武富士無人契約機での1口座50万円上限の維持と、一人あたり貸付上限170万円の設定
他社が1件あたりの枠を300万円へ広げるなか、なぜ貸す額を抑えたままにしたのか
- 概要
- 1998年、消費者金融各社が1件あたりの貸付枠を100万円から300万円へ引き上げるなかで、武富士は無人契約機による貸付を1口座50万円に据え置いた。同年8月末には一人あたりの貸付上限を170万円(過去に実績のある優良顧客は230万円)と定め、社内からの緩和要求を武井保雄会長が退けた。
- 背景
- 無人自動契約機の普及で顧客層が広がり、消費者ローン残高は1997年末で6兆5179億円と10年前の3倍に膨らんでいた。一方で1998年には自己破産者が10万人を超え、貸倒償却率も5年前の2%前後から3%へ上がりつつあった。
- 内容
- 年率27.375%で50万円を貸した場合の月々の元利返済は約2万1000円だが、300万円なら月12万6000円になる。武井会長はこの数字を示して「本当にこんなおカネをお客様から回収できるのか」と社内に問い、上限の引き上げを認めなかった。
- 含意
- 貸付枠の抑制は残高の伸びを自ら抑える選択にあたる。それでも1999年3月期の経常利益は1696億円に達し、規模ではなく費用と回収の管理で利益を出す型が保たれた。ただし多重債務そのものへの懸念は、武井会長自身が同時期に口にしていた。
貸さないことで守れたものと、守れなかったもの
月々2万1000円と12万6000円という二つの数字を社内会議で並べたとき、武井保雄会長が見ていたのは残高ではなく、借り手の家計であった。300万円を貸せる相手は、300万円を返せる相手ではない——この区別を、成長の只中で、しかも社内の本部長が緩和を求めるなかで保ったことに、この判断の価値がある。同業が枠を広げて残高を積んだ1998年に、武富士は1件50万円を動かさず、一人あたり170万円という総額の線まで引いた。伸びを自ら削る選択であり、他社と同じ土俵に乗らないという宣言でもあった。
ただ、この規律が守ったのは貸倒れまでであって、会社ではなかった。武井会長が「今年か、来年にでも悪いことが起きなければいい」と語った危機感は多重債務者の増加に向いており、8年後に効いてきたのは、受け取った利息そのものを返せという司法と立法の判断であった。与信を厳しくしても、グレーゾーン金利で貸していた事実は変わらない。慎重に貸してきた会社ほど残高が積み上がり、返還債務も膨らむ関係にあったとみられる。回収可能性を突き詰める規律と、金利の合法性という前提とは、別の層にあったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
無人契約機が広げた市場と、増え始めた自己破産
1990年代後半の消費者金融は、無人自動契約機によって顧客層を広げていた。1993年7月にアコムが「むじんくん」の第一号を設置して以降、対面での審査がなくなり、夜間や土日にも契約できるようになって、借金に抵抗の薄い若い層が新たに市場へ入ってきた。消費者金融会社による消費者ローンの残高は1997年末で6兆5179億円と、10年前の3倍に膨らんでいた。上場していた大手4社はいずれも過去最高益を更新する見通しにあった[1]。
拡大の裏で、返済できない借り手も増えていた。1998年には自己破産者が一気に10万人を超えている。大手の貸倒償却率は5年前の2%前後から、高い会社で3%に達する見込みとなっていた。米格付け機関のムーディーズは1998年11月、貸出ポートフォリオが悪化傾向にあるとして、武富士とアイフル2社の格付けをそれぞれ1段階引き下げた。市場の伸びと信用の劣化が同時に進むなかでの判断であった[2]。
一社あたりの枠をめぐる業界の暗黙のルール
当時の業界には、顧客一人あたり「一社50万円×四社=200万円まで」という紳士協定があった。ところが競争が激しくなるにつれ、200万円を自社一本でまとめる会社が増えていく。1998年前半あたりから、同業各社は貸付の上限を100万円、200万円、300万円と順に引き上げていった。市場の飽和が近づくほど、一人あたりの残高を増やすことが成長の手段になっていた[3][4]。
