宮崎輝氏の社長就任と「健全な赤字部門」を柱とする多角化路線の始動

繊維不況で収益が急落するなか、旭化成工業はどこに次の柱を求めたか

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時期 1961年
意思決定者 宮崎輝 社長
論点 繊維不況下の経営体制刷新と多角化戦略
概要
1961年、繊維不況とアクリル繊維「カシミロン」の採算悪化で収益が急落するなか、宮崎輝氏が旭化成工業の社長に就任し、繊維事業の利益の範囲内で新規事業の赤字を計画的に許容する「健全な赤字部門」の経営方針を掲げた経営判断。
背景
合成繊維の供給過剰でレーヨン・ベンベルグの競争力が落ち、1959年に本格生産を始めたばかりのカシミロンも安定した収益源になっていなかった。旭化成工業は化繊だけに頼る経営の限界に直面していた。
内容
宮崎輝氏は繊維事業の合理化で得た利益を土台に、将来性と自社の実力を基準として新規事業を選び、赤字を伴う立ち上げ期を「健全な赤字」として許容する方針を明確にした。
含意
この方針のもとで新規事業の売上比率は1960年代を通じて拡大し、石油化学・住宅・医療機器へと広がる旭化成工業の多角化経営の土台となった。
筆者の見解

赤字許容という手法の光と影

この決断の核心は、繊維という祖業の先行きに見切りをつけたことではなく、既存事業の稼ぐ力を土台として新規事業のリスクを計画的に引き受けた点にある。赤字そのものを敵視せず、全社の財務を壊さない範囲であれば新規事業の赤字を「健全」と呼び切った発想は、当時の日本の大企業経営としては異色であった。配当と株価に恵まれた時代からすでに危機感を抱いていた宮崎氏の判断が、その後の投資の規模と速さを支えたとみることができる。

もっとも、この手法は撤退の基準を曖昧にする副作用もはらんでいた。新規事業の赤字を「健全」と位置づける発想は、いつまで許容するかという線引きを難しくし、後年の旭化成工業が抱える収益率の低さや事業整理の遅れにもつながった。宮崎氏の急逝後に選択と集中への転換が急速に進んだ経緯を思えば、1961年の決断は多角化企業としての旭化成工業の出発点であると同時に、その後長く向き合うことになる課題の種をまいた判断でもあったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

合繊業界の供給過剰と主力製品の競争力低下

旭化成工業は1950年代、レーヨンとキュプラ繊維「ベンベルグ」を主力に高い収益をあげていた。しかし1960年前後からポリエステルなど新しい合成繊維が急速に台頭し、化学繊維業界全体が生産設備の増設競争へ走った結果、供給過剰の色合いが強まっていった。1961年5月には、この業界の状況が新聞紙面でも取り上げられるまでになっていた[1]

旭化成工業が1959年に本格生産へこぎ着けたばかりのアクリル繊維「カシミロン」も、この時期にはまだ安定した収益源になりきれていなかった。カシミロンは1955年に技術を確立し1958年秋から市販を始めた新規事業で、原料のアクリロニトリル・モノマーまで自給する体制を敷いた、社運を賭けた製品であった。主力の繊維事業と育成途上の新規事業が、同時に収益の重荷を抱える状況にあった[2]

化繊だけに頼る経営の限界

合繊業界の供給過剰とカシミロンの立ち上がりの遅れが重なり、旭化成工業の収益は急速に悪化していった。宮崎輝氏は後年、社長に就任した経緯を振り返り、化繊だけに頼る経営の限界を痛感していたと語っている。「私が社長になった1961年ごろから、ポリエステルなどの合成繊維が本格的に市場に出てきた。それをみて、レーヨンやベンベルクの化繊だけに頼っていたら、うちはやがてダメになると思ったんです[3]」(ダイヤモンド 1964年6月29日)

