この創業で目を引くのは、技術の当事者が持株第4位で、社長の椅子も出資者に譲ったまま会社を始めた点である。資金も信用も他人のものだった以上、稲盛氏に選べる手は限られていた。値段も納期も先に引き受けて技術を後から間に合わせる受注の取り方は、無謀にみえて、信用のない会社が取引の入口を開く数少ない方法であっただろう。所有で押さえられないなら稼ぎで示すという順序が、結果として7年後の社長就任につながっていったといえる。
もう一つ考えさせられるのは、税負担への驚きが資金の設計を変えた場面である。脱税を勧める声を退けて税金を経費と捉え直した判断は、精神論のようでいて、残った利益をどこまで積み増せるかという実務の設計に落ちていた。個人保証の1,000万円で出発した会社が16年後に借入金ゼロで金利を受け取る側に回った経緯は、その積み上げの帰結として読める。創業者が自社の株式を多く持たないまま経営を握る形が、その後の京セラの資本と経営の関係にどう作用したのかは、なお考える余地を残している。