1966年〜 板橋の一室から全国網へ——「サラ金地獄」批判と規制立法が営業の型を決めるまで
- 1966年武井保雄が東京都板橋区で個人向け金融の貸出業務を開始
- 1968年有限会社武富士商事を設立
- 1974年有限会社武富士商事を組織変更して株式会社武富士商事を設立。板橋・京橋・新橋・新宿・神田の首都圏5店舗と札幌支店の計6店舗で営業を開始
- 1974年株式会社武富士に社名を変更
- 1976年店内業務の効率化を図るためコンピュータを導入
- 1977年株式の額面変更と組織の一元化のため、ユタカ・ヤマトローンサービス・東宝ローンサービスを吸収合併し、西荻・船橋・赤羽・横浜の4店舗を取得
- 1983年貸金業の規制等に関する法律により貸金業者として登録(関東財務局長(1)第00020号)。「サラ金地獄」批判を受けた規制立法のもとで営業する時代に入った
武富士の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
銀行が貸さない層に小口を貸すという一点
1966年1月、武井保雄氏は東京都板橋区で個人向け金融の貸出業務を始めた。埼玉県深谷の生まれで、団地に住む主婦を相手に小口の金を貸す商売からの出発である。1968年6月に有限会社武富士商事を設立し、1974年11月にこれを組織変更して株式会社武富士商事とした。板橋・京橋・新橋・新宿・神田の首都圏5店舗と札幌支店、あわせて6店舗での営業開始だった。翌12月に商号を株式会社武富士に改めている。無担保・無保証で個人に小額を貸すという業態は、当時「団地金融」と呼ばれていた。担保も保証人も取らないかわりに、貸す相手を見極める目と、滞った先から取り立てる手順の巧拙がそのまま損益に出る商売である。 [1][2][3][4]
- 有価証券報告書(第43期・2010年6月30日提出)
- [1]武井保雄氏は1966年1月に東京都板橋区で個人向け金融の貸出業務を開始した
- [3]1968年6月に有限会社武富士商事を設立し、1974年11月に株式会社武富士商事へ組織変更、首都圏5店舗と札幌支店の計6店舗で営業を開始した
- [4]1974年12月に商号を株式会社武富士へ変更した
- 週刊東洋経済 1999/4/3
- [2]武井保雄氏は1930年に埼玉県深谷で生まれ、1966年に東京・板橋区で金融業を開業した。「団地金融」から一代で消費者金融業の首位に立った
事業の輪郭は創業時から単純だった。銀行が相手にしない勤め人へ、担保も保証人も取らずに小額を貸す。武井保雄氏は後年、従業員30人以下の企業に勤める人が全労働者の7割前後を占め、その割合は自身が業界に入ってから変わっていないと述べ、そこに存在価値があると説明している。貸す相手を選ぶのではなく、選ばれずに残っていた層をそのまま市場として引き受けた形になる。ただしこの層は返済能力の把握が難しく、貸倒れの管理ができなければ商売にならない。武富士が磨いたのは金利の高さではなく、小口を大量に扱うための審査と回収の手順だった。 [5]
- 週刊東洋経済 1999/4/3
- [5]武井保雄氏は「日本の全労働者のうち、従業員数が三〇人以下の企業に勤めている人の割合は七〇%前後で、これは私がこの業界に入ってからあまり変わっていない。こういう層には銀行はなかなかカネを貸さない。ここに武富士の存在価値があります」と述べた
店舗の増やし方は速い。1975年3月に仙台・名古屋、7月に新潟、10月に福岡を開き、1976年2月に広島、4月に大阪・神戸、1977年2月に高松へと店を出した。創業から11年で東北・中部・北陸・九州・中国・関西・四国を一巡している。1976年1月には店内業務の効率化のためコンピュータを導入した。1977年12月には株式の額面変更と組織の一元化を目的に、ユタカ・ヤマトローンサービス・東宝ローンサービスの3社を吸収合併し、西荻・船橋・赤羽・横浜の4店舗を取得した。1978年2月からは店舗の呼称に「¥en shop 武富士」を用いている。 [6][7][8][9]