枠の拡大は、市場の側から見れば自然な動きでもあった。野村総合研究所の調べでは、当時の消費者金融の顧客はおよそ600万人、潜在顧客は1800万人とされている。無人契約機で新規の借り手を取り込む余地が狭まれば、一人あたりの残高を積む以外に伸びる手立ては乏しくなる。同業が上限を引き上げたのは無謀というより、成長を続けるための合理的な選択であった。武富士が枠を据え置くことは、その合理性に背を向けることでもあった[5]。
決断
月々の返済額に引き直して社内を退けた
緩和を求めたのは外部ではなく社内であった。武富士の本部長までが武井保雄会長のもとへ来て、もう少し貸せるようにしてほしいと求めている。武井会長はまず「とにかく5月の店長会議まで待て」と時間を置いた。曖昧に扱えば裏口で貸す者が必ず出ると考え、そのうえで会議の場では数字に引き直して説明した。年率27.375%で50万円を貸せば月々の元利返済は約2万1000円になるが、300万円を貸せば月12万6000円になる、と[6]。
続けて武井会長は「君たちは本当にこんなおカネをお客様から回収できるのか」と問い返した。上限を上げれば残高は増えるが、増えた分を返せる借り手は増えない。武富士がここまで生き延びてきたのは一口座50万円を厳守してきたからだ、というのが会長の説明であった。貸せる額ではなく回収できる額から枠を決める、という順序をこの場で確認したことになる[7]。
一人あたり170万円という総額の縛り
1998年8月末、武富士は一人あたりの貸付を170万円までとし、過去に実績のある優良顧客に限って230万円までと定めた。1件ごとの枠に加えて、その顧客に貸してよい総額の側からも縛りをかけた形になる。武井会長は社内に対し、顧客は7件の業者から借りている可能性があり、きちんと返済できるのはそのうち2件だとして、その2件に入れと繰り返し説いていた[8]。
この縛りは、貸倒れを抑えるだけの措置にとどまらない。武富士の収益は、広告宣伝費を営業収益の5%以内、人件費を13〜14%に抑えるという費用比率の管理に支えられていた。強引な取り立てをすれば評判が落ちて広告費が膨らむ、という関係を武井会長は明確に意識している。返せない額を貸さないことは、回収の現場を荒らさないための前提でもあった[9]。
結果
枠を抑えたまま業界首位を保った一方で
枠を広げなかったことで残高の伸びは鈍ったはずだが、収益は落ちなかった。1999年3月期の経常利益は1696億円に達し、貸出残高は1兆円を超えている。時価総額は都銀中堅のさくら銀行・東海銀行に迫った。武井保雄会長は次の目標を2003年の自己資本1兆円と語り、当時4664億円だった自己資本を倍にする構想を示している。1件あたりの枠を絞ったまま、規模でも収益でも首位を保っていた[10]。
武井会長自身は、この時点で強い警戒を口にしていた。多重債務者の問題が深刻になっているとし、今年か来年にでも悪いことが起きなければよいのだが、と述べている。あわせて、返済に十数年かかる借り手とは和解して3年で債務を打ち切るという「三年足切り論」を主張した。貸し手の側から責任の線を引く案であり、業界内の自主規律として提起されたものであった[11]。
与信の規律では届かなかったもの
貸付枠を抑える規律は、貸倒れには効いても、後に会社を倒した債務には効かなかった。2006年に最高裁がみなし弁済の成立を事実上否定し、同年12月に改正貸金業法が成立すると、利息制限法の上限を超えて受け取った利息を返す義務が過去に遡って発生する。2007年3月期の武富士は4812億円の当期純損失を計上し、純資産は9736億円から4575億円へ半減した。返せる相手に返せる額だけ貸すという規律は、貸した金利そのものが否定される事態を想定していなかった[12][13]。
与信の管理そのものが機能を失ったわけではなかった。会社更生法を申請する直前の2010年3月期でも、営業収益1203億円に対して経常利益332億円を確保している。貸した相手が返せなくなって傾いたのではなく、貸した条件が後から否定されて債務が生じた。50万円という枠を守り続けた規律は、想定していた種類のリスクに対しては最後まで働いていた[14]。
- 週刊東洋経済 1999年4月3日号「[特集]消費者金融の真実 業界は淘汰に向けて動いている インタビュー 武富士会長 武井保雄」
- 週刊東洋経済 1999年4月3日号「[特集]消費者金融の真実 なぜ儲かる? 異色のニュー金融軍団」
- 武富士 有価証券報告書(第43期・2010年6月30日提出)