京都セラミックの設立と、持株第4位の技術者が経営の実権を握るまで

所有では主導権を持てない27歳の技術者は、どの順序で発言力を手にしたか

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時期 1959年4月
意思決定者 稲盛和夫氏(取締役技術部長)・宮木男也氏(宮木電機社長)ら出資者
論点 技術者起業の資本構成と経営の主導権
概要
1959年、松風工業を退職した27歳の稲盛和夫氏が、宮木電機の宮木男也氏ら京都財界人の出資を受けて京都セラミック株式会社を設立した。資本金は300万円で、稲盛氏の持株は3,500株の第4位にとどまり、社長には出資者が就いて稲盛氏は取締役技術部長として発足した。稲盛氏が社長に就いたのは、量産と利益を積み上げた7年後の1966年5月であった。
背景
稲盛氏は松風工業でフォルステライト磁器の商品化や低温焼成アルミナ磁器の開発を手がけたが、1958年9月に同社を退職した。技術はあっても信用も資本もない技術者が会社を持つには、京都の実業家が個人の資力で株式を引き受け、借入を個人保証するほかなかった。所有の面では、創業者が主導権を握れる構成ではなかった。
内容
稲盛氏は設立当初、値段も納期も引き受けてから技術を開発する「ご用聞き」の受注を重ね、ブラウン管テレビ用の絶縁部品を松下電器向けに月産20万本で量産した。初年度に300万円の利益を出したところで税負担に驚き、税金を経費と捉え直して残りを再投資に回す資金の設計に切り替えた。
含意
稲盛氏は所有で経営を押さえるのではなく、先に量産実績と利益を立てて発言力を得る順序を選んだ。1966年5月に社長へ就き、1975年9月末には自己資本比率73.56%・長短借入金ゼロという財務に到達している。個人保証に依存した出発が、無借金の資本構成へ反転していた。
筆者の見解

所有を持たない創業者が実権を得る順序

この創業で目を引くのは、技術の当事者が持株第4位で、社長の椅子も出資者に譲ったまま会社を始めた点である。資金も信用も他人のものだった以上、稲盛氏に選べる手は限られていた。値段も納期も先に引き受けて技術を後から間に合わせる受注の取り方は、無謀にみえて、信用のない会社が取引の入口を開く数少ない方法であったとみることができる。所有で押さえられないなら稼ぎで示すという順序が、結果として7年後の社長就任につながっていったといえる。

もう一つ考えさせられるのは、税負担への驚きが資金の設計を変えた場面である。脱税を勧める声を退けて税金を経費と捉え直した判断は、精神論のようでいて、残った利益をどこまで積み増せるかという実務の設計に落ちていた。個人保証の1,000万円で出発した会社が16年後に借入金ゼロで金利を受け取る側に回った経緯は、その積み上げの帰結として読める。創業者が自社の株式を多く持たないまま経営を握る形が、その後の京セラの資本と経営の関係にどう作用したのかは、なお考える余地を残している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

松風工業を出た27歳の技術者

稲盛和夫氏は1955年に鹿児島大学工学部応用化学科を卒業し、京都市にあった碍子メーカーの松風工業へ入社した。同社ではフォルステライト磁器の商品化や低温焼成アルミナ磁器の開発を担い、新しいセラミック材料の分野で実績を重ねている。しかし1958年9月、稲盛氏は同社に見切りをつけて退職した。翌1959年、稲盛氏は27歳で京都セラミック株式会社の設立に加わることになる。技術と、それを事業にしたいという意欲だけを持って会社を出た形であった[1]

独立にあたって稲盛氏が持ち合わせていなかったのは、資本と信用の二つであった。会社を興す資金は、稲盛氏の技術を評価した宮木電機の宮木男也氏と西枝一江氏ら、京都の実業家が個人の資力で引き受けた。西枝氏は自宅を担保に銀行から個人で借入を起こして資金を融通している。技術者が会社を持つために、出資者の側が自らの財産を担保に差し出していた[2]

持株第4位の創業者という資本構成

1959年4月、京都市中京区の宮木電機の倉庫を借りた工房で、資本金300万円の京都セラミック株式会社が発足した。株式の内訳をみると、筆頭株主は宮木男也氏の4,300株で、技術の当事者である稲盛氏は3,500株の第4位にとどまっている。社長には出資者が就き、稲盛氏の肩書は取締役技術部長であった。会社の名義のうえでは、稲盛氏は自らが興した会社の一技術担当役員にすぎなかった[3][4]

資本金300万円は、工場を構えて量産に入るには足りない額であった。稲盛氏は後年、出資者に1,000万円を個人保証してもらって借り入れたと明かしている。会社の運転資金は、出資者個人の信用のうえに乗っていた。発足時に集まったのは27人で、宮木電機の倉庫の一角がその仕事場となる。所有でも資金でも出資者に依存する条件のもと、稲盛氏が動かせるものは技術と受注しか残っていなかった[5][6]