- 有価証券報告書(第43期・2010年6月30日提出)
- [6]1975年3月に仙台・名古屋支店、7月に新潟支店、10月に福岡支店を開店し、1976年2月に広島、4月に大阪・神戸、1977年2月に高松へ進出した
- [7]1976年1月に店内業務の効率化を図るためコンピュータを導入した
- [8]1977年12月にユタカ・ヤマトローンサービス・東宝ローンサービスを吸収合併し、西荻・船橋・赤羽・横浜の4店舗を取得した
- [9]1978年2月に店舗の呼称として「¥en shop 武富士」を採用した
- 有価証券報告書(第43期・2010年6月30日提出)
- [1]武井保雄氏は1966年1月に東京都板橋区で個人向け金融の貸出業務を開始した
- [3]1968年6月に有限会社武富士商事を設立し、1974年11月に株式会社武富士商事へ組織変更、首都圏5店舗と札幌支店の計6店舗で営業を開始した
- [4]1974年12月に商号を株式会社武富士へ変更した
- [6]1975年3月に仙台・名古屋支店、7月に新潟支店、10月に福岡支店を開店し、1976年2月に広島、4月に大阪・神戸、1977年2月に高松へ進出した
- [7]1976年1月に店内業務の効率化を図るためコンピュータを導入した
- [8]1977年12月にユタカ・ヤマトローンサービス・東宝ローンサービスを吸収合併し、西荻・船橋・赤羽・横浜の4店舗を取得した
- [9]1978年2月に店舗の呼称として「¥en shop 武富士」を採用した
- 週刊東洋経済 1999/4/3
- [2]武井保雄氏は1930年に埼玉県深谷で生まれ、1966年に東京・板橋区で金融業を開業した。「団地金融」から一代で消費者金融業の首位に立った
- [5]武井保雄氏は「日本の全労働者のうち、従業員数が三〇人以下の企業に勤めている人の割合は七〇%前後で、これは私がこの業界に入ってからあまり変わっていない。こういう層には銀行はなかなかカネを貸さない。ここに武富士の存在価値があります」と述べた
サラ金地獄批判のあとに残った、費用の四指標という規律
1983年から1984年にかけて、消費者金融は存立そのものを問われた。高金利と過酷な取り立てが「サラ金地獄」として社会的批判を浴び、貸金業規制二法が施行され、資金の出し手だった銀行が一斉に引き揚げた。ヤタガイクレジットの倒産をはじめ、業界は壊滅的な打撃を受けている。武富士も1983年12月、貸金業の規制等に関する法律により貸金業者として登録した。武井保雄氏は1999年の取材で、業界に入ってから33年のうち目標を達成できなかったのは1983年の一度だけだったと語っている。批判の年が、この会社にとっても唯一の未達年だった。 [10][11][12]
- 週刊東洋経済 1999/4/3
- [10]1983〜84年に高金利や過酷な取り立てが「サラ金地獄」として社会的批判を浴び、貸金業規制二法が施行され、資金源の銀行が一斉に引き揚げた結果、ヤタガイクレジット等が倒産するなど業界は壊滅的な打撃を受けた
- [12]武井保雄氏は「私がこの業界に入ったのは1966(昭和41)年で、今年は三三年目になりますが、目標を達成できなかったのは(「サラ金地獄」が社会問題化した)83年一回だけです」と述べた
- 有価証券報告書(第43期・2010年6月30日提出)
- [11]1983年12月に貸金業の規制等に関する法律により貸金業者として登録した(関東財務局長(1)第00020号)
