武井保雄氏は1930年1月に埼玉県深谷で生まれ[1]、1948年に深谷商業高校を卒業したのち[2]、父と兄を早く亡くして家業の酒屋兼雑貨商を継ぎ、その後は手形割引の会社に勤めた。1966年1月、東京都板橋区で個人向け金融の貸出業務[3]を始めた。1968年6月に有限会社武富士商事を設立し[4]、1974年11月にこれを組織変更して株式会社武富士商事とした。板橋・京橋・新橋・新宿・神田の首都圏5店舗と札幌支店[5]、あわせて6店舗での営業開始で、翌12月に商号を株式会社武富士に[6]改めた。武井保雄社長は1981年の取材で、不時の出費をまかなう生活密着の産業だと自社を位置づけた[7]。
独立した当初、客に丁寧に頭を下げて礼を言う[8]武井保雄社長は、同業者からなめられて踏み倒されると馬鹿にされたという。それでも、この商売は人情がなくてはできないという信念[9]を守ったと1981年の取材で語った。1960年代後半の団地金融時代には、子の卒業が近い客にもう少し借りずに頑張るよう助言した[10]こと、夫の借金で泣きついた妻と返済計画[11]を作ったことを、この商売の喜びとしてあげた。
店舗の展開は速く、1975年3月に仙台・名古屋、7月に新潟[12]、10月に福岡を開き、1976年2月に広島、4月に大阪・神戸、1977年2月に高松へと店を出した。創業から11年で東北・中部・北陸・九州・中国・関西・四国[13]を一巡した。1976年1月には店内業務の効率化のためコンピュータ[14]を導入した。1977年12月には株式の額面変更と組織の一元化を目的とする吸収合併でユタカ・ヤマトローンサービス[15]・東宝ローンサービスを統合し、西荻・船橋・赤羽・横浜の4店舗[16]を取得した。1978年2月からは店舗の呼称に『¥en shop[17] 武富士』を用いた。同年5月には本社を東池袋のサンシャイン60に移し[18]、東京・大阪の2支社を置いて支店を統轄させた。1981年6月末には貸出残高が1000億円を超え[19]、2位以下を引き離した。
1978年ごろ、マスコミが消費者金融業界に集中砲火[20]を浴びせたとき、武井保雄社長は最もつらい思いをしたと1981年の取材でふり返った。無茶な取り立てを防ぐため、借り手に生命保険をかけて[21]死亡後に遺族へ返済を求めない仕組みを作り、米国の同業にならって『凍結管理法』[22]も導入した。返済不能な人には最低1年間、請求業務[23]をしないという扱いである。それで事故率が上がったわけではなく、1981年の時点で1カ月以上の遅れは1.74%だった[24]。貸出の上限金利も、1978年初めの日歩28銭を1979年初めに19銭[25]、1981年に13銭へと段階的に下げてきた。
1981年の時点で武井保雄社長は、貸金業法案が成立すれば上場するつもり[26]だと述べ、監査法人による監査もすでに受け始めていた。武富士は1983年12月、貸金業の規制等に関する法律により貸金業者[27]として登録した。
批判のさなかでも武富士は拠点を増やし、1979年2月に札幌・名古屋・福岡、1980年8月に仙台、1983年9月に大宮[28]・広島の各支社を置いた。1976年1月のコンピュータ導入から[29][30]始まった機械化はこの時期に一段と進み、1983年11月に全国支店網オンラインシステムが稼働[31]し、1985年8月にはATMシステムが48台で動き出し[32]、1988年1月には第2次オンラインシステムへ切り替え[33]た。1984年7月には外資系消費者金融のジャパン・ハワイ・ファイナンスの全株式[34]を取得し、同年9月には本社ビルを東京都中央区八重洲に建てて移った。1989年5月に大宮・広島の2支社を閉じて6支社とし、同年8月には年利13.5%から17.5%の低金利無担保[35]の目的ローンを7種類発売した。武井保雄社長は1981年の取材で、いずれ住宅金融やクレジットに進出して総合信販業者に脱皮したいと語っており[36]、目的ローンの品ぞろえはこの方向にあたる。
1992年5月、武富士は本社ビルを東京都新宿区西新宿八丁目に[37]竣工して移転した。武富士が『¥enむすび』を導入したのは1995年10月[38]で、後発だった。1995年12月には金融機関・信販会社とのCD・ATM提携も始まり[39]、入出金の窓口は自社の店舗の外へ広がった。機械化は別の問題も招き、1997年2月下旬、東京地裁は現金自動貸付返済機での返済について[40]、債務者が約定の利息に納得して支払ったとはみなせないと指摘して、武富士に利息の一部返還を命じた。機械を使った返済は当時、武富士で62%、アコムで76%を占めており[41]、同社はただちに控訴した。
