ファーストリテイリングファーストリテイリング創業——宇部の駅前紳士服店「小郡商事」と長男・柳井正氏の飛躍

戦後の企業城下町で柳井等氏が開いた一軒の紳士服店は、いかにして全国衣料チェーンの母胎となったか

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時期 1949年3月
意思決定者 柳井正氏・柳井等氏(創業者) 社長
論点 地方紳士服店の創業と事業承継
概要
1949年3月、柳井等氏が山口県宇部市の宇部新川駅前商店街で紳士服店「メンズショップ小郡商事」を開いた創業。1963年5月に資本金600万円で株式会社化し、1972年に家業へ入った長男・柳井正氏が1984年6月にユニクロ1号店を開いて、地方の紳士服店を全国の衣料チェーンへと育てていった。
背景
戦後復興期の宇部市は宇部興産の石炭採掘と石灰石加工を基幹とする企業城下町で、駅前商店街は工員や職員の日常消費に支えられていた。柳井等氏はこの人通りと安定した顧客層に着目して紳士服小売を始め、商店街の中規模店として四半世紀を重ねた。
内容
1972年に早稲田大学を出た柳井正氏が家業に入り、宇部興産のリストラとモータリゼーションで商店街が衰える過程を身近に見た。1984年6月の社長就任と同時に祖業を分離して広島でユニクロ1号店を開き、翌1985年の下関ロードサイド店で低価格普段着の型を固めた。
含意
一軒の地方紳士服店が、家業を継いだ柳井正氏の業態転換を通じて全国企業の母胎となった。企業城下町の衰退を現場で見た経験が事業設計を規定し、1991年の社名変更と1994年の広島証券取引所上場へと連なっていった。
筆者の見解

町の紳士服店が残したもの

この創業が示すのは、事業の形そのものは後を継ぐ者の手でいくらでも姿を変えうるということである。柳井等氏が宇部の駅前で始めたのは、あくまで一軒の紳士服店であった。それを全国の衣料チェーンへ組み替えたのは、家業を受け継いだ柳井正氏が、祖業を守らずに別の業態へ賭けた選択の連なりであった。創業の値打ちは開業の一点にあるのではなく、そこで生まれた事業体が誰の手にどう引き継がれたかにあらわれるとみることができる。

もう一つ見落とせないのは、柳井正氏の事業設計が、宇部の商店街の斜陽を現場で見た経験から逆算されていた点である。企業城下町の一店舗が立ち行かなくなる過程を身をもって知っていたからこそ、車社会に合う郊外店や、価格を決めるための直接調達に早く踏み込めたとみられる。繁華街の失敗を郊外への転換で埋め、地方銀行一行への依存を長銀との取引と上場で解いていった歩みには、うまくいかない現実をそのつど組み替えていく粘り強さがうかがえる。宇部の一軒の店から始まった問いは、事業をどこまで作り替えれば生き残れるのか、という今日にも通じる問いへ接続している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

石炭の企業城下町に生まれた紳士服店

1949年3月、柳井等氏は山口県宇部市の宇部新川駅前商店街に紳士服店「メンズショップ小郡商事」を開いた[1]。当時の宇部市は宇部興産の石炭採掘と石灰石加工を基幹産業とする企業城下町で、駅前商店街は工員や職員の日常消費に支えられ、戦後復興期なりの賑わいを保っていた。柳井等氏はこの人通りと、宇部興産の従業員という安定した顧客層に着目し、駅前への出店を選んでいる。

柳井等氏は、仕入れと接客に徹した昔ながらの商売で店を育てていった。1963年5月には資本金600万円で小郡商事株式会社を設立し、個人商店を法人へと改めている[2]。もっとも商圏は駅前商店街の枠を一歩も出ず、長らく地方の中規模小売店の域にとどまっていた。

家業を継いだ柳井正氏と商店街の斜陽

1972年、早稲田大学を卒業してジャスコ(現イオンリテール)で9ヶ月ほど働いた長男の柳井正氏が、宇部に戻って家業に入った[3][4]。柳井正氏は入社ののち十年余りを父の補佐として過ごし、店頭と仕入れの現場を通じて商店街小売の実務を体で覚えていった。大手小売の内側を短い期間ながら見てきた柳井正氏には、商店街の一店舗に依存する商いの狭さが早くから見えていた。