規制のもとで生き残るために、この会社が握ったのは費用の四指標だった。広告宣伝費・人件費・調達金利・貸倒れの四つを、それぞれ営業収益に対する比率で管理する。広告宣伝費は営業収益の5%以内、人件費は13〜14%まで。武井保雄氏は、同業には広告宣伝費に15%を使う会社があると指摘し、その理由を、給料の差し押さえのような回収をすればイメージが落ちて広告費が高くつくからだと説明している。取り立てを緩めることと広告費を抑えることが同じ勘定でつながっている、という理解である。人員についても、武富士が4人で回す支店を12人でやっている会社があると述べた。金利水準ではなく費用比率が競争の場だった。 [13][14]
- 週刊東洋経済 1999/4/3
- [13]武井保雄氏は広告宣伝費・人件費・調達金利・貸し倒れの四つを重要な指標とし、広告宣伝費は営業収益の5%以内、人件費は13〜14%程度に抑えると述べた
- [14]武井保雄氏は同業他社に広告宣伝費を15%使う会社があるとし、その理由を「業者の中には、借りているお客様の給料を差し押さえたりするところがある。これだと貸したおカネの回収はできても、広告宣伝費が高くつくんです」と説明した。また支店運営について「うちが四人でやっているところを一二人でやっていたりする」と述べた
機械化も同じ年に始まっている。1983年11月に全国支店網オンラインシステムが稼働し、1985年8月にはATMシステムが48台で動き出した。1988年1月には第2次オンラインシステムに移っている。1984年7月には外資系消費者金融のジャパン・ハワイ・ファイナンスの全株式を取得した。批判と規制で業界が縮んだ時期に、武富士は店を減らさずに情報処理の側を作り替えていたことになる。1989年8月には年利13.5%から17.5%の目的ローンを7種類発売し、金利の低い商品にも手を伸ばした。 [15][16][17]
- 有価証券報告書(第43期・2010年6月30日提出)
- [15]1983年11月に全国支店網オンラインシステムが稼働し、1985年8月にATMシステムが稼働した(設置台数48台)。1988年1月に第2次オンラインシステムが稼働した
- [16]1984年7月に外資系消費者金融会社ジャパン・ハワイ・ファイナンスの全株式を取得した
- [17]1989年8月に低金利無担保の目的ローンを7種類(年利13.5%〜17.5%)発売した
- 週刊東洋経済 1999/4/3
- [10]1983〜84年に高金利や過酷な取り立てが「サラ金地獄」として社会的批判を浴び、貸金業規制二法が施行され、資金源の銀行が一斉に引き揚げた結果、ヤタガイクレジット等が倒産するなど業界は壊滅的な打撃を受けた
- [12]武井保雄氏は「私がこの業界に入ったのは1966(昭和41)年で、今年は三三年目になりますが、目標を達成できなかったのは(「サラ金地獄」が社会問題化した)83年一回だけです」と述べた
- [13]武井保雄氏は広告宣伝費・人件費・調達金利・貸し倒れの四つを重要な指標とし、広告宣伝費は営業収益の5%以内、人件費は13〜14%程度に抑えると述べた
- [14]武井保雄氏は同業他社に広告宣伝費を15%使う会社があるとし、その理由を「業者の中には、借りているお客様の給料を差し押さえたりするところがある。これだと貸したおカネの回収はできても、広告宣伝費が高くつくんです」と説明した。また支店運営について「うちが四人でやっているところを一二人でやっていたりする」と述べた
- 有価証券報告書(第43期・2010年6月30日提出)
- [11]1983年12月に貸金業の規制等に関する法律により貸金業者として登録した(関東財務局長(1)第00020号)
- [15]1983年11月に全国支店網オンラインシステムが稼働し、1985年8月にATMシステムが稼働した(設置台数48台)。1988年1月に第2次オンラインシステムが稼働した
- [16]1984年7月に外資系消費者金融会社ジャパン・ハワイ・ファイナンスの全株式を取得した
- [17]1989年8月に低金利無担保の目的ローンを7種類(年利13.5%〜17.5%)発売した