決断

引き受けてから開発する「ご用聞き」の受注

設立当初の京都セラミックには、製品を持って売り込みに行ける信用がなかった。稲盛氏は「こんなものがあったら助かるんだがなあ、といった品物はございませんか」と尋ねて回る受注の取り方を選んでいる。製品のセールスではなく、注文を先に聞き出すやり方であった。稲盛氏自身がこれを「ご用聞き」と呼び、技術的な裏付けが固まっていない案件でも引き受けてから開発に取りかかった。断れば縁が切れる会社の立場が、その順序を強いていた[7]

この受注の取り方が、創業期の主力製品を引き寄せた。稲盛氏は大手電子工業会社の新方式カラーテレビ用ブラウン管の支持絶縁物について、競合品を見せられて「もっとよいものを作れるか」と問われた際も、例によって引き受けている。値段は競争相手の3分の1程度で応じ、約束の2カ月後に納品した。ブラウン管テレビ用の絶縁部品であるU字ケルシマは、松下電器向けに月産20万本で量産へ入り、京都セラミックは創業の翌年から黒字を出した[8][9]

税金を経費と捉え直す

初年度の1960年3月期、京都セラミックは売上高2,600万円・当期純利益100万円を計上した。稲盛氏の記憶では、税引前で300万円の利益が出た決算であった。当時の稲盛氏は経理を知らず、個人保証をしてくれた出資者に迷惑をかけまいと、3年で借金を返せると見込んでいる。ところが税金が百何十万円かかり、配当も出すと100万円ほどしか残らない。この計算では返済に10年かかると分かり、稲盛氏は驚いたと後に語っている[10][11]

節税で手取りを守る道もあったが、稲盛氏はそこで発想を切り替えている。税金はもともと経費だと考え直し、残った分をどう伸ばすかを勝負どころに据えた。もうけの半分を税金で取られて割に合わないと考えていては中小企業のままで終わる、と稲盛氏はみている。稼いだ利益から税を引いた残りを積み上げて再投資に回す設計は、出資者の個人保証に頼らずに済む資金繰りへ会社を向かわせるものであった。稲盛氏は秘訣を問われても、最初の100万円、50万円を大事にして積み上げるほかないと答えている[12]

結果

1966年の社長就任と、無借金への反転

稲盛氏が社長に就いたのは、設立から7年を経た1966年5月であった。出資者が社長を務めた最初の7年のあいだに、京都セラミックは量産と黒字を積み上げている。所有の順位を動かして経営権を取りにいくのではなく、先に稼ぎを立てて発言力を得る順序であったとみることができる。設立14年目の時点では、資本金は設立時の約252倍にあたる7億7,000万円に、年間売上高は約430倍の112億5,600万円(1972年度)に達していた[13][14]

出資者の個人保証で1,000万円を借りて出発した会社は、財務の姿を反転させていった。1975年9月末時点の自己資本比率は73.56%、長短借入金はゼロである。稲盛氏によれば、同じ規模の企業なら70億〜100億円の借り入れがあってもおかしくなく、年12億〜13億円の金利を払う立場になる。京都セラミックはその逆に、年14億〜15億円の銀行金利を受け取る側にいた。1971年10月には大阪証券取引所市場第二部へ上場し、1975年12月2日の終値3,810円で株価は全国首位となっている[15][16]

27人の会社が残したもの

社員が2,200人に増えた1975年、稲盛氏は労使の関係について、最初に27人で肩を寄せ合って仕事を始めたときの信頼の輪を広げただけだと述べている。同年の春闘で稲盛氏が国際競争力を理由に賃上げゼロを提案したところ、社員側は留保した資金があるはずだと反論した。稲盛氏は、要求どおり払えば資金が不足して借り入れが必要になり、金利負担で経営内容が悪くなると説明している。結果は賃上げゼロ・ボーナス13.7%上乗せという着地であった[17]

株価が全国首位に立った時点でも、稲盛氏は創業のころとの断絶を認めなかった。大学を出た一介の技術屋として最低のところから出てきたため、16年前の町工場の片隅の時代といまとで本質は何も変わっていない、というのが同氏の説明であった。同氏がもっとも警戒したのは、苦しかった時期からちやほやされる立場に移るなかで自分自身が変節することであり、謙虚さを失って傲慢になっていないかを常に自戒すると語っている。持たざる出発を経営の基準として保ち続ける意図がうかがえる[18]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1975年12月8日号「未来進行形経営 しろうとこそ技術開発の担い手 稲盛和夫氏(京都セラミツク社長)が語る成長の秘密」
  • 日経ビジネス 1973年7月9日号「稲盛和夫・京都セラミック社長 技術開発 ご用聞きに不可能はない」
  • 私の履歴書 稲盛和夫(日本経済新聞社, 2004)
  • 京セラ社史(2000)
  • 京都セラミック 会社総鑑(1963年版・単独業績)

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