赤字部門を抱えての多角化(1961年・旭化成の決断) 更新:2026/07/15 論点 繊維不況下の経営体制刷新と多角化戦略 売上高(億円)当期純利益率(%)データ出所 宮崎輝氏の社長就任と、赤字を許容してでも柱を育てる路線の始動 宮崎輝氏の社長就任と、赤字を許容してでも柱を育てる路線の始動 概要 1961年、繊維不況とアクリル繊維"カシミロン"の採算悪化で収益が急落するなか、宮崎輝氏が旭化成工業の社長に就任し、繊維事業の利益の範囲内で新規事業の赤字を計画的に許容する"健全な赤字部門"の経営方針を掲げた経営判断。 背景 合成繊維の供給過剰でレーヨン・ベンベルグの競争力が落ち、1959年に本格生産を開始したばかりのカシミロンも安定した収益源になっていなかった。旭化成工業は化繊だけに頼る経営の限界に直面していた。 内容 宮崎輝氏は繊維事業の合理化で得た利益を土台に、将来性と自社の実力を基準として新規事業を選び、赤字を伴う立ち上げ期を"健全な赤字"として許容する方針を明確にした。 含意 この方針のもとで新規事業の売上比率は1960年代を通じて拡大し、石油化学・住宅・医療機器へと広がる旭化成工業の多角化経営の土台となった。 いつ何が起きたか 5件 筆者の見解 赤字許容という手法の光と影 筆者の見解 赤字許容という手法の光と影 この決断の核心は、繊維という祖業の先行きに見切りをつけたことではなく、既存事業の稼ぐ力を土台として新規事業のリスクを計画的に引き受けた点にある。赤字そのものを敵視せず、全社の財務を壊さない範囲であれば新規事業の赤字を"健全"と呼び切った発想は、当時の日本の大企業経営としては異色であった。配当と株価に恵まれた時代からすでに危機感を抱いていた宮崎氏の判断が、その後の投資の規模と速さを支えたと思われる。 もっとも、この手法は撤退の基準を曖昧にする副作用もはらんでいた。新規事業の赤字を"健全"と位置づける発想は、いつまで許容するかという線引きを難しくし、後年の旭化成工業が抱える収益率の低さや事業整理の遅れにもつながった。宮崎氏の急逝後に選択と集中への転換が急速に進んだ経緯を思えば、1961年の決断は多角化企業としての旭化成工業の出発点であると同時に、その後長く向き合うことになる課題の種をまいた判断でもあったといえる。 Yutaka Sugiura, 2026年7月 参考文献 出典・参考読売新聞(1961年5月25日)ダイヤモンド(1964年6月29日)化繊月報(1967年3月)企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)証券アナリストジャーナル 1965年 第3巻第8号証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第12号読売新聞(1977年11月15日)旭化成 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】 旭化成の意思決定1946年日窒コンツェルンから独立母体からの分離と、旭化成工業への商号変更による再出発1961年赤字部門を抱えての多角化1968年水島コンビナート建設売上高に匹敵する1000億円を投じた石油化学への本格進出同じ問い:飛び地への参入1983年ヤマハマッキンゼー助言の事業部制導入事業部制導入と社長直結の指揮系統1991年アスキー映画・地域含む拡大路線採用創業メンバー2名の退任と引き換えに選んだ多角化への傾斜1961年鐘紡ペンタゴン経営による多角化グレーターカネボウ計画を掲げ、繊維・化粧品など5事業を柱に据える組み替え1961年任天堂ダイヤ交通など多角化の全敗トランプ専業を脱するための多角化とその全敗1961年日活ホテル・不動産への多角化映画斜陽論を退けた堀久作社長による本業外への資産拡大 × 出所