宮崎氏の危機感は、実は収益が悪化する前から芽生えていた。好調で配当も株価も高かった時代からすでに、既存事業に安住することへの疑いを持ち続けていたという述懐は、繊維不況が単なる一過性の不振ではなく、事業構造そのものを見直す契機だったことを示している。「まあ旭化成は50年の歴史がありますが、先輩の遺産に安住して繁栄を謳歌した時代が長かった。配当は2割5分で株価が460円ぐらいしていた時代です。その時分からわたしは新しいことをやるべしと、しょっちゅう考えていましたよ[4]」(ダイヤモンド 1964年6月29日)

決断

事業選定の基準を明示した社長就任

宮崎輝氏は1961年、旭化成工業の社長に就任した。繊維事業の収益が急落するさなかの就任であり、社内には危機感が広がっていたと考えられる。宮崎氏自身、社長就任の前後を振り返り、化繊だけに頼る経営からの脱却を強く意識していたことを繰り返し語っており、就任と同時に新規事業への展開を経営の中心課題に据えた[5]

宮崎氏は、多角化にあたって何を選ぶかという基準を明確にしていた。「これは私がいつも言っておるのですけれども、企業で大事なことは何を選ぶかということです。これで勝負がつきます。しかしその選ぶときはやはり将来性のあるものでなければならぬ。また、自分の実力の範囲でなければならぬ」(化繊月報 1967年3月)という発言は、将来性と自社の実力という二つの物差しを新規事業選定の軸に据えていたことを示している[6]

「健全な赤字部門」という利益配分の仕組み

宮崎氏が掲げた方針は、繊維事業の合理化で確保した利益の範囲内で、新規事業の赤字を計画的に許容するという考え方であった。新規事業は立ち上げ当初に赤字を伴うのが常だが、全社の財務を揺るがさない範囲にとどめておけば、その赤字は将来の利益を生む投資として引き受けられるという発想である。実際、1964年度下期の決算では、新規事業に要した経費による赤字の増加分を、既存事業の利益で吸収したうえで最終的な利益を確保していた[7]

この方針のもと、旭化成工業は1960年代を通じて新規事業を次々に立ち上げていった。1960年度以降にはアクリロニトリル・モノマー、ナイロン、合成ゴム、建材、複合調味料「ミタス」を事業化し、既存の繊維・化成品事業の外側へ事業の版図を広げていった。カシミロンの立ち上げで得た経験は、その後に続く一連の新規事業の運営手法にも生かされたとみられる[8]

結果

新規事業比率の拡大と赤字部門の解消

「健全な赤字部門」の方針は、数字の上でも成果を残した。1955年度に売上高がゼロであった新規事業群は、1968年度には全社売上高の64%を占めるまでに拡大した。既存事業だけに頼っていた会社の姿は、10年余りで様変わりしていた[9]

先行したカシミロンをはじめ、建材のヘーベルや合成ゴムも赤字から黒字へ転じ、1968年度には非繊維部門全体で赤字を計上する事業がなくなった。既存事業の利益で新規事業の赤字を賄うという1961年以来の運営が、一巡した結果であったとみられる[10]

「化学メーカー」への転身と次の投資への地ならし

多角化の効果は、繊維不況が繰り返し訪れた1970年代にも表れた。1977年秋の合繊各社の中間決算では、旭化成工業を除く大手6社が軒並み経常赤字に転落するなか、旭化成工業だけが32億5400万円の経常利益を確保した。「非繊維部門の売り上げが53%で、『合繊メーカー』というより、同社自身が『化学メーカー』を自認している」(読売新聞 1977年11月15日)という評価は、1961年の決断から16年を経た旭化成工業の姿を映していた[11]

繊維の合理化益で新規事業の赤字を支えるという1961年の枠組みは、1968年7月の山陽石油化学設立という、より大きな投資判断の土台にもなった。旭化成工業の売上高に匹敵する規模の資金を投じる決断は、宮崎氏が1961年から積み重ねてきた多角化の実績と、事業選定の基準があってはじめて可能になったといえる[12]

出典・参考