1996年8月、武富士は株式を店頭売買有価証券として[42]日本証券業協会に登録した。1998年12月に東京証券取引所市場第一部へ[43]、2000年3月にはロンドン証券取引所に上場した。
1998年9月にはアイルランドに再保険業のTSR CO.,LTD.[44]を設立した。1999年6月には金融業者の貸付業務のための社債の発行等に関する法律で特定金融会社等として登録し[45]、使途を限定されない社債の発行にも道が開いた。
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|---|---|---|---|---|
| 1966〜1989年板橋の一室から全国網へ——「サラ金地獄」批判と規制立法が営業の型を決めるまで | 武井保雄氏が個人向け金融の貸出業務を開始 | ★ | ||
| 武富士商事を設立 | ★ | |||
| 武富士商事を株式会社に組織変更 | ★ | |||
| 武富士に社名を変更 | ★ | |||
| 店内業務の効率化を図るためコンピュータを導入 | ★ | |||
| 創業から11年で全国の主要地方を一巡 | ★ | |||
| ユタカ・ヤマトローンサービス・東宝ローンサービスを吸収合併 | ★ | |||
| 全国支店網オンラインシステムが稼働 | ★ | |||
| 貸金業の規制等に関する法律により貸金業者として登録 | ★ | |||
| ATMシステムが稼働(設置台数48台) | ★ | |||
| 第2次オンラインシステムが稼働 | ★ | |||
| 低金利無担保の目的ローンを7種類(年利13.5%〜17.5%)発売 | ★ | |||
| 1990〜1999年無人契約機と株式公開——銀行が貸さない層への融資が最高益を生んだ10年 | 無人契約機「¥enむすび」を導入 | ★★ | ||
| 金融機関・信販会社とのCD・ATM提携を開始 | ★ | |||
| 株式を店頭売買有価証券として日本証券業協会に登録 | ★ | |||
| 無人契約機での1口座50万円上限の維持と、一人あたり貸付上限170万円の設定 1998年、消費者金融各社が1件あたりの貸付枠を100万円から300万円へ引き上げるなかで、武富士は無人契約機による貸付を1口座50万円に据え置いた。同年8月末には一人あたりの貸付上限を170万円(過去に実績のある優良顧客は230万円)と定め、社内からの緩和要求を武井保雄会長が退けた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 株式を東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | |||
| 株価が連日ストップ安 | ★ | |||
| 武井保雄氏が電気通信事業法違反の疑いで逮捕 | ★★ | |||
| ゴールドマン・サックスによる一族保有株買い取り提示の拒否 2004年秋、武富士の創業者・武井保雄前会長は、ゴールドマン・サックスによる一族保有株の買い取り提示を拒み、売却交渉は決裂した。提示価格は1株1万1500円から1万500円、8000円、そして市場価格を下回る6500円以下へと段階的に引き下げられていた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 2006〜2012年過払い金という遡及債務——過去に受け取った利息が返済義務に変わるまで | 最高裁第二小法廷が期限の利益喪失特約下の支払いの任意性を否定し原判決を破棄・差戻 | ★★ | ||
| 2007年3月期に4813億円の当期純損失を計上 | ★★ | |||
| 会社更生法の適用申請と、消費者金融事業のJトラストへの譲渡 2010年9月28日、武富士は東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請し、受理された。負債総額は4336億円、発行していた926億円の社債は債務不履行となった。消費者金融の大手が経営破綻に至った初めての例となる。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 東京地方裁判所が更生計画を認可 | ★★ | |||
| スポンサーのA&Pファイナンシャルが資金不足で撤退しJトラストが新スポンサーに選定 | ★ | |||
| 会社分割によりJトラストへ消費者金融事業を譲渡 | ★★ | |||
| TFKの清算が結了し法人格が消滅 | ★ |
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事実根拠:出所(武富士)