最初のうち、小郡商事は商店街のなかで複数の店を構える発展途上の商店として動いていた。しかし1980年代に入ると、宇部興産のリストラとモータリゼーションによる客足の郊外流出が重なり、駅前商店街は目に見えて衰えていった。柳井正氏は後年この光景を、「本当に寂しい限りです。過去の話ですが、これが私の原点です」(商業界 2016/6)と振り返っている[5]

決断

一代で興した個人商店から長男・柳井正氏への承継

小郡商事は、のちに事業を全国へ広げる柳井正氏の父・柳井等氏が一代で興した個人経営の紳士服店であった[6]。国内メーカーから仕入れた背広やシャツを、駅前商店街の店頭で対面販売する昔ながらの小売で、宇部興産の従業員とその家族が主な客であった。派手な多店化を追わず、一軒の店を堅実に回す商いを、柳井等氏はおよそ四半世紀にわたって続けていた。

1984年6月、柳井正氏は小郡商事の代表取締役社長に就いた。就任と同時に、柳井正氏は父から受け継いだ紳士服事業をオーエス販売株式会社として分離し、自らは新しい業態の開拓へ経営資源を振り向けている[7]。四半世紀続いた家業の商いを守るのではなく、そこから離れた別の店づくりに賭けるという選択が、事業承継の節目に据えられた。

結果

ロードサイドが開いた低価格普段着の型

柳井正氏が開いた新業態が、1984年6月に広島市中区袋町で開業した「ユニクロ」1号店であった[8]。ユニーク・クロージング・ウェアハウスの名を掲げた低価格カジュアル衣料の店で、繁華街への出店であった。ところが賃料が高く、国内メーカー経由の仕入れでは原価率が想定を上回り、初年度から赤字が続いた。翌1985年、柳井正氏は山口県下関市郊外の幹線道路沿いに山の田店を開き、以後の展開を郊外ロードサイド型へ切り替えている。自動車を持つファミリー層に安くて質のよい普段着を週末のまとめ買いで届けるという、のちのユニクロの骨格がここで固まった。

郊外店で低価格を成り立たせるには、仕入れ値をどこまで下げられるかが要になる。柳井正氏はロードサイド転換の直後から海外調達に目を向け、韓国など新興工業国(NICS)の技術水準の向上を、来るべき調達先の広がりとして捉えていた(日経ビジネス 1986/2/17)[9]。1988年には香港に拠点を設け、中国のメーカーから直接買い付ける調達に踏み込んでいる[10]。もっとも当時は店舗数が足りず、大量発注に必要な規模にはまだ届いていなかった。

社名変更・長銀融資・広島証取上場

1991年9月、柳井正氏は商号を小郡商事から株式会社ファーストリテイリングに改め、年数店だった出店を年30店規模へ引き上げる急拡大へ転じた[11]。1店あたり6,000万円に及ぶ出店費用は土地・建物のリースで賄い、資産を極力持たない経営を徹底している。地方銀行が急拡大への融資を渋るなか、日本長期信用銀行広島支店が同社を有望なベンチャーと見て資金を付けた。柳井正氏は後年、「日本長期信用銀行広島支店とお付き合いができるようになり、他の銀行と違い、われわれをベンチャー企業の1種として認めてもらい、見込みがあると貸してもらえた。これで非常に助かった」(長銀総研L 1995/5)と振り返っている[12]

1994年7月、ファーストリテイリングは広島証券取引所に上場し、公募増資でおよそ130億円を調達した[13]。宇部の駅前で父・柳井等氏が始めた一軒の紳士服店は、創業から45年を経て、独立した上場企業としての資本を初めて手にしたことになる。広島証券取引所の吉田八郎上場部長は、「地域産業育成部銘柄制度をつくるなどして上場を働きかけており」(長銀総研L 1995/5)と、地域発の成長企業として同社を誘致した経緯を語っている[14]。上場で得た資金を土台に、翌年には中国沿海部の縫製メーカーとの委託生産へと進み、企画から販売までを自社で握る製造小売業の形が調達面でも整っていった。

出典・参考

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