタ車を毎年6万台も輸出した実績は、こうした経験の蓄積の結果であった[1][2]。
グループ内での立場も長く低かった。住友銀行頭取などを務めた津田久氏は、住友系メーカーから無視同然に扱われ、頭を下げて仕事をもらわねばならなかったと振り返っている。暴走して失敗すれば、商社を作ったこと自体が誤りだったと言われる——そう自らを戒め続けたという証言もあり、家訓の「浮利を追わず」を今日なお口にするのはグループ各社のなかで住商だけであった[3][4]。
成長志向とリスク回避の同居
屈辱に耐えるうちに、強い成長志向が社員の側に育っていた。本物の商社、一流商社になりたいと考え続けてきた、と津田氏は語る。三井物産はイランで失敗したが、あれで物産が倒れるとは誰も思わない——そういう商社になりたいという意識が、住商の成長を支えてきたという見方であった[5]。
一方で、事業が失敗した時のリスクを測る癖も組織に染みついていた。まず体力を測り、投資が短期資本の範囲内であるかどうかを最終的な基準に置く。長く審査部を率いた植村氏はこの点を強調していた。役員の意見は、三菱商事のブルネイ開発の成功を見てもっと積極的にやるべきだったとする反省型と、三井物産のイランIJPCの失敗を見て慎重な方針は正しかったとする現実肯定型に分かれていた[6][7]。
決断
在任中に結果の分かる事業だけを手がける
1981年に社長へ就いた植村光雄氏は、長期案件を避ける理由を経営者の責任の取り方として説明した。派手な大プロジェクトを狙う必要はまったくなく、そうすべきでもない。経営者としての責任を果たすためには、自分が生きている間に結果の分かる事業以外を手がけるべきではないとして、10年以上の長期プロジェクトには手を出さないことを原則にしていると述べている[8][9]。
判断の手続きも明示された。決済にあたっての基準は、調査が十分か、筋の通った話か、採算はとれるか、採算がとれなくてもやらねばならぬ事業については結果が裏目に出ても体力の範囲内で償却できるか、の4点である。この方針は今後も変える必要はない、と植村氏は言い切った。企業は何よりも体力と利益で見なければならない、という前提がその下にあった[10][11]。
規模を追わないが、順位は捨てない
規模の扱いには矛盾があった。売上競争ぐらい愚かしいことはない、と植村氏は言いながら、世間が売上高で商社をランク付けする以上は業界上位を目指さねばならない、とも述べている。社長就任前から業界上位3社入りを目標に「ビッグ・スリー」を掲げており、就任後はこれに「ベスト・ワン」を加えた。全員精鋭・全力投球主義を表した「Open Eyes on All」が当時のスローガンであった[12][13]。
組織の面では2年前の機構改革が効いていた。それまで堅実主義を象徴してきた強力な審査部を分割し、四つにまとめた統括部門のそれぞれに審査機能を持たせている。従来は営業する者と管理すべき者があったが、その意味でこの改革は一大転換だった、と業務部長の森田俊彦氏は述べた。審査を営業の側に配ることで、規律を保ちながら現場が動ける形を作った[14][15]。
結果
財務の健全さとして表れた成果
規律は数字に表れた。1981年3月期の売上高は前期比27.0%増と伸び、業界4位の丸紅を急追して、経常利益率0.38%で業界1位の座を占めた。有利子負債は910(10億円)で売上高に占める比率は0.94%にとどまり、三菱商事の1.39%、三井物産の1.89%、伊藤忠商事の1.48%、丸紅の1.54%と比べて5社中最小であった。不良債権を毎期積極的に償却してきた結果、資産の含み損も他社とは比較にならぬほど少なかった[16][17]。
資本の増強も進めた。前年6月に続いて1981年9月に4,000万株の公募を実施し、自己資本比率は6.5%前後に達して、1位の三菱商事にほぼ肩を並べることが確実とみられた。住友グループ各社との取引高が売買平均で16%と、5年前の19%から一貫して低下していたことも、グループに寄りかかった商社という見方が当たらなくなったことを示していた[18][19]。
規模の抑制が残した弱さ
一方で、蓄積の薄さは埋まらなかった。投資残高は1981年3月末で約1,264億円と三井物産の約3分の1にすぎず、プラント輸出の成約高も1980年度で2,000億円程度と三菱商事の3分の1程度、成約案件の平均は1件あたり10億円台にとどまった。粗利益率は1.59%と前期比0.24ポイント低下して過去10年間の最低となり、業界上位5社のなかでも最低に沈んだ[20][21]。
社内には反論もあった。体力がついてから大きなプロジェクトをやろうとしても間に合わない、体力作りと並行して大きな山に挑戦する時期に来ている、と伊藤正副社長は述べている。長期的な人材育成やソフトへの投資をと言われても余裕がないのが実情だ、という業務部長の言葉も残る。原則が転じるのは2005年で、住友商事はマダガスカルのアンバトビーへ参画し、回収に10年以上かかる資源案件へ踏み込んだ[22][23][24]。
- 日経ビジネス 1981年11月16日号「ケーススタディ 住友商事 「堅実か!冒険か!」矛盾をバネに快進撃」
- 日経ビジネス 1981年11月16日号「植村光雄社長は語る "商社斜陽論"など間違い どこにでも商いのチャンス」
- 植村光雄「住友商事の現状と将来」(証券アナリストジャーナル 1969年 第7巻第6号)
- 住友商事 会社年鑑(1986年版)
- 住友